福聚講

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浄土教と密教(栂尾祥雲)・・・その2

2014-10-15 | 法話
浄土往生の思想が印度に成立したのは末法思想に負うところが多いようである。支那においても北斉のころからこの末法思想が盛んになると共に、これに心酔するものも続出し、特に唐の道綽 や善導などにいたっては時教相応の要を主張し、正法もしくは像法の時代をすぎて末法の世となれる今日では衆生の根機、漸次低下し、成仏の行証など到底不可能であるから誰人にも入り易く、行い易き末法思想の教法としてすでに実在せる西方極楽浄土の往生を勧説鼓吹し、これをわが国の良忍や法然や親鸞等の諸氏が継承して各々に一宗を開創したのが我が国のいわゆる浄土教である。

しかるに我が密教ではかの大師が「人法は法而である。興廃いずれの時ぞ。機根絶絶たり。正像なんぞわかたん」とお説きになったごとくに、まったく常恒現在主義に立脚し、浄土教にいふような末法思想を認めないのであるから、等しく西方極楽浄土といってもその見方を異にし、密教のそれが観照の浄土であり、己心の浄土であること、「三昧の法佛は本よりわが心に具せり。乃至、安楽・都史・本来胸中」(性霊集)なる大師の語によるもあきらかである。

この観照の浄土をいかにして顕現するのか、もしくは、実在世界としての浄土往生はいかにして可能なりやといふと、それは、その浄土の教主たる佛を専念し、憶念すること、すなはち、念仏といふことが主眼になっているのである。その念仏も、観照世界としての浄土観からすると、仏の相好なり、特相なり、活動なりをあらゆる方面から、観察し思念することで、『大智度論』によると初めに、佛の十号を念じ、次に佛の三十二相八十種好及び、神通功徳力を念じ、次に仏の戒・定・慧・解脱・解脱知見の五部法身を念じ、次にまた、佛の実相を観ずるための実相観念とを広く説いている。


これらの念仏によりて佛の姿が行者の眼前に顕現するようになるのがいはゆる般舟三昧、換言せば一切諸仏現前三昧、もしくは佛立三昧である。この佛と共に、その背景をなせる浄土をも、共に観見し、現前せしむるようにするのが密教の道場観であり曼荼羅である。



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