超昇寺
超昇寺
(已下、密教大辞典等による)
生駒郡都跡村(奈良市)にあった寺。超勝寺とも書く。此の地もと孝謙帝の内裏楊梅(やまもも)宮のありし所にして、平城天皇この地に御したまふ。帝の第三皇子高丘親王は嵯峨天皇の皇太子たりしが弘仁元年藤原仲麻呂の乱に座して廃せられ、その末年弘法大師の門に入りて出家し、名を真如と改め、平城天皇旧宮の地を賜り、此処に一寺を創建して金剛界の五佛を安じ、超昇寺と称す。貞観二年十月には不退寺と共に水田五十五町 四段を施入せらる。次いで真如法新皇の弟子壹演(注1)は藤原良房の病を祈りて験あり、仍て當寺座主となる。正暦年中(10世紀興福寺の)清海、この寺に入りて精勤して香煙中に五六寸の弥陀像を感得し念仏堂をたてて之をを奉安し、天正年中井戸若狭の兵焚に遭ひ、寛文・延宝の頃まではわずかに一宇の板庇に大日如来を安置して其の名残を留む。宝永六年1709八月護持院隆光當寺に隠棲せしが後ついに廃寺となり今歓喜寺(真宗本派)に超昇寺薬師三尊・隆光念持佛不動明王等を存す。
超昇寺縁起・付神宮山の事
「超昇寺は平城天皇の皇子、真如法新皇の御建立なり。この新皇は嵯峨天皇と平城天皇の御戦の後、かざりを落として入道ましまし、弘法大師の御弟子となり造り給ふ御寺なり。其の後、清海といふ道人、もとは常陸の国の武士なりしがこの寺に篭居して念仏し浄土の曼荼羅を感得せし霊地なり。されどもいつのころよりか悉く破滅して民屋の地となり、わずかに一間ばかりの板庇のうちに、むかしの大日如来ましますとなり。
一、超昇寺戌亥の方に、神功皇后の陵あり。世に神宮山と名付く。いにしへ皇后筑前の香椎の宮にて崩御したまひ、御遺勅にて金棺に入れ、椎の木の枝上に置き奉り、其の後三年して此処に葬りたてまつるよし。御廟の傍に草庵の観音堂有。此の堂守、あさきよめなともするよし。」
(注1)壹演。平安前期の真言僧。京都の人。内舎人となったが,二兄の死にあい出家。薬師寺の戒明に従い具足戒。以後『金剛般若経』の読誦を続けた。真如から密教を学び,真如の創建した奈良・超昇 寺の座主となる。皇太后藤原順子,太政大臣藤原良房の病気平癒に功があり,貞観七(865)年に権僧正。無欲で住所不定一定。市井や船に身を寄せたが,一老女から土地を与えられ,良房の援助を受けて同八年,山城に相応寺を建立した。翌年貞観九年七月十二日船上で遷化。壽六十五。薬師寺で供養が行われた。諡は慈済。