福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

法華転(良寛)

2024-04-12 | 諸経

法華転

 

開口転法華、閉口転法華、如何が法華転、合掌して曰く南無妙法蓮華。

 

序(序品第一。霊鷲山に釈尊がおられたとき、諸菩薩・諸天・十大弟子三迦葉等が集まっていた。釈尊は白豪相から光明をはなたれて、六道輪廻の世界を照らし出されたので弥勒菩薩は文殊菩薩に、その理由を尋ねると文殊菩薩は、「今から『法華経』を説かれるのでしょう」と答える。)

幾多の光明、光明を放つ、打失す瞿曇(釈迦)の鬼晴眼、信に道(いは)む東方万八千、依然として法界の中央に在りと。

山河大地及び人畜、目を挙ぐれば迥然(はるか)として埃塵を絶す、自ら錯りて逸多の問を惹きてより、話頭端なく九垓(天地のはて)に落つ。

或は発心し或は修行す、瞿曇の毫相凡そ幾枚ぞ。弥勒の疑着尚未だ了せざるに文殊は道取し早到来すと(序品に「爾の時に弥勒菩薩是の念を作さく、今者世尊、神変の相を現じたもう。何の因縁を以て此の瑞ある。今仏世尊は三昧に入りたまえり。是の不可思議に希有の事を現ぜるを、当に以て誰にか問うべき、誰か能く答えん者なる。復此の念を作さく、是の文殊師利法王の子は、已に曽て過去無量の諸仏に親近し供養せり。必ず此の希有の相を見るべし。我今当に問うべし」とあり)。

一箇は高々たる峯頂に立ち、一箇は深々たる海底を行く、主となり伴となる、弟と兄、引弄す諸法一如の聲。

古佛の法華今転ず、転じ終わり転じ来りて益々高簡なり。正に転じ転じて百千度するも初中後善法華転。

風冷ややかにして酒醒むること疾く、荷深うして舟の行くこと遅し。囙って証す七佛師、本の光瑞は斯の如し。

 

方便(方便品第二。『法華経』の前半の中心は、この方便品とされる。方便品では、お釈迦様は舎利弗が三請したのに対し「諸法実相」を説かれる)

各人の修証は分るるなきにあらざれども、底事(なにごと)ぞ此の行の嘆嗟頻りなる。従他(さもあらばあれ)鶖子(舎利弗)機に投ずるの問、輸却(負かされる)す五千退(「方便品」で舎利弗が開悟したのとは反対にその場で五千の増上慢が退座した。)

 

如是性相・如是体、蘭に秀あり、菊に香あり。看よ看よ法華開敷の日、唯貞實のみありて糟糠なきを。(諸法実相とは「所謂諸法の如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等なり」)

已に思量の境涯なし、孰か寂黙を以て幽致を誇らん。正に道はむ、止みなん止みなん、須らく説くべからず、と。復た道はむ我が法は妙にして思ひ難しと。(方便品に「又舎利弗に告げたまわく 無漏不思議の 甚深微妙の法を 我今已に具え得たり 唯我是の相を知れり 十方の仏も亦然なり。舎利弗当に知るべし 諸仏は語異なること無し 仏の所説の法に於いて 当に大信力を生ずべし」とあり) 

十方の佛土何ぞ早堪へむ。唯一乗ありて好し羞恥するに。従他五千の退席を誇るも我道はむ霊亀久し。

三を会して一に歸し、日西に斜く、一を開きて三と為し雁沙に哢る。箇中の意旨若し相問ば法華従来より法華を転ず。(方便品に「十方仏土の中には 唯一乗の法のみあり 二なく亦三なし 仏の方便の説をば除く 但仮の名字を以て 衆生を引導したもう 仏の智慧を説かんが故なり」)

一を開いて三と為す、栴腮の白、三を会して一に歸す柳眼の翠、人有りて若し此の中の意を問はば実に涙痛腸の裏より出でん。

渓聲は惜しまず微妙の音、山色豈に清浄の姿を蔵さんや。吾も亦而今是の如く説ん、便ち是の古佛の説法儀を。(正法眼蔵第二十五 谿聲山色「阿耨菩提に傳道受業の佛おほし、粉骨の先蹤不無なり。斷臂の宗まなぶべし、掩泥の毫髪もたがふることなかれ。各各の殼うるに、從來の知見解會に拘牽せられず、曠劫未明の事、たちまちに現前す。恁麼時の而今は、吾も不知なり、誰も不識なり、汝も不期なり、佛眼も不見なり。人慮あに測度せんや。

大宋國に、東坡居士蘇軾とてありしは、字は子瞻といふ。筆海の眞龍なりぬべし、佛海の龍象を學す。重淵にも游泳す。曾雲にも昇降す。あるとき、廬山にいたりしちなみに、溪水の夜流する聲をきくに悟道す。偈をつくりて、常總禪師に呈するにいはく、谿聲便ち是れ廣長舌、山色淨身に非ざること無し、夜來八萬四千偈、他日如何が人に擧似せん。

この偈を總禪師に呈するに、總禪師、然之す。總は照覺常總禪師なり、總は黄龍慧南禪師の法嗣なり、南は慈明楚圓禪師の法嗣なり。・・」)

 

譬喩(譬喩品第三。ここでは三車火宅の譬喩が説かれまたお釈迦様御出世の因縁が語られます。「今この三界は、みなこれ我が有なり。その中の衆生は悉くこれ我が子なり。しかも今この処は諸々の患難多し。ただわれ一人のみよく救護をなす」)

三界及び六道 輪転す一乗の車、看よ看よ疾きこと鳥の如し。去々誰が家に向ふ。

作者浪りに羊鹿牛を説き、痴子驚喜して太だ端なし。十方三世唯一門、知らず外に向いて競ひ馳奔するを。(譬喩品に「汝等が玩好するところは希有にして得難し。汝若し取らずんば後に必ず憂悔せん。此の如き種々の羊車・鹿車・牛車、今門外にあり、以て遊戲すべし。汝等此の火宅より宜しく速かに出で来るべし。汝が所欲に随って皆当に汝に与うべし。

 爾の時に諸子、父の所説の珍玩の物を聞くに、其の願に適えるが故に、心各勇鋭して互に相推排し、競うて共に馳走し争うて火宅を出ず。」)

 

昔日の三車のみ空しく有り、今日の一乗實も亦休す。意気のあるときは意気を添ふ。風流浅き処最も風流。

 

信解(信解品第四。四大声聞の須菩提、迦旃延、迦葉、目連の領解が、「長者窮子の譬え」として示さる。)

昔より以来一乗に接し今日始めて真仏子を知る。如来は意に宝蔵を惜しむなきも只だ是れ諸人体する能はず。

邑より邑に至り城また城、展転傭賃して此の身を嘆ず。自家の珍宝すべて抛捨し、甘んじて他国伶俜(レイヘイ. さまよふ)の人となる。

手に白拂を把り左右に侍らせ、獅床に端居して気王の如し。窮子は是れ我が父なるを知らず。故らに門外に在りて経営を作す。

或る時は山林、或る時は空沢、二十年前曾って苦辛す。而今無上の大寶を獲て逍遥して信(まこと)に物外の人と為る。

 

薬草喩(薬草喩品第五。先の信解品第四において、須菩提・迦栴延・摩訶迦葉・目連の四大声聞は「長者窮子のたとえ」をもって、自分たちが理解した内容を示した。これに対し、四大声聞の理解が正しいことを、三草二木の喩をもって教えられたのが「薬草喩品第五」である。)

密雲垂布して大千を覆ひ、法雨注澍して洽(あまね)く未央(いまだつきることなし)。然く彼々相知らずと雖も大小の草木各馨香し。

 

授記(授記品第六。信解品で自分たちの理解を「長者窮子の喩え」に託して語った迦葉、須菩提、迦栴延、目連に授記が与えられる。)

授記作物は家常の事、超悟越迷機梭(きさ)なし。河裏に銭を失して河裏に漉し、東家に馬を借りて東家に還す。

 

化城喩(化城喩品第七。前の「授記品」の最後に「我及び汝等が宿世の因縁、我、今当に説くべし」とあるのを受けて仏弟子たちの宿世の因縁を説く。「化城喩品」と言われるのは、この品の最後に宝処(一乗成仏)を求めて旅をするもの達が疲れた為に途中で方便として化城(三乗)を出す喩えが説かれるから。)

十劫道場に坐するも佛法は現前せず。好箇の時節子、等閑に看ることを為す莫れ。

(化城喩品に「大通智勝仏は、寿五百四十万億那由佗劫なり。其の仏、本、道場に坐して、魔軍を破し已って、阿耨多羅三藐三菩提を得たもうになんなんとするに、而も諸仏の法、現在前せず。是の如く一小劫、乃至十小劫、結跏趺坐して身心動じたまわず。而も諸仏の法猶在前せざりき」)

十劫を過ぎ了りて佛法現前にあり、将に奇特の事を謂はむとす、元来只這般(しゃはん・このたび)と。

険道・崎嶇之に易からず、況や又曠絶無人の地、明達の師に値ふに非ざるよりは、幾人か此に到りて轡を還さざる。

為に中路に於いて化城を立つ、園林浴池意に随って用ふ。寶処此を去る殊に遠からず。帰去来同道衆。

 

五百弟子(五百弟子品第八。五百の阿羅漢が授記されたのち領解をし、自分たちが了解した真理を衣裏宝珠の喩えで示した)

半千の尊者去りて騰騰、人間・天上等匹(とうひつ・比べるもの)罕(まれ)なり。国土・名号並びに寿量と、同道、同行、同作佛。

窮子は知らず衣内の珠、資生幾年か艱難を喫す、今朝忽ち親友の語に囙(よ)り記し得たり当年置酒の縁。

 

授學無學人記(授學無學人記品第九。下根の学・無学の二千人の声聞に対して、「仏記」をお授けになる。)

空王佛の時同じく発心し或は精進を楽ひ、或は多聞、然かく彼に遅速あるに似たりと雖も、此中何ぞ曾って疎親を論じたる。

先んずる者は己を度すに非ず、後るる者は路を滞るに非ず。借問す箇中の人、寧んぞ箇中の趣を知るや。

 

法師(法師品第十。如来の滅後にこの法華経を説くものはすべて代受苦の菩薩である。故に大慈悲心という如来の室に入り、柔和忍辱心という如来の衣を着、一切法空という如来の座に坐して法を持つことが必要である。)

若し読誦し若し書写し若し是の人を見ば空しく過ごすこと莫れ。此の処に当に七宝の塔を起つべし。高さは梵天に至り香華を奉れ。

空を座と為し慈を室と為し、等閒に掛著す忍辱の衣、消容回顧して無所畏は 栴檀林中の獅子児なり。

 

見寶塔(見寶塔品第十一。多宝如来が宝塔と共に地中より出現し空中へと浮かんだ。この時、娑婆世界が一仏国土となり十方の諸仏菩薩が霊鷲山へ来集され、お釈迦様はその宝塔を開き、その中に坐された。十方世界のすべてのもの、霊鷲山に集まった弟子たちも虚空へのぼった。お釈迦様は大音声をもって法華経の付属を請われる。)

十方化佛聚会の時、宝樹荘厳すること凡そ幾重ぞ、人天暫く他の土に移され、今に到るも斫額(遠くを見る)すれば遼空に望まる。

無中に路あり塵埃より出、同道唱和すること幾箇なるを知らず。宝塔湧出す千由旬、周帀せる欄楯光輝あり。

大地変じて一佛土と為り、遼空仰ぎ見る二如来、汝達諸人能く体取せよ。法華に付さんと欲せば今其の時ぞ。

 

提婆達多(提婆達多品第十二。釈尊はかつて王であった時、長い間、法華経を会得したいと努力していた。ある時、阿私仙人に出会い長く給仕し大法を得、成仏することができた。そのときの大王とは釈尊であり、仙人とは今は逆賊とみなされている提婆達多であった。本来、善悪はない、これが知識である。この功徳で提婆達多は無量劫をすぎて天王如来になった。また八歳の龍女が成仏した姿も説く。)

妻子珍宝已に拠ち来り、菓を採り水を汲んで此の身を送る。求道の志気は古是の如し。吾何人ぞ謾じて逡巡せんや。

劫説・刹説・微塵説、海中唯妙法蓮華を説く。八歳の龍女頓に成仏し、雪眉の老僧頻りに嘆嗟す。

一果の明珠賈大千、持して佛陀に献ず詎(なん)ぞ蒼卒(にわか)なる。師資妙契す奉と納と。誰人か此間に到り髪を容んや。

相好誰人か良に有らざらん。休めよ男女を以て謾りに匹等するを。等閑に分に随へば容は些々たり。当処の南方は無垢の境。

龍女は呈せんと欲すれども珠なく、鶖子(舎利弗)は将に辨ぜんとして辞を喪ふ。閑庭寂々として葉落ち、遼空嗷々として雁啼く。

 

勧持(勧持品第十三。釈尊は、摩訶波闍波堤比丘尼、耶輸陀羅比丘尼へ、一切衆生喜見仏・具足千万光相仏として授記された。その時、八十万憶那由多の菩薩は、仏の滅後、悪口罵詈・刀杖を加えられても、忍んで法華経を説くことを誓った。)

獅子土窟に嚬呻するの時、百獣隊を為して何の処にか之く。柳は緑を弄し花は紅を弄す。付属して在るあり復た何をか思はむ。

 

安楽行(安楽行品第十四。文殊菩薩は悪世にこの法華経を説くためには、どのような行が必要なのかを釈尊に問う。釈尊は身安楽行・口安楽行・意安楽行・誓願安楽行の四つの行法を示された。)

三世の雄と七佛師(文殊菩薩)と、途を廻って手を垂れ太だ慇懃なり。語を寄す諸方の同道子、暫時も措くこと莫れ行と願とを。

衲僧(禅僧)の命脈は祖師の髄、片時も同死の人あらず。任重くして路遠し通塞の際(正法眼蔵・四禅比丘に「なんだちが所見すべて仏法の通塞を論ずるにたへず」)、勉めんかな四安楽行の人。

然別して色に呈せずと雖も、乃昼乃夜光粲然たり、輪王は獲ず髻中の珠、只是人天のみ能く受遅す。

 

従地湧出(従地湧出品第十五。釈尊は、妙法付属に値する六萬恒河沙等の菩薩を示される。すると地が裂け、六萬恒河沙等の菩薩が各々六萬恒河沙等の菩薩を従えて涌出、空中に上り、釈尊・多宝如来を礼拝した。弥勒菩薩は地涌の無数の菩薩はどういう菩薩なのかと疑問を起こすが、釈尊は成道以来の初発心の弟子なることを明かす。弥勒菩薩は益々疑惑を生じ「釈尊は、成道以来、四十余年しかたっていないのに、どうしてこれだけ無数の弟子を教化できたのであろうか、ぜひこの疑いを除きたまえ」懇願する。 )

従地沸出萬千々、皆是大衆唱道の選、如来の壽量の長さを讃へんと欲して故に逸多(阿逸多・弥勒)をして問端にたたしむ。

乃往曾って諸州を経遊し、一人を見ず這(ここ)に回へるに似たり。所従の國土と名号と、我が為に一一説き将来せよ。

 

如来寿量(如来寿量品第十六。前章の従地涌出品で地涌の菩薩達はどういう菩薩たちなのか、という弥勒菩薩等の疑意に答えられたのが如来寿量品。釈尊は、成仏して以来無量無辺の時間を経ている、如来とは、一人の覚者ではなく、すべてに遍満している。如来が滅度を示すのは大切なものに気づかせるためだからである、とされる。)

日は冷やかなるべく、日は熱かるべし。如来の寿量は算るべからず。我等も亦列席の末と雖も、苦しい哉目あれども見る能はず。

有る時は有を説き有る時は無を説く。又払子を示し又拄杖(禅僧が 行脚のときに用いるつえ)。霊山の説法凡そ幾般ぞ。這回(このたび)喚んで無寿量と作す。

顚狂の稚子を度さんが為に留在す好楽の他郷より至れるを。渠(か・みぞ)の毒気の都て消尽するを待ち,始て色香の尋常ならざるを知らん。

 

分別功徳(分別功徳品第十七。分別功徳品前半では釈尊の久遠実成を聞いた菩薩や人々が得る功徳が説かれる。その喜びを弥勒菩薩がのべたのが分別功徳品の前半。 分別功徳品の後半は四信五品が説かれる。四信は釈尊ご在世のときの功徳で、その信仰の位をいいます。一念信解・略解言趣・広為他説・深信観成。五品は釈尊の滅後の信仰の位をいいます。随喜・読誦・説法・兼行六度・正行六度。)

一念信に解さば福無量なり。況や兼修拾六度、若し斯人を見て香華を散じなば生々世々値遇に契はむ。

 

随喜功徳(随喜功徳品第十八。如来の滅後においても、法華経を聞いて随喜し、演説するものの功徳は、五十展転しても不変なることを述べる。)

經あり此を法華と名く。好し一人を勧めて聴侶と為すに五十展転随喜の功を我今君子の為に細やかに説かむ。

 

法師功徳(法師功徳品第十九。法華経の教えを悟ることによって六根が清浄になる。法華経の受持・読・誦・解説・書写の五種の法行は不可欠である。)

燈籠の眼と露柱の耳と(正法眼蔵道得の巻「諸佛諸祖は道得なり。このゆえに佛祖の佛祖を選するには、かならず道得也と問取するなり。この問取、こころにても問取す、身にても問取す。払子にても問取す、露柱灯籠にても問取するなり。佛祖にあらざれば問取なし、道得なし。)、即ち是れ父母所生の身なり。知る境泯ずる時全体現れ、前後三三日清新なるを。

 

常不軽菩薩

(常不軽菩薩品第二十。釈尊の前身である常不軽菩薩は,増上慢の四衆にひたすら成仏の授記をし続けたが彼らから迫害を受けた.このため増上慢の四衆は死後無間地獄に堕ちたが,後に常不軽と再会し授記された.)

天上と人間と那んの似る所ぞ。半ば笑ふに堪へ半ば悲しむに堪へたり。今日纔に正覚を成ずと雖も、尚恋ふ但だ礼拝を行ずる時。

但だ礼拝を行ずる劫また劫。皆当に佛と作るべし、談ずるも談ぜざるも。好箇の風流老僧伽、陌上(はくじょう・路上)の布袋是同参(布袋和尚も同じように道端で乞食行をしていた)。

朝に礼拝を行じ暮にも礼拝、但だ礼拝を行じて此の身を送る。南無帰命常不軽菩薩、天上天下唯一人。

 

如来神力(如来神力品第二十一。釈尊と多宝如来が神通力によって舌を天まで伸ばし、そこから光を放ち、その光から幾千満億の菩薩が出現して教えを説く。さらに数十万年後、咳音と弾指で釈尊は悟りを開く姿を皆に見せた。)

爾時、世尊神力を現し無数の光明大千世界を照らす。衆宝樹下の獅子座上、諸仏如来も亦然り。

 

嘱累(嘱累品第二十二。釈尊は、神通力を発揮して右手を伸ばし、すべての菩薩たちの右手を取って一心にこの法を流布せよという。不信の者には方便を使って、教え導け、これが諸仏の恩に報いることになるという。諸菩薩もそのように務めると約束する。)

年老ひ心孤にして後事を嘱し、一回挙著しては一回悲しむ。此の意此の情能く委悉して其子其人遅疑する勿れ。

 

藥王菩薩(藥王菩薩品第二十三。薬王菩薩は過去世、一切衆生喜見菩薩であったが日月浄明徳仏と『法華経』を供養する為に焼身供養したがその功徳で彼は日月浄明徳仏国に生まれ、先に滅度した日月浄明徳仏の舎利を自分の臂を燃やして供養した。)

曾って妙法に参じて旧因を慕ひ、烈火堆き裏此の身を投ず。再び完全を得るもの能く幾人ぞ、吶。

 

妙音菩薩(妙音菩薩品第二十四。釈尊の光明が諸仏世界を照らした中に宿王智仏国の妙音菩薩が浮かび上がる。妙音菩薩は釈尊に供養するため三昧力で霊鷲山上に現れる。文殊菩薩が釈尊に妙音菩薩の由来を問うたに対し、釈尊は妙音菩薩の過去世の浄業とその使命を文殊・華徳の菩薩に告げる。)

曾って妓楽を奉して此の身に感ず。一華才発して一華媚び一華媚ぶ。是より萬事遊戯に附し参ず。

 

観世音菩薩普門(観世音菩薩普門第二十五。苦悩にあえぐ衆生が、観世音菩薩の名を一心に唱えるならば、その音声を観じて、解脱させる。観世音菩薩は三十三に身を変えて衆生を救う。)

 

慣捨す西方安養土、五濁悪世此の身を托す。木々に就き竹々に就く、全身放擲す多劫の春、脚下の金蓮水泥を拖(ひ)く。頭上の宝冠埃塵を委す。乃至一時楞厳会、他を以て妙吉疎親を選ぶ、森々たり二十五大士、特に此の尊に於いて称嗟すること頻りなり。南無帰命観世音、大喜大捨救世の仁。

風定まって花尚落ち、鳥啼いて山更に幽かなり。観音妙智力、千古空しく悠々。

 

陀羅尼(陀羅尼品第二十六。法華経を受持する者を守護するために、薬王菩薩・勇施菩薩・毘沙門天王・持国天王・十羅刹女・鬼子母神等がそれぞれ咒を説く。)

二種の天王法筵に降り、十箇の羅刹災障を掃ふ。是は此れ諸法実相の印、率土何物か遵行(遵奉)せざらん。

 

妙荘厳王本事(妙荘厳王本事品第二十七。妙荘厳王が、后の浄徳と浄蔵・浄眼の二人の子供によって仏道に導かれる話)

転禍為福は尋常の事、邪を棄てて正に帰する能く幾人ぞ。今日より心正行に随はずんば是斯の言也紳に書すべし。

 

普賢菩薩勧發(普賢菩薩勧發品第二十八。釈尊の法華経の説法が将に終らんとする時に普賢菩薩が東方より霊鷲山に到り、再び法華経を説いて頂きたいということをお願いし(「勧発」)、釈尊が法華経の要点を、再び纏めて説た。)

幾回か生まれ幾回か死す。生死悠々窮極なし。今妙法に遇ふて飽くまで聞知す。当に知るべし普賢の威神力を。

猛夏日永し草庵の裡、八軸の分陀舒べ叉巻く。敢へて宗要を撥揮すと道ふに非ざれど、聊か禿筆を染めて疎嬾に供す。

 

沙門良寛

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