福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

阿字觀用心口決

2021-07-01 | 諸経

阿字觀用心口決・檜尾記

先ず此字を觀ぜんと欲せば、天井四方強ちに迫らざる處、暗からず明かならざるに坐せ。暗は妄念起る、明は心散亂す。夜は燈を風に挑げ、火を後に向へてよ。座に蒲團を敷き、結跏趺坐、或は半跏坐にし、法界定

印を結び眼は不開不閉。開けば散動し閉じれば眠沈す。唯だ細く見て不瞬。而して兩方の瞳は鼻柱を守るべし。舌は腭に付け、息は自ら靜也。腰は反さず伏せず。直坐して脈道を助く。血脈の道、差へば病起り、又心狂亂す。此の如く用心し、先ず金剛合掌。五大願(衆生無邊誓願度・福智無邊誓願集・法門無邊誓願覺・如来無邊誓願事・菩提無上誓願證)を唱ふ。後に胎の五字明(あびらうんけん)を百遍誦せ。其後觀ぜよ。先ず能詮の字(阿字)を觀じ、次に所詮の理(阿字の意義)を思へ。能詮の字とは、自身の胸中に月輪あり、秋夜の月晴の如し、其中に阿字あり。阿字は月輪の種子なり。月輪は阿字の光なり。月輪と阿字とは全く一也。胸中に之を觀ぜば自身成阿字、阿字即自心也。如是の心境不二にして縁慮亡絶す。月輪の自性清淨の故に能く貪

慾垢を離る。月輪清涼の故に瞋恚の熱を去る。月輪光明の故に愚癡の闇を照らす。此の如く三毒自然に清淨にして離散せば湛然として自らの苦事之無し。此の觀に入る者は、安樂を得て世間の苦惱を離る。是を解脱と名く。何に況んや觀達するをや。生死において自在なるべし。是を即身成佛と為す。始に一肘量の月輪の分齊を觀ぜよ、後に漸漸に舒べて三千世界乃至法界宮に遍ず。次に所詮の理とは此の阿字に空・有・不生の三義あり。空とは森羅萬法皆無自性、是れ全空也。然れども因縁に依りて假諦に現じ萬法歴然として之有り。譬へば如意珠の七珍萬寶を湛へて而も隨縁に寶を降らすが如し。玉を破りて中を見るに一物も之無し。然りと雖も隨縁

に寶を生じて無きに非ず。是を以って知りぬ、空・有は全く一體也。是を常住と云ふ。常住とは則ち不生不滅也。是を阿字大空當體極理と名く。然るに我等が胸中に此の字を觀ずるに、自然に此の三義を具足す。此三義を具する者は即ち大日法身也。此の觀門に入る行者は、初心と雖も生死輪迴永く絶し行住坐臥離れるなし、皆れ是な阿字觀也。易行易修にして速疾に頓悟する也。

若し既に坐して逹せば必ずしも半跏法界定印に非ずとも行住坐臥悉く阿字なる事を思へ。我等の聲の生起する事、開口の最初、胸中の阿の生ずるに従って喉腭舌齒脣に當て、此の五處(喉・顎・舌・歯・唇)より出るは、金界五部諸佛(佛・金・寶・蓮・羯磨)の説法の聲なり。喉舌脣と云ふ時は胎藏三部(佛・蓮・金)也。

此の如く知らば徒らなる事之無し。惡口兩舌妄語綺語、皆五處三内を經て出る音なれば、即ち大日如來海印三昧王眞言也。此の理を知らざれば、皆な惡業と成り惡趣に堕し諸苦を受く。知と知らざるとの差別也。蓮華三昧經に云く(以下出典不明)「胸中、兩部曼荼羅坐烈して各の下轉神變す。其の中に西方無量壽如來は説法談義の徳を司どり常恒に説法す。其の音、我が口より出て、聲塵解脱の利益を成す也。然れども凡夫は之を知ずして我が語と思ひ、我が物の執情に封ぜられて、恒沙の萬徳、無量の密號の名字の功徳法門の聲を只だ徒らに惡趣の業因と成す事、誠に悲むべし。是れ則ち自然道理の陀羅尼、性海果分の法門、本不生の極理也。海に百川を攝っするが如く、一切の善根は此の一字に収まる故に海印三昧眞言と云ふ也。之に依りて一度此の字を觀ずれば八萬の佛教同時に讀誦する功徳に勝れたりと云々。」

廣略祕觀御口に云く、眞言觀門、多途なりと雖も、要を取れば廣略二觀に過ぎず。先ず略觀とは、大日經第一に云く、「祕密主、云何が菩提とならば、謂く實の如く自心を知れ」と。此の文は大日に対して金剛薩埵問ひたまひ、大日、自心を知れと答へ給ふ也。疏の七に云ふ「若し本不生際を見る者は即ち是れ實の如く自心を知る。

實の如く自心を知るは即ち是れ一切智智なり」と。(大毘盧遮那成佛經疏卷第七入漫荼羅具縁品第二之餘「猶如聞一切語言時即是聞阿聲。如是見一切法生時。即是見本不生際。若見本不生際者。即是如實知自心。如實知自心即是一切智智。故毘盧遮那。唯以此一字爲眞言也。」)。故に經の所説の如實知自心とは、本不生際を見る也。本不生際を見るを一切智智と為す。一切智智とは即ち大日也。故に眞言教の即身成佛とは本不生を見る也。本不生際とは一切諸法は本より以來、不生不滅、本有常住也。煩惱は本不生の煩惱なり。菩提は本不生の菩提也。此の如く知るを一切智智と名く。然るに我等が生滅去來、眼に當りて知り易し。不生不滅は知れざる所也。此の如くの諸法本來不生不滅の義は、顯教盛んに之を談ず故に、此の不生不滅の名言は密教不共の談には非ず。然れども今密教の規模とは、凡夫の見聞覺知に及ばざる所の不生不滅の體を直ちに種子三摩耶形に顯じて之を見知せしめ之を修せしむ。是れ顯教の都(すべ)て不知なる所也。言ふ所の本不生の體とは、種子は阿字、三摩耶形は八葉蓮華なり。此の八葉蓮華とは大日經所説の「かりだ(梵字)」心也。「かりだ(梵字)」心とは、即ち是れ衆生の八分肉團(心臓)也。同疏五に云ふ「内心の妙白蓮とは此れは是れ衆生の本心、妙法芬陀利華、祕密の幖幟なり。華臺の八葉圓滿均等にして正しく開敷之形の如し。此の蓮華臺は是れ實相自然の智慧なり。蓮華葉とは是れ大悲方便也。正しく此の藏を以て大悲胎藏曼荼羅の體と為し、其の餘の三重は是れ此の自證功

徳より流出する諸善知識、入法界門なる耳。此曼荼羅極少之量は十六指に齊る。大なれば則ち無限也」。今此文の「内心妙白蓮」とは此は是れ衆生の本心、「妙法芬陀利華」とは「かりだ心」(梵字)也。此心蓮、觀ずべき也。其觀想の樣は心中に有八葉蓮華有りと觀ぜよ。蓮華の形は世間の蓮華形の如し。唯此蓮華計りを觀ずべき也。八葉の蓮華とは「かりだ心」(梵字)是也。「しった・梵字」心、此の蓮華に住す。此の二心は暫時も離れざる故に、蓮華上に月輪を観ずべし。月輪とは「しった・梵字」心也。「しった・梵字」心の形は實に月輪形の如き也。月輪形の圓形なる事は、水精珠等の如し。又蓮華の種子は阿字也。故に月輪中に阿字を觀ずべし。阿字形は常書の形の如し。迴り四方に有るべき也。常書は是れ一方計り也。上下は其形無し。一切の梵字の形、四方なる事、阿字を以て之を准知すべし。今此阿字・蓮華・月輪之中に若し蓮華計りを觀じ、若しくは蓮華・月輪を觀じ、若しくは蓮華・阿字を觀ずべし。行者の意に任すべき也。月輪の勢は一肘也。此量を減ずべからず。又此略觀について二樣有り。一には先ず前一肘に八葉蓮華を觀じ、此の如く彼此相對して歴然として之を觀じて其後に前一肘に觀ずる所の蓮華を自身中に召入すべし。是れ常の入我我入觀の如き也。一には先ず前一肘に蓮華を観じ、觀念し退轉無く年月を經て之を勤修し觀ずる所の蓮華等を閉目して見る程に觀じ、後に自身に之を召入すべし。

問。此阿字・蓮華は本不生際の實體なること顯なる事也。此の觀を作す時、此の種子、三形の義理、之を觀ずる乎。

口云。觀法時、別に義理を思惟せず。唯だ其の形色のみ如法歴然として之を觀ずる計也。又云、此阿字、世間に多く之を書置く故に、人之を輕んじ常の事の樣に思ふ。是れ大なる僻按也。此の阿字は即淨菩提心の實

體、即身成佛の肝心なるもの也。以上略觀畢。

次廣觀とは、義釋に云「若し行者、一切從縁起の法は皆な是れ毘盧遮那法界身と見れば、爾時、十方通同して一佛國と為る。是を究竟淨菩提心と名く」(文)     今此の釋意は一切縁起諸法に對し、皆な毘盧遮那法身と照すなり。其故は一切諸法は色心二法を出ず、色心二法は即是六大也。六大は即是れ毘盧遮那法界身也。爾時十方通同して一佛國と為るとは、既に一切縁起諸法を押へて直に毘盧遮那法身と照らす故に、十方淨土と六道穢所と差別あることなく同一法界宮也。

心寂靜なる時は略觀に住し、散亂の時は廣觀に住すべし。此の二觀門は是極祕也。行住坐臥懈ることなく精進修行し速かに淨菩提心を開顯すべき者也。已上祕觀也。

 

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