第十四番同國弘明寺(現在も第14番は瑞応山弘明寺(弘明寺観音))
武州久良岐郡但久郷瑞應山弘明寺は、無畏三蔵の結界、弘法大師の開基。真言瑜伽道場也。本尊十一面の像は行基大士一刀三禮横削荒木作之靈容也。人王四十五世聖武帝の御宇、行基大士巡遊の次、多太久の郷に到り玉へば、空中に白蓮乱飛、山上古木の間に散墜る。大士是を怪み、山に登て覩旋玉へば、忽ち神人出現ある。一は白狐に乗、一は㚑烏(からす)に乗り、各々行基大士に告て曰、去ぬる養老年中、印度の善無畏三蔵、遠く我が日本に渡り、密教の機縁を要めて、徧く此の秋津洲を行り、此の地に至って心を止め、七箇の蟠石を加持して、石の圍に陀羅尼を書き山に鎮て結界せしと。語訖って見へ玉はず。今弘明寺七つ石と称して、宲に奇異の㚑石あり。自ら現れ自ら没る。恒に其の所在を知らざれども、若し堂舎破壊に及び、修理の力を得ざる時は、圖らざるに此の石、顕れ出、材穀金銭等涌くが如く輻(あつま)ると云。件の㚑石涌出る。寺主喜んで是を荷来たり、大悲堂の前庭に安んず。尚㚑石の徳徒(むなし)からず、不日に工匠の資財を得て、果して明和三戌の年(1766)造営の大功を遂ぐる。此の石、古今奇特多し。㚑験集に誌す。
是に於いて行基大士、善無畏の素懐を鑑て、十一面の尊像一躯、一刀三礼に彫玉ふ。横削荒木作にして御長六尺(180㎝)の立像なり。即ち中興慧光上人、御厨子裏誌して曰、荒木作りは本有を表し、横削は横に十方を度し、立像は竪に三世を救ひ、長六尺は六大に約し、十一面は果地を顕す。各々行基深旨を示すと也。
唐聖善寺善無畏は、密宗第五の祖師、中印度の人、甘露飯王之裔也。本朝元正帝の代、此の方に来儀して、屡諸州を遊化し、衆機未だ熟せず真教聞くこと無し。遂に大日経を和州久米寺に納め、歸唐し玉矣。賛に曰、十住論に曰、若し大聲聞の神通自在は一日に五十二億三千大千世界を過ぐと。(「十住毘婆沙論卷第十四十不共法品第二十一」「是故當知。諸佛虚空飛行自在無量無邊。何以故。若大聲聞弟子神通自在以一念頃。能過百億閻浮提瞿陀尼弗婆提
鬱多羅越四大王天忉利天夜摩天兜率陀天化樂天他化自在天梵天。一瞬中過若干念。積此諸念以成一日七日一月一歳。乃至百歳。一日過五十三億二百九十六萬六千三千大千世界。」)無畏は登地の菩薩、瑜伽悉地の大聖者、其神通玅用不可思議、支竺摶桑(からてんじくふそう)を往来すること猶隣里に遊ぶが如し。何の疑いか之有ん。近世の道俗徒に膚説を學びて、深理に達せず。往往議を容るるは何ぞ夏虫の氷を疑ふに異ん耶。嘻域中の學を以て界外の聖を疑ふべからず焉(本朝高僧傳一)。又初め三蔵、月氏國を発し震旦界に向ひしが、空中に於いて物の蓋の如くなる有り。無畏三蔵の上を覆ふ。唐地に届るに曁んで、其の蓋、三蔵の上に降著く。即是天笠也。我日本に入し自り、或は載き、或は提げ、斯須も放さず。歸唐の日、笠を我寺に畱(とど)む。故に笠の荒神と稱す也。和州笠の荒神来由記の中に見。
人王五十二代嵯峨帝の弘仁年中、弘法大師筑波山に在して遥かに此の地の瑞雲を見て、大悲應度の靈崛密教有縁の地を知玉ふ。即ち此の地に錫を飛し、無畏三蔵の𦾔を興し、行基大士の跡を継で、大悲者の浄刹を初玉ふ。伽藍安鎮の為には四臂の不動を作り、密教護神の法楽には般若心経を書写し、人法繁榮の為には、一千座の護摩を修し(大師護摩所の跡、天満宮社頭の側に有也)且大国愛染明王きりく(梵字)字の寶塔一基是皆大師の御自作千載の于今の傳て真言瑜伽場の什寶高野山大師開山の證なり。
人王第六十九代後朱雀院御宇長暦年中(元年より明和三迄。1037年から1040年。七百三十年)武相の間に疫癘流行、比屋病臥て田畠を耕さず。市に交易絶て賣買の者なし。此の故に病に死し、飢死て日夜に悲哀の聲止まず。鳥獣に至るまで同く此の患に罹る。所謂佛在世の時、天竺毘舎利城の人民、五種の悪病を煩ひしみ、斯る例と思知るれ。時の住僧光慧闍梨は廣く經軌に渉り精く、事相に達して、戒律堅固の沙門。徳行一時に鳴る者なり。日々三時の行法怠らず、時々大悲の感應を得玉へり。今や此の疫災を見に忍びず、故に瑜伽の壇場を荘り一七箇日夜丹誠を抽で、本尊十一面の秘法を修す。毎座道場觀の所に至て本尊の宮殿動揺せり。是念願成就の瑞應なりと、光慧上人甚だ感悦し玉へり。時に老若参詣して曰く、此程弘明寺の者とて気貴老僧毎家に来たり、普く寶瓶の水を洒ぎ玉へば、温疫の苦熱直下に却き、村里の老少皆存命を得たり。是偏に大悲の利生にして、尊師修力の致す所と、日々に遠近の男女競ひ来り、倍信心渇仰の者多し。自ら檀嚫輻湊して、大に堂社を再営して、境内の繁栄𦾔觀改む。是當寺中興の因縁也。請観音經に云、「如是我聞一時佛在毘舎離菴羅樹園、與千二百五十比丘。乃毘舎離國に至るに、一切人民大悪病に遇り。一には眼赤くして血の如し。二には両耳より膿を出す。三には鼻の中より血を出す。四には舌噤んで聲なし。五には所食の物、化して麁渋と為る。六識閇塞して酔人の如し。五夜叉有り、譏拏迦羅と云、面黒くして五眼有り。狗の牙上に出。人の精気を吸ふ。時に毘舎離大城の中に一の長者、名て月蓋と曰。其の同類五百の長者と倶に佛所に詣でて、頭面作禮して却き一面に住して佛に白して言く、世尊、此の國の人民、大悪病に遇ふ、良醫耆婆其の道術を盡せども救ふ能はざる所なり。唯願くは世尊、一切を慈愍して病苦を救済して、患無を得しめたまへ、と。尒時世尊、長者に告げて言く、此を去ること遠からず、菩薩有り、観世音菩薩と名く。恒に大慈を以て一切を憐愍して、苦厄を救済す。汝今五體を地に投じて、礼を作し、香を焼、花を散じ、繫念數息、心を散ぜざらしめ十念を經る頃、衆生の為の故に、當に彼の佛を請ずべし。時に菩薩神力をもって毘舎離國に往き、城門に住して大光明を放ち、彼の國を照らして皆金色と作す。尒時、毘舎離の人即ち、楊枝浄水を具して観世音に與す。大悲観世音一切を救護す故に、而も呪を説きて曰く、普く一切衆生をして是の言を作すを教へしむ、汝等今者應當に一心に、南無佛南無法南無僧南無観世音菩薩摩訶薩大悲大名稱苦厄救護者と稱すべし、云々
(請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經)。
佛説却温神經中に曰、尒時、維耶離國、疫気に属れ、猛威赫赫たること、猶熾火の盛んなるが如し。死体無数、歸趣する所無し。救療に方無し。乃至七鬼神有り。常に毒気を吐き、万姓を害す。若し人毒を得れば頭痛寒熱し百節解んと欲す、苦痛言難し云々。此の經は能く温疫を除却する之妙術、古今霊験最も多也。此の故に豊山僧正亮汰之が鈔解を為り、流傳す乎。此の經を持して疫を病む者の為に大に利益を得る。仍って婦児をして讀易からしめんと欲して、假名を附して梓壽して、村里の老少に授る者也。
巡礼詠歌「叵有(ありがた)や誓の海を傾けて 澍ぐ恵みに 醒る燄疫」此歌は本尊僧形を現じ村里の家毎に臨み、宝瓶の水を澍ぎて、諸人の疫癘を除却し玉ふ。利生の掲焉(あらた)なるを述る。光恵上人の自詠なりとぞ。弘誓深如海 澍甘露法雨
滅所煩悩焔、此等の經文の意にして、宲に殊勝の道歌なり。燄疫とは即ち疫癘の事なり。或は熱病とも云。𦾔事本紀に云、疫を除く呪歌に云、風に乗り熱氣を催尒(もよおす)神氣只(かみいきも)天之冷且(あめのすずしき)法于醒けり(のりにさめけり)。此の歌は聖徳太子の御詠なり。若し人、至心に之を吟ずれば温疫を患へず。已に煩ふ者は忽ち醒るを得る妙也。
境内熊埜稲荷の両社は、行基大士来儀の時出現の神靈を祠る。日本紀神代の巻に云、伊弉冊尊(いざなみのみこと)火の神を生時、灼れて而神退去ます。
故に紀伊之有馬村に葬る焉。又曰、伊弉諾尊、伊弉冊尊と之に盟て、乃し所唾之神を号して速玉之男と曰。次に掃之神(はらえのかみ)を泉津事解之男(よもつことさかのお)と号す。凡て二神まします。神名帳云、紀伊國牟婁郡熊野早玉神社と今案る速玉之男、事解之男(ことさかのお)、伊弉冊尊、是熊野三所権現也。
稲荷の神靈、密法護持の事は弘法大師入唐帰朝の時、筑紫にて稲を荷う翁に逢ひ、其の凢人に非ざるを見て、慇懃に名字を問玉へば、翁答て云、我は京都二階坊に侍る二階の柴守長者なりと。大師又曰、我佛法を護玉へと。互いに契約して別れ玉へり。尒後、東寺御建立の時、柴守長者東寺に詣で玉ふ。大師特に御響應あり。此の時大師赤飯を設く。尒自り之を以て、此の神を祭るの定供と為す也。又我が密法を護持玉へと法楽に法華経を講読し玉ふ也。大師、翁に逢玉ふは、午の日なれば即ちこの神の縁日となる。昔の二階の坊は今の御旅所也。小角霊験記に見。
昔浪華の旅人あり。自ら其姓名を説かず。彼一の薦包(こもつつみ)を負ひ来る。寺僧等怪みて問ば、旅人答曰、負所の者は菅神の像なり。我是を售(うら)んと欲へども、未だ買人を得ずと云。即ち包を披て見れば天満宮の木像なり。其刀彫の妙なる、庸工の得て及ぶところにあらず。寺主喜躍で價を問、旅人笑って曰、我有縁の價を求む、何ぞ世寶の事を云乎と。即置て辞去る。終に其の行方を知らず。土人是を評して曰、菅神自ら化現し玉ふ欤と。尒来り山内の鎮守と崇め諸人神慮を仰ぐ所に、誓の如く願望を徒くせず。中にも前の内大臣通茂公(江戸時代前期から中期にかけての公卿・歌人。権大納言・中院通純の子。官位は従一位・内大臣。)の門葉椙若氏松郷軒と云人、此の地に縁有り、此の神を祈り和歌の奥義を感得して、時に風雅の道に鳴る者と成り。仍って大に神殿を造営して神恩を謝し奉りぬ。愚按ずるに此の神像来現の事、必ず深き因縁あるべし。中興開基光基上人は菅相亟の再誕と云。又菅神は弘法大師の分身と云(元亨釈書)。弘法大師御遺告の中に、我二佛の中間に生れて密教中興の仁に當る。然れども葉落て根に歸るは世間無常の理り。我入定の後に汝等能く遺誡を護り、必ず三密の法燈を滅すること莫れ。五十六億七千万歳の後、弥勒佛と倶に、世に出ずべし。其の間に我請願ありと。七箇條の誓を立玉ふ。其の第一条に云く、我今生に暫も住し所には日々分身影向し有縁を護り、現當の所願を成ぜしめんと、云々。本朝高僧傳に云く。華厳經の中に菩薩三地を證すれば、身を百千に分かち利を群生に及ぼす、と。弘法大師は三地の菩薩なり。故に滅後数百歳を経て、今猶定に在して、身を分ち有縁の衆生を度し玉ふ。日月は常恒に現ずれども、盲者は見ることを得ず。如何ぞ痴惑の凢夫其聖地を知得んやと。又往々古記の中に大師分身の事を出す。所謂菅丞小野道風(行状記)御堂関白道長公(栄花物語)性信新王成典僧正等(元亨釈書)、又暫現即隠の分身あり。緫州般若塚の記に云、同時に六百の僧形を現じて、大般若六百巻を書写し玉ふ(名㚑集)。又諸書に菅公は弘法大師の分身、本地十一面観音と云。菅家御集秘歌の部に云、かぐらくのはつせの寺の佛こそ 北野の神とあらはれにけり。和州長谷寺の縁起は本尊十一面観自在、勅に依りて菅公の筆記なり。菅公薨去の後、天慶九年(946)九月十八日泊瀬の與喜山に出現して泊瀬の惣鎮守と成玉ふ。尒に神洲河の水上に衆の天狗等出迎ひ、今此白石山へ請じける。行者此の地にいあって見玉ふに古木麓に茂り、奇石峯に峙て、人倫不通の嶮山なり。其の半腹に少し平地あり。苔蒸し水涌て、諸の藥艸を生ず。行者苦行の地を得たりと喜びて、其邊を歴覧し玉ふ。