修験宗旨書・・・1.修験宗旨第一、(修験宗は凡夫も地獄餓鬼畜生も仏と同じという深い教理を説くもので師資相承で体験しなければわからない)
古記に曰く、「修」とは修正始覚(修行して覚りを開くこと)の修行、「験」とは本有本覚(当初より覚っていること)の験徳、始本円備(修正も本有も一体)にして無欠なり。故に修験という云々。
夫れ、修験とは自受法楽無相三密の内証、十界不二・三身即一の宗旨なり。然れば則ち彼の状相を訪はば両部本具の直体、此の勝利を尋ぬれば即身頓悟の妙理なり。その体は法界に遍じ、色量を絶し、その智は虚空に満ちて辺際を亡ず。実にこれ佛祖直伝の真理、以心伝心の當頭にして識の識るところに非ず、言の言ずるところに非ず。強いてこれを不思議と称す。己心法界にして有無を離れ、凡聖一如にして迷悟を絶す。盲人の為に之を説き具沫雪鶴を以て乳色を示せば四盲各々異計して終に乳色を知らざるが如し。故に自宗の意は仏を仮らず、文字を立てず、唯以心伝心、たとえ師説教文に因ると雖もしかも文句を以て道とせず、須らく詮を忘れ意を得べし。意を得るは即是心を伝う。然りと雖も至道無言にして不言無く、般若は無智にして而も不智ならず。真際を動ぜずして諸法を建立す。諸法真際なるが故に若しは自心を見ば諸法は不他なり。若し内庫を開かば衆象我有なり。まさに知るべし、終日説いて終日説かず。即破し即立し、即立し即破す。修験一実の謂、まことにもって爾かるべきなり。もし念を以て念と為し、生を以て生と為す者は常見の所談也。無念を以て無念と為し、無生を以て無生と為すものは断見の所感なり。念にして無念、生にして無生なるは第一義空なり(「破せず壊せざるが故に諸法の実相を第一義空という」大智度論)。空とは真空に非ず、妄想空なり、妄想空なれば則ち諸法宛然たり。諸法は阿字本不生なるが故に一塵をも染めず、一法をも執せず。諸法は六大四曼の体相なるがゆえに一塵をも捨てず、一法をも動かさず。十界の依正・迷悟の二法悉く阿字円明の覚体にして而も善悪念慮の起不起を論ぜず。本来寂然具徳也。凡そ諸宗の門戸、区なりと雖も仏道初入の門は唯だ一心を静めるにあり。流転生死は一念に迷うて差別妄業を生じ、寂滅涅槃は萬縁を亡ず。平等の真理に帰する所以なり。真理とは自性本源也。若し教文を学して本源を了ぜざるは行修において無益なり。たとえば貧の宝を数ふる如く、盲じて灯に執するごとし。所謂本源とは自性清浄心なり。自性清浄心とは本より起滅あることなし。起滅とは即是妄心なり。妄心とは亀毛兔角の如し。了れば妄心もとより不生なり。前後裁断の心地に安住するを大覚と名ずく。この如く行住坐臥一切の作用の時節忘るることを了じて急急に眼を著して之を観れば忽然として而して心眼即開の大益を得べし。即是頓悟不生の大事、生死自在の法楽也。
古記に曰く、「修」とは修正始覚(修行して覚りを開くこと)の修行、「験」とは本有本覚(当初より覚っていること)の験徳、始本円備(修正も本有も一体)にして無欠なり。故に修験という云々。
夫れ、修験とは自受法楽無相三密の内証、十界不二・三身即一の宗旨なり。然れば則ち彼の状相を訪はば両部本具の直体、此の勝利を尋ぬれば即身頓悟の妙理なり。その体は法界に遍じ、色量を絶し、その智は虚空に満ちて辺際を亡ず。実にこれ佛祖直伝の真理、以心伝心の當頭にして識の識るところに非ず、言の言ずるところに非ず。強いてこれを不思議と称す。己心法界にして有無を離れ、凡聖一如にして迷悟を絶す。盲人の為に之を説き具沫雪鶴を以て乳色を示せば四盲各々異計して終に乳色を知らざるが如し。故に自宗の意は仏を仮らず、文字を立てず、唯以心伝心、たとえ師説教文に因ると雖もしかも文句を以て道とせず、須らく詮を忘れ意を得べし。意を得るは即是心を伝う。然りと雖も至道無言にして不言無く、般若は無智にして而も不智ならず。真際を動ぜずして諸法を建立す。諸法真際なるが故に若しは自心を見ば諸法は不他なり。若し内庫を開かば衆象我有なり。まさに知るべし、終日説いて終日説かず。即破し即立し、即立し即破す。修験一実の謂、まことにもって爾かるべきなり。もし念を以て念と為し、生を以て生と為す者は常見の所談也。無念を以て無念と為し、無生を以て無生と為すものは断見の所感なり。念にして無念、生にして無生なるは第一義空なり(「破せず壊せざるが故に諸法の実相を第一義空という」大智度論)。空とは真空に非ず、妄想空なり、妄想空なれば則ち諸法宛然たり。諸法は阿字本不生なるが故に一塵をも染めず、一法をも執せず。諸法は六大四曼の体相なるがゆえに一塵をも捨てず、一法をも動かさず。十界の依正・迷悟の二法悉く阿字円明の覚体にして而も善悪念慮の起不起を論ぜず。本来寂然具徳也。凡そ諸宗の門戸、区なりと雖も仏道初入の門は唯だ一心を静めるにあり。流転生死は一念に迷うて差別妄業を生じ、寂滅涅槃は萬縁を亡ず。平等の真理に帰する所以なり。真理とは自性本源也。若し教文を学して本源を了ぜざるは行修において無益なり。たとえば貧の宝を数ふる如く、盲じて灯に執するごとし。所謂本源とは自性清浄心なり。自性清浄心とは本より起滅あることなし。起滅とは即是妄心なり。妄心とは亀毛兔角の如し。了れば妄心もとより不生なり。前後裁断の心地に安住するを大覚と名ずく。この如く行住坐臥一切の作用の時節忘るることを了じて急急に眼を著して之を観れば忽然として而して心眼即開の大益を得べし。即是頓悟不生の大事、生死自在の法楽也。