梅原猛は「あの世と日本人 浄土思想の諸相」で
「『先祖の話・柳田国男』(注)は終戦直後、日本人のアイデンティティの喪失に 深い不安を感じた柳田にとって「日本人のアイデンティ ティーは先祖崇拝であった。先祖崇拝を失ったら、もう日本人は日本人でなくなる、という警告としてこの本は書かれたのである。」
と言いました。
注「先祖の話」柳田國男」(昭和21年4月)
正月の十六日を以て先祖を拝むにとしている例は極めて多い。先祖正月といふのはこの日のことで先祖の墓の前に集まって酒盛りをする風がもとはあった。・・日本人の志としては、たとへ肉体は朽ちて跡なくなってしまほうとも、なほ此の国土との因縁は断たず、毎年日を定めて子孫の家と行き通ひ、幼い者の段々に世に出て働く様子を見たひと思っていたろう・・。
もとは明らかに新年の魂祭りであったのだが・・徒然草の「晦の夜いたう暗きに・・・亡き人の来る夜とて、魂祀る業は此頃都には無きも東の方には猶ほすることにてありしこそ哀れ慣れなりしか。」・・それから三百何十年かの前には「亡き人の来る夜聞けど君もなし」といふ和泉式部の歌、「魂祀る歳の終わりになりにけり」といふ曽根忠義の歌などがある、」
‥信仰の自由の原則に基ずいて仏法を出離してしまった家々の先祖祭(お盆)がこれからどうなっていくだろうといふことである・・・永い民族の歩みを跡つ゛ける為にはたとへ外来信仰(仏教)の習気が濃く浸潤して居ようとも、なほ國民の大多数層に遍く渡って居るものを尊重しなければならぬ。
日本人が最も先祖の祭りを重んずる民族であったことは夙に穂積陳重先生の著述などもあって汎く海外の諸國に知られて居る(穂積陳重「祖先祭祀と日本法律」「祖先の霊を礼拝し、これに酒饌を供えて、これを祭るの習俗は、その由って来る所、祖先に対する敬愛心に存して、恐怖心に縁由するものにあらざるなり」)。
吉野地方・河内南部の山村などには、人がなくなって通例は三十三年目、稀には四十九年五十年の忌辰にとぼらひ上げまたは問ひきりと称して最終の法事を営む。その日を以て人は先祖になるといふのである。・・北九州のある島などには三十三年の法事がすむと人は神になるといふ者もある。・・つまりは一定の年月を過ぎると祖霊は個性を棄てて融合して一体になるものと認めらていたのである。
氏神は清く祀らねばならぬ先祖のみたまの為に屋外の一地を點定したことが今ある十万余の國内の御社の最大多数のものの起こりであったといふこと・・・家々の神棚みたま棚とは同じ一つの系列の上に立つ・・
墓所が又一つの屋外の祭場であって是と氏神の社とは神仏の差では決してなく、もとは荒忌のみたまを別に祭ろうとする先祖の神に対する心つ゛かひから考え出された隔離ではなかった・・。三十三回忌のとぶらひあげといふことは・・それから後は人間の私多き個身を棄て去って先祖といふ一つの力強い霊体に溶け込み自由に家の為また國の公の為に活躍しうるものと考へていた。それが氏神信仰の基底であった。
私などの力説したいことはこの曠古の大時局に當面して、目覚ましく発露した國民の精神力、殊に生死を超越した殉國の至情には種子とか特質とかの根本的なるもの以外に、是を年久しく培ひ育てて来た社会制,わけても常民の常識と名くべきものが隠れて大きな働きをして居る・・。人を甘んじて邦家の為に死なしめる道徳に信仰の基底がなかったといふことは考へられない・・。信仰はただ個人の感得するものではなくて寧ろ多数の共同の事実だったといふことを今度の戦ほど痛切に証明したことは曾ってなかった。
特に日本的なものを列挙すると、
第一には死してもこの國の中に霊は留まって遠くへは行かぬと思ったこと、
第二には顕幽二界の交通が繁く、単に春秋の定期の祭りだけで無しに何れか一方のみの心ざしによって、招き招かるることがさまで困難で無いやうに思っていたこと、
第三には生人の今はの時の念願が死後には必ず達成するものと思って居たことで、
是によって子孫の為に色々の計画を立てたのみか更に再び三たび生まれ代って同じ事業を續けられるもののごとく、思った者の多かったといふのが第四である。
富士や御嶽の行者などにも、死後の年数と供養とによって段々と順を追うて麓から頂上に登っていきしまひには神になるといふ信仰が今も行われて居る。
(葬法は)人の行かない山の奥や野の末にただ送って置いてくればよかったのである。・・そうして同時にみたまは日に清く日に親しくなって自在に祭りの座に臨み、且つ漸々と高く登って遥かに愛着の深い子孫の社会を眺め見守ることができるやうになる・・。
家に先祖の事業がなほ傳はり社会が前賢の遺烈を無言の間に受け継いでいるのがもしも悉皆、後の人だけの手柄ではないとすると、・・そうして是が又國土を永遠の住かと信じて居た一つの民族の本来の姿ではないかと思ふ。