いつも60番横峯寺から下ると64番前神寺に詣でます。
ここも山頂の石槌権現の別当寺です。毎年夏には白装束に身を固めた数万人の人々がここから石槌山へ登っていくとのことです。30年現在石槌山にまだ登れていません。指導頂いているA師は「石槌は遍路の途中で登るような山ではない、石槌のみをめざして出直すべきだ」といつも注意をいただいているのです。
本堂、大師堂ともに霊気が満ちています。
石碑があり、「不閑日々之影向 検知処々遺跡」(日々の影向をかかさず処々の遺跡を検知する)とあります。これは高野山の大門にもあります。覚鑁上人の「弘法大師講式」にもでてきますが、
「弘法大師行状要集第五」(室町時代)に「居卜於高野山樹下。心神雖遊問兜卒天上。不決闕日々影響。検知処々處處遺跡。云々 東寺定額僧勝實。任善通寺別当下向讃州。件寺有此御筆文。又御筆云々 我昔遭薩埵 親悉傳印明 發無比誓願 陪片地異域 晝夜愍萬民住普賢悲願 肉身證三昧 待慈尊下生。此二行偈頌文。雲居寺膽西聖人所持大師御筆金剛般若経奥ニ有此文云々」とあることからきています。つまり大師は入定されている高野山奥の院から今でも毎日、縁のあった各地に出向かれて衆生済度にお力を注がれているという文「居卜於高野山樹下。・・・」が善通寺に大師筆としてのこっていた、又「我昔遭薩埵・・・」の文は雲居寺膽西聖人所持の大師御筆金剛般若経の奥付にかいてあったというものです。ここに「同行二人」の信仰、四国遍路で大師にめぐり合えることの裏付けがあるわけです。
64番前神寺は1回目のときは横峰寺からおりてきて夕方になりあわただしくお参りして心残りだったのですが2回目は区切り打だったので東京を19年4月29日にでて直接お参りすることにしていました。中央線では朝一番の電車でもかなり混んでいました。中年の夫婦が私の遍路姿を見て「昔は東京からも歩いたんだろうけどね。でもお遍路さんはいいもんだね」などと小さい声で話しています。話しかけようかと思いましたがそのままになりました。
岡山で乗り換えのときは松山に帰省する途中という中年男性がホームで話しかけてきました。「何回位回っておられますか?四国は太陽がちがうでしょう。土地がすぐ乾くんですよ。お遍路にいけるだけで有難いことですよね。お金もかかるし色々な条件が揃わないといけませんからね。」などといいます。
18年年末の予讃線でも隣に座った老婆に「私は是から子供の所に行って年末年始を過ごすことにしていますが、あなたの遍路姿をみて自分もしっかりしなきゃあと思いました。」とはなしかけられたことがあります。 地元国立駅でも遍路姿を見ていたずらっ子顔をした5歳くらいの男の子がお母さんの陰から「旅の方頑張って」と声をかけてくれました。千日回峰行者の酒井雄哉大阿闍梨も京都大回りのとき小さな子から「旅の方頑張って」と声をかけたれたと「むだなことなどひとつもない(PHP出版)」という本に書いてありましたが、小さな子はなぜか白装束をみて「旅の方」というようです。このときはわたしはとっさに何と言っていいのかわからず、「ありがとう」とのみ返事しました。ふつうの姿ではこう子供から声をかけられることはありません。遍路姿の功徳です。慈雲尊者は「出家者は慈悲のすがたなり」といっていますが遍路姿も慈悲の姿でもあるのかもしれません。
ここも山頂の石槌権現の別当寺です。毎年夏には白装束に身を固めた数万人の人々がここから石槌山へ登っていくとのことです。30年現在石槌山にまだ登れていません。指導頂いているA師は「石槌は遍路の途中で登るような山ではない、石槌のみをめざして出直すべきだ」といつも注意をいただいているのです。
本堂、大師堂ともに霊気が満ちています。
石碑があり、「不閑日々之影向 検知処々遺跡」(日々の影向をかかさず処々の遺跡を検知する)とあります。これは高野山の大門にもあります。覚鑁上人の「弘法大師講式」にもでてきますが、
「弘法大師行状要集第五」(室町時代)に「居卜於高野山樹下。心神雖遊問兜卒天上。不決闕日々影響。検知処々處處遺跡。云々 東寺定額僧勝實。任善通寺別当下向讃州。件寺有此御筆文。又御筆云々 我昔遭薩埵 親悉傳印明 發無比誓願 陪片地異域 晝夜愍萬民住普賢悲願 肉身證三昧 待慈尊下生。此二行偈頌文。雲居寺膽西聖人所持大師御筆金剛般若経奥ニ有此文云々」とあることからきています。つまり大師は入定されている高野山奥の院から今でも毎日、縁のあった各地に出向かれて衆生済度にお力を注がれているという文「居卜於高野山樹下。・・・」が善通寺に大師筆としてのこっていた、又「我昔遭薩埵・・・」の文は雲居寺膽西聖人所持の大師御筆金剛般若経の奥付にかいてあったというものです。ここに「同行二人」の信仰、四国遍路で大師にめぐり合えることの裏付けがあるわけです。
64番前神寺は1回目のときは横峰寺からおりてきて夕方になりあわただしくお参りして心残りだったのですが2回目は区切り打だったので東京を19年4月29日にでて直接お参りすることにしていました。中央線では朝一番の電車でもかなり混んでいました。中年の夫婦が私の遍路姿を見て「昔は東京からも歩いたんだろうけどね。でもお遍路さんはいいもんだね」などと小さい声で話しています。話しかけようかと思いましたがそのままになりました。
岡山で乗り換えのときは松山に帰省する途中という中年男性がホームで話しかけてきました。「何回位回っておられますか?四国は太陽がちがうでしょう。土地がすぐ乾くんですよ。お遍路にいけるだけで有難いことですよね。お金もかかるし色々な条件が揃わないといけませんからね。」などといいます。
18年年末の予讃線でも隣に座った老婆に「私は是から子供の所に行って年末年始を過ごすことにしていますが、あなたの遍路姿をみて自分もしっかりしなきゃあと思いました。」とはなしかけられたことがあります。 地元国立駅でも遍路姿を見ていたずらっ子顔をした5歳くらいの男の子がお母さんの陰から「旅の方頑張って」と声をかけてくれました。千日回峰行者の酒井雄哉大阿闍梨も京都大回りのとき小さな子から「旅の方頑張って」と声をかけたれたと「むだなことなどひとつもない(PHP出版)」という本に書いてありましたが、小さな子はなぜか白装束をみて「旅の方」というようです。このときはわたしはとっさに何と言っていいのかわからず、「ありがとう」とのみ返事しました。ふつうの姿ではこう子供から声をかけられることはありません。遍路姿の功徳です。慈雲尊者は「出家者は慈悲のすがたなり」といっていますが遍路姿も慈悲の姿でもあるのかもしれません。