第一七課 誘惑
むかし、あるところに老婆がありましたが、一人の禅僧に庵を建ててやり、衣食を送って修業を資たすけておりました。二十年間それを続けました。そこで老婆が思うのには、もうあの禅僧もかなり修業が積んだであろう。一つ試してみよう。老婆はどんなメンタルテストをしたかと言うと、自分の腰元の中でも、年頃で一番美人の女を選びまして何やらそっと命令いいつけ、かの禅僧の修業している庵室へ行かせました。
若い腰元は庵室を覗いて見ますと、かの僧は室の中央まんなかに静かに坐禅を組んでいました。そこへずかずかと寄って行って彼女はいきなり禅僧にもたれかかり、「あなた、こうして、どんな気持ち」と言いました。すると僧は、顔色一つ動かさず、「枯木寒巌に倚る、三冬暖気無し」と言い放ちました。「まるで枯木が冷え切った岩に倚りかかったようなものさ、寒の真最中吹き曝しの気持ちだ」というわけです。
若い腰元は、試験も済んだので、老婆のところへ戻って行き、僧の一件いちぶしじゅうを報告しました。禅僧の謹厳な様子に、感心すると思いの外、老婆は大変怒りまして「思いの外俗物の僧を永らく優待していた。わたしは見込み違いをしていた」と言って、その僧を追い出し、住まわしていた庵室まで穢らわしいと言って焼き払いました。
この話は、「婆子焼庵ばししょうあん」(禅の本で五燈会元というのに書いてある老婆が庵を焼く話)という題で、禅家の方の公案こうあん(禅宗の師匠が弟子に与えて修業させる試験の宿題)になっていまして、なかなか研究がむずかしい問題です。
つまり僧の態度は、実在方面一方の人生の解釈で、まるで人間味がありません。これでは草木も同様です。それで老婆は俗物と罵って怒ったのでした。この老婆には大乗仏教的の鑑識眼があるというわけです。
禅宗の方の公案の研究というものは、ちょっと見ると非常識なやり方に見えますが、案外怜悧りこうなやり方で、人生に対する態度の雛型を一室の中で師匠と弟子とが実地のつもりで研究するのでありまして、いわば礼儀作法の稽古を小笠原流の先生と生徒とが、客となり主人となって雛型でやる、あれと同じようなもので、ただ内容が思想的に深刻な違いだけです。
ですから、あの若い腰元がもたれかかったのを実際世間上の場合に見立てれば、一人の女性に恋をし向けられた場合と見て取ってもいいわけです。その場合一人の男性として取るべき態度はいかに。この問題解決の研究です。無論その男性が、女性の恋を享け容れれば問題はありませんが、相手は見ず知らずの女性です。たとえ向うはこっちの男性をよく飲み込んでそれから恋したにもせよ、こっちの男性ははじめて会う女性です。少くとも心を打ち明けられたのははじめての場合です。こういう場合には、一人前の教養も、情操も、人情もある男性として、一旦は断るにしろあるいは永久に断るにしろ、相手の女性に恥をかかさず、さればといって自分の品位も堕おとさず、しかるべき人情味のある処置と言葉がありそうなものです。あの枯木寒巌のごとしと言って澄まし返った僧のような態度、言葉を実際にしたなら、相手の女性は一生恨み切るか、反撥的に自殺もしかねまじきあしらい方です。老婆の非難はそこにあるのでしょう。
同じ断り方でも、その女性の気持ちを汲みながら、無邪気ににっこり笑って「あなたが私をどんなに愛して下さっても、私は仏に仕える身ですから、あなたの愛を受ける事が出来ません。さあ早くお帰りなさい」とでも言いきかせて、肩へかけられた手をそっと外はずしてのければ、あとはどちらも気持ちよく別れることが出来ましょう。二十年も修業して、このくらいな自由な処置が取れないとは、まだ生なまなところがある。誘惑に負けまいと一生懸命、肩肘張って、非人情に噛りついていなければならないとは、まだどこか心に弱いところがある。そこを老婆は見破ったのです。
仏教では、誘惑を避けて逃れるのは人生の達人でないと断定します。どんな誘惑の中に入っても、その誘惑に染まぬばかりか、却っていつの間にか、こちらからその誘惑をうまく支配してしまう。その効果を仏教では「愛染行あいぜんぎょう」(愛染明王の行 愛欲に入ってしかも愛欲を度す)と言います。仏教修業の結果どんな熾烈さかんな愛欲や誘惑の中に入っても、これをよく節度して、その悪果に染まないように、その心身を自由に、大きく、かつしっかりさせるのです。ちょうど「泥中の蓮の花」のように、雑多な野心や誘惑や愛欲の真只中に生活しながらもその汚れに染まず、しかもその欲望、誘惑をうまく消化善用して立派な人格完成、絶対の安心、無上の幸福という花を咲かせるのです。これが本当の仏教が勇ましく私たちに教え勧める処世法であり、先刻の禅僧といえども、この事を体得しなければ俗人に劣ると言わねばなりません。浮世を隠遁したり、誘惑を恐れて必死になって逃げようとするなどは仏教の方でも低劣な小乗仏教と言って嫌います。以上述べましたことは外部からの誘惑でありましたが、心内から起る欲望の誘惑も全く同じであります。(この場合表面的態度よりも本質が大切ということでしょう。衆生無辺誓願度という本来の僧侶の気持ちがありさえすればどういう態度をとってもいいのだと思います。此の禅僧からはそれが感じられる以前の段階だったのでお婆さんがおこったということだとおもいます。白隠禅師は三島女郎衆からこういう日々を送っている者でも救われますか、と尋ねられたとき「三島女郎衆は仏の位、はなと線香で日を送る」といったそうです。なにかほのぼのとした気持ちになります。)