福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

御大師様の先祖供養についてのお考え・・21

2019-06-21 | 先祖供養
御大師様の先祖供養についてのお考え・・21
御大師様の「沙門勝道山水を歴て玄珠(げんじゅ、悟りを求める心)を瑩く碑並序、沙門遍照金剛撰」
「蘇巓鷲嶽(そてんじゅがく、須弥山・鷲峯山)は異人(佛菩薩)の都するところなり。達水龍坎(だっすいりょうかん、龍の棲む池)は霊物ここにあり。夫れ境、心に従って変ず。心垢るれば境濁る。心は境を逐って移る。境しずかなるときは心ほがらかなり。心境冥会して道徳(絶対の働き)はるかに存す。
能寂(釈迦)常に居して利見し(仏がみそなわし)、妙祥(文殊)鎮(とこしな)へに住して接引(仏道に引き入れ)、提山(お地蔵様の佉羅陀山)に迹を垂れ孤岸に津梁たるがごときにいたっては(補陀落山において衆生を済度したことは)ならびに皆仁山により智水につかずということなし(「仁者は山を楽しみ智者は水をたのしむ」ということ)。
台鏡みがき磨いで(無私の鏡を磨き)機水に俯して応ずるの沙門勝道といふものあり。下野芳賀の人なり。俗性は若田氏、神救蟻の齢にはるかして(15歳に及ばぬくらいの時)意(こころ)は惜嚢(具足戒をうける20歳)の歯(とし)に清し。四民の生事(庶民のいきざま)に桎枷せられて、三諦の滅業に調飢す(真・俗・中の3つの真理により業を滅したいと渇望した)。聚楽の轟轟たるを厭うて、林泉の皓然(あきらか)たるを仰ぐ。ここに同じき州に補陀落山あり(日光山は弘仁年間以前にすでにこうよばれていた)。蔥峯銀漢(青青とした山は雪をふくみ)を挿み、白峯碧落(青空)を衝けり。磤雷(さかんな雷)腹にして「た」(鰐)のごとくにほえ、翔鳳足にして(鳳凰はふもとで)羊の如くに角(いそ)ふ。魑魅通ふことまれなり。人蹊また絶えたり。とふ、古より未だ攀じ登る者あらず。法師義成を顧みて(釈迦をかえりみて)歎きを興し、勇猛を仰いで心を策(はげ)ます。遂に去りぬる神護景雲元年(676)四月上旬をもって跋みのぼる。雪深く巌峻しくして、雲霧雷迷して上ること能くせず。還って半腹に住すること三七日にして却き還る。又天応元年四月上旬、更に攀陟を事とするも上ること得ず。二年三月中、諸の神祇の奉為に経を写し、仏を図し、裳を裂いて足をつつみ、命をすてて道を求む。経像を繦負して(せおい)山の麓に至る。経をよみ仏を禮すること一七夜。堅く誓ひをおこして曰く「若し神明をして知ることあらしめば、ねがわくは我が心を察せたまへ。吾図寫するところの経および像、まさに山の頂に至って神の為に供養して神威を崇め、群生の福をゆたかにすべし。仰ぎ願はくは、善神威を加へ、毒龍霧を巻き、山魅前導して(山神先導して)我が願いを助け果たせ。我、若し山の頂に到らずは、菩提に至らじ。」是のごとく願いを発しおわって白雪の「がいがい」たるを跨んで緑葉の璀璨(さいさん、たれた珠玉のように輝く)たるを攀ず。脚踏むこと一半(半分)にして身疲れ竭きぬ。憩ひ息むこと信宿にして(二日泊)ついにその頂を見る。怳怳惚惚(きょうきょうこつこつ、うっとり)として夢に似たり、悟めたるに似たり。査(うきき、浮木)に乗るによらずして忽ちに雲漢に入り(あまのがわ)、妙薬を嘗めずして神窟を見ることをえたり。一たびは喜び、一たびは悲しむで心魂持ちがたし。山の状たらく、東西龍の臥せるがごとくして、彌(わた)し望に極まりなし(眺望が極まりない)。南北虎の蹲るがごとくして棲息するに興あり。妙高を指して儔(ともがら)とし、輪鉄(鉄囲山)を引いて帯となせり。衡岱(中国の衡山、泰山)猶卑(みじか)きことを咲ひ、崑香(こんこう、玉を産する崑崙山、香気あふれる香酔山)又劣なることを晒(あざけ)る。日出てまず明かなり。月来って晩く入る。天眼を仮らずして万里目の前なり。何ぞ更に鵠(こく、クグイ、仙人の乗り物)に乗らむ。白雲足の下なり。千般の錦花(千万の錦のような景観)、機無くして常に織り、百種の霊物(限りない霊妙な自然の事物)誰人か陶冶する。北に望めば湖あり。約め計ふれば一百頃(いっぴやくけい、およそ一万畝)なり。東西狭く南北長し。西に顧みれば一小湖あり。二十余頃あるべし。未申(ひつじさる、南西の方角)をかえりみれば更に一大湖あり。冪(こめ)計ふれば(全部を数えれば)一千余町なり。東西闊からず。南北長く遠し。四面の高き峯影を水中に倒しまにし、百種の異なる荘(かざり)木石自ずから有り。銀雪地に敷き、金花枝に発く。池鏡私なし。萬色誰か逃れむ。山水相映じて乍(たちまち)に絶腸(腸を絶つほどの絶景)を看る。瞻佇(せんちょ、ながめたたずむ)すること未だ飽かざるに風雪人をとどむ。我、蝸菴(かあん、蝸牛の庵)をその坤角に結んで之に住して、礼讃して動もすれば三七日を経たり。すでにこの願を遂げて便ち故居に帰る。
去りぬる延暦三年下旬に更に上って広さ三尺なるを造り得たり。即ち二三子と興に湖に棹さいて遊覧す。遍く四壁を眺るに神麗(霊妙美麗)夥く多し。東に看、西に看る。氾濫として(水が漲って溢れ)自ずから逸し。日暮れ興あまって強いて南の洲に託(つ)く。その洲は陸を去ること三百丈よりこのかた、方円三千丈余なり。諸州の中に美花富めり。復更に西湖に遊ぶ。東湖を去ること十五許里、又北湖を覧れば南湖を去ること三十許里、ならびに美をつくすと雖も惣て南には如かず。その南湖は碧水澄鏡のごとくして深きこと測るべからず。千年の松柏水に臨んで緑蓋を傾け、百囲の檜杉巌に竦(た)ちて、紺楼(かんろう、蒼紺の楼閣)を構えたり。五彩の華一株にして色を雑へ、六時の鳥、声を同じゆうして鳴くこと異にす。白鶴汀に舞ひ、紺鳧(かんぷ、かも)水に戯る。翼を振ふこと鈴のごとく、音を吐けば玉の響あり。松風琴を懸け、砥浪(しろう、水際の石に寄せる波)鼓を調ぶ。五音(中国・日本の音楽の理論用語。音階や旋法の基本となる五つの音。各音は低い方から順に宮(きゆう)・商(しよう)・角(かく)・徴(ち)・羽(う))争って天韻を奏し、八徳(八功徳水、極楽浄土などにあって、八つの功徳を備えている水。倶舎論(くしゃろん)では、甘・冷・軟・軽・清浄・不臭・飲時不損喉・飲已不傷腸の八徳。)湛湛としておのずから貯えたり。霧の帳、雲の幕、時時難陀(難陀竜王)が冪れき(べきれき、住まいとする)するなり。星の燈、雷の炬、数数普香(ふこう、明星天子のこと)の把り束ねたるなり(つかねもつ)。池中の円月を見ては普賢の鏡智を知り、空裏の慧日を仰いでは(空中に輝く智慧の日をあおいでは)遍智の(覚りの智慧)我にあることを覚る。この勝地に託いて(よって)いささか伽藍を建つ。名ずけて神宮寺(今は廃寺)といふ。ここに住して道を修すること荏苒として四祀(四年)なり。(延暦)七年四月更に北涯に移住す。四望さわりなく、沙場(水際の砂場)愛しつべし。異花の色、名け難うして目をおどろかす。奇香の臭(珍奇な香り)尋ね叵(が)とうして、意を悦ばしむ。霊仙(仙人)知らず、いずくにか去る。神人(仙人)髣髴として存するがごとし。歳精(漢の東方朔のこと、東方朔は「十州記」で海中に浮かぶ十の洲を記述)の記すること無き事を忿り、王侯(古代中国の隠者)の遊ばざるを惜しむ。飢虎を思へども遇はず(お釈迦様の捨身飼虎のこと)、子喬(仙人の名)を訪って適に去る。花蔵を心海に観じ(さとりの蓮華蔵世界を心に観じ)実相を眉山(日光の山は須弥山のよう)に念ふ。蘊ら(雑草)寒を遮し、䕃葉(いんよう、茂った木の葉)暑を避る。菜を喫ひ水を喫って楽び中にあり。たちまちにゆきたちまちにゆいて塵外に出ず。九皐(深谷)の鶴の声、天に達し易し。去りぬる延暦中、柏原皇帝(桓武天皇)之を聞しめして便ち上野国の講師(こうじ、僧侶の取り締まり役)に任ず。利他時あり、虚心物に逐ふ。又華厳の精舎(華厳寺)を都賀の郡城山に建立す。此れに就き彼に往いて物を利し道を弘む。去んじ大同二年、国に陽九(禍)有り。州司(くにのつかさ)法師をして雨を祈らしむ。師、補陀落の山(日光山)に上って祈祷す。時に応じて甘雨霶霈(ほうはい)して百穀豊登なり。所有の佛業(仏の業)縷しく説くこと能くせず。ああ、日車(月日)とどめがたく人間(じんかん)変じ易し。従心(70才)忽ちに至りて四蛇(地水火風)虚羸(きょるい、空しく衰える)す。摂誘(しょうゆう、いざなう)是れ務めて能事畢むぬ(為すべきことをないおえた)。前の下野の伊博士公(伊という博士氏)、法師と善し、秩満して(任期満了)京に入る。時に法師勝境(勝景)の記すること無きことを歎いて属文を余が筆に要す(文章をつくることを頼む)。伊公(伊という博士)余に輿(くみ)す。故に固辞すれども免れず。虚に課(おほ)せて(ともかく)毫を抽(ぬきい)ず(筆をとる)。乃ち銘をつくって曰く。鶏黄(けいおう)地を裂き 粹気(すいき)天に昇る (天地混沌の時、」純粋の気が天に上った)蟾烏(せんう)運転して 万類跰闐(へんてん)す (日月運行して万物ははびこった)山海錯峙(さくじ)し 幽明阡(みち)を殊にす
俗波は生滅し 真水は道の先なり(有為は消え、無為は永遠なり) 一塵 獄を構え 一滴 湖を深くす。埃涓(あいけん)委聚(いしゅう)して (塵や水があつまって)
神都を画飾す (仙人のいる二荒山を飾る)嶺岑(れいしん)梯(てい)あらず(山には梯子はない)鷲鷟(がくぞく)も図ること無し(鳳凰も高さを測れない)皚皚(がいがい)たる雪嶺 曷(たれ)か矚(み)誰か廬(いおり)す(一面に真っ白な雪嶺を誰が見て誰が住むことが出来よう) 沙門勝道 竹操松柯(しょうか)あり (沙門勝道は志操堅固)
之の正覚を仰ぎ 之の達磨(たらま)を誦す( 仏の覚りを求め、呪をとなえる)
観音に帰依し 釈迦を礼拝す 。道に殉(したが)いて斗藪し 直ちに嵯峨に入る(広大なる山に入る) 絶巘(ぜっけん)に龍跳し 鳳挙(ほうきょ)して経過す
神明威護して 山河を歴覧す 。山また崢(そうそう)たり 水また泓澄(こうちょう)たり 。綺花(きか)灼灼(しゃくしゃく)たり 。異鳥嚶嚶(おうおう)たり 。地籟(ちらい)天籟 筑(ちく)の如く筝の如し 。異人乍(たちま)ちに浴し 音楽 時に鳴る (諸菩薩、天人忽ちに住んで、・・)。一覧 憂いを消し  百煩 自(おのず)から休す
人間に比すること莫し  天上にも寧(なん)ぞ儔(とも)あらん 。孫興も筆を擲(なげう)ち(『天台山賦』をつくった東晋の文学者孫興も筆を投げ)  。郭(かく)も豈(あに)詞周(あまね)からんや (能弁家の郭象もいいつくせない)。咄哉 同志 何ぞ優遊せざる 。人の相知る事必ずしも対面して久しく語るのみにしもあらず。意通ずれば傾蓋の遇なり(路上で会って傘を傾けて話し合う)。余と道公と生年より相見ず(うまれてこのかた会ってない)。幸いに伊博士公に因ってその情素(せいそ、まごころ)の雅致(みやびなおもむき)を聞き、兼ねて洛山(補陀落山=二荒山)の記を請ふことを蒙る。余不才なれども仁に當る(みこまれた)。敢へて辞譲せず。すなわち拙詞を抽んでてならびに絹素(けんそ、白紙)の上に書す。詞翰俱に弱くして深く玄の猶白からむことをおそる(未熟をおそれる)。寄するに瓦礫をもってし、其の情至(せいし、心情)を表す。百年の下に忘るることなくして相憶はむのみ。
西嶽沙門遍照金剛題す
弘仁の敦祥(弘仁の午の年、弘仁五年814)の歳 月次壮朔三十(八月三十日)の癸酉(みずのととり、きゆう)なり」

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