福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「十善法語」その9

2019-09-09 | 法話
通途の者は。我が手に取らず我が眼に見ねば。我が所領とも云はれぬ様に思ふべけれども。手に取る物ばかりが我物と云ふことではない。眼に常に見て居る物ばかりが我物と云ことではない。

千金の家翁も。常に千金を懐にし居はせぬじゃ。家僮などにまかせおきて千金の主じゃ。一邑一郡の主も。自其田穀の多少を撿するではない。僕従家長などにまかせおきて一邑一郡の主じゃ。大君の一天萬乗の主たるも。山海の廣狹。土地の産物。人民百姓の田穀財寶の員數まで。ことごとく知ることではない。民百姓の田地財寶は。やはり民百姓の田地財寶にして。直に我有じゃ。功臣諸侯には一國二國を與へ。此を子孫遠裔に傳へさせおきて。やはり我有地じゃ。

此譬喩にて知れ。眞修行の人は。梵天へ上て見ねども。十八梵天には静慮の樂を得させ置て。我有じゃ。我子じゃ。無色界は見ずとも。又自身無色定を得ずとも。彼衆生に深禅定に入らせおきて。我有じゃ。我子じゃ。

勇者は勇者。智者は智者。たとひ我腕力智慧は彼に及ばずとも。みな我有じゃ。我子じゃ。面白きじゃ。富貴の者は富貴ながら我有じゃ。我子じゃ。貧賤なるものは貧賤ながら我有じゃ。我子じゃ。面白きことじゃ。
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