雲伝神道( 和田大円述 小林正盛編)について・・3
第三章、 古代文字の有無
・・・慈雲尊者の説に依ると神代には文字がないといふ。・・文字のあるようになったのは応神天皇以後のことであって、
・・神祇にあって肉食したのは下位の神々であって上位の神々は分段食をしない。赤き心、清き心が上位の神々の常食である。欲界には婬貪と食貪があるが上二界(色界・無色界)には生まれながらにして禅定智慧が具有しておる。・・食に法喜食と分段食とがある。上位の神は赤心をもって常食とせられるのであって欲界における我々のように分段食をとるのではない。(我々は食物をすこしずつ口に運んでだんだんに食していくからこれを分段食といふ)・・
慈雲尊者は神の本地の不明なものは愛染明王を本地とせよと仰せられたが密教の明王部の仏で瑜祇経の所説である。これは深秘の説である。奈良朝末期ごろ神宮寺ができたがこれは神に法楽を捧げるための寺院で、本地垂迹は悲華経に「わが滅度の後悪世の中に於いて大明神と現じ衆生を度す」といふ文にもとずいた説である(溪嵐拾葉集にこう書いてあるが悲華経には大明神の文字はない)。神に対して経や呪を唱へるときは上位の神には法楽を捧げるのであり、下位の神には仏法の教えによって得脱廻向せしむるためであると心得るべきであろう。
内宮は人皇第十一代活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりひこいさじのすめらみこと)の二十五年三月天照大神を豊耒入姫命(とよすきいりひめのみこと)よりお離しもうして倭姫命に託した (『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、天皇はその原因が天照大神(のちの伊勢神宮祭神)・倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の2神を居所に祀ったことにあると考えた。そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭の笠縫邑(かさぬいのむら:比定地未詳)に祀らせ、よって磯堅城の神籬を立てたという。一方、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせたが失敗している。)倭姫命は莵田の笹幡に詣りさらに還って近江の国に入り、東の方美濃を廻って伊勢の国に到った時、天照大神が倭姫命に教えて「是れ神風の伊勢の国は則ち常世の波、重波帰よする国なり。かたくにの可し国なり、傍国の可怜国うましくになり。是の国に居らんと欲す」(日本紀垂仁天皇25年3月丙申条)と宣はせられたので宮柱太しきを立て五十鈴の川上に鎮りましましたのが磯宮と称したといふので是が天照大神伊勢鎮座の最初の地である。(日本書紀六)。外宮は第二十二代雄略天皇二十一年に丹波から遷座になったその間四百八十四年を隔てておる。
神名秘書に第六十六代一条天皇の御宇、伊勢祭主公節の時、天照大神は奥座すなわち内座ゆえ内宮と称し、豊受太神は外座ゆえ外宮と称したといふ、これ一傳である。しかるに一説には内宮は五畿内の大和から遷座されたから内宮といひ、
外宮は丹波の与謝野郡すなわち五畿以外から移られたのでこれを外宮といふとある。
夫れ神道は無為から有為に入り、仏法は有為から無為に入ることを忘れてはならぬ。有為・無為とは華厳探玄記に、縁起の法を有為とし、無性の真理を無為と称すとある(華嚴經探玄記卷第四 名號品第三)。又四相(生・住・異・滅)即ち変易の法を有為と称すといふ。日本の自凝島おのころじまや印度の須弥山などは皆有為の物体である。しかしてこの有為無為は別體であるかといふとそうではなくて表裏をなすものである。有為と無為は一体の両面でありまた水波の関係の如きものである。密教の即事而真の理もこれにもとずくものであり、神道の和光同塵も有為無為相即不離の関係を知悉してはじめて真に理解し得られるものである。
慈雲尊者は神の本地の不明なものは悉く愛染明王を本地とせよと仰せられた。瑜祇経の所説である。
唯一神道は卜部家が始めた、仏教色を廃した神道というが、その聖典ともいうべき「名法要集」そのものが仏教色を佩びておりまったく神仏習合の神道である。太平記二十五に卜部宿祢兼員は平野の神殿で十二人の社僧に大般若経を真読させ・・(太平記二十五「翌日より兼員此剣を平野の社の神殿に安じ、十二人の社僧に真読の大般若経を読せ、三十六人の神子に、長時の御神楽を奉らしむるに、殷々たる梵音は、本地三身の高聴にも達し、玲々たる鈴の声は垂迹五能の応化をも助くらんとぞ聞へける。其外金銀弊帛の奠、蘋■蘊藻の礼、神其神たらば、などか奇瑞もこゝに現ぜざらんと覚る程にぞ祈りける。已に三七日に満じける夜、鎌倉左兵衛督直義朝臣の見給ける夢こそ不思議なれ。所は大内の神祇官かと覚へたるに、三公・九卿・百司・千官、位に依て列座す。纛の旗を建幔の坐を布て、伶倫楽を奏し、文人詩を献ず。事の儀式厳重にして大礼を被行体也。直義朝臣夢心地に、是は何事の有やらんと怪く思て、竜尾堂の傍に徘徊したれば、権大納言経顕卿出来り給へるに、直義朝臣、「是は何事の大礼を被行候やらん。」と問給へば、「伊勢太神宮より宝剣を進らせらるべしとて、中議の節会を被行候也。」とぞ被答ける。さては希代の大慶哉と思て、暫見居たる処に、南方より五色の雲一群立出て、中に光明赫奕たる日輪あり。其光の上に宝剣よと覚へたる一の剣立たり。梵天・四王・竜神八部蓋を捧げ列を引て前後左右に囲遶し給へりと見て、夢は則覚にけり。直義朝臣、夙に起て、此夢を語給に、聞人皆、「静謐の御夢想也。」と賀し申さぬは無りけり。其聞へ洛中に満て、次第に語伝へければ、卜部宿禰兼員、急ぎ夢の記録を書て、日野大納言殿に進覧す。大納言此夢想の記録を以て、仙洞に奏聞せらる。事の次第御不審を非可被残とて、八月十八日の早旦に、諸卿参列して宝剣を奉請取。翌日是を取進せし円成阿闍梨、次第を不経直任の僧都になされ、河内国葛葉の関所を恩賞にぞ被下ける。只周の代に宝鼎を掘出、夏の時に河図を得たりし祥瑞も是には過じとぞ見へし。此比朝庭に賢才輔佐の臣多といへ共、君の不義を諌め政の不善を誡めらるゝは、坊城大納言経顕・日野大納言資明二人のみ也。夫両雄は必諍ふ習なれば、互に威勢を被競けるにや、経顕卿被申沙汰たる事をば、資明卿申破らむとし、資明卿の被執奏たる事をば経顕卿支申されけり。」)
とあるのをみても神仏の偏執がなかったことが判明し、卜部家ももとは佛教を信じていたことがわかる。また神官の親族で出家入道した者も多く(龍尚社の神国決疑編)これをあげると一演、賀茂の長明(禰宜・鴨長継の次男)、慈遍(卜部(吉田)兼顕の子で、「徒然草」の著者吉田兼好とは兄弟)、兼好、九江、梵舜(吉田兼右の子で吉田兼見の弟。別名を龍玄とも。豊国廟の社僧)等がある。一演は大中臣智治麿の子で出家して真如法親王の弟子となり、山城国乙訓郡の相応寺を建てて住んでいたといふことである(三代実録)。時縄の神道編に或る記を引いて、吉田山の下に南禅寺の末寺で神蔵院といふ寺に卜部兼倶の子・九江が出家しておる、故に佛理を神道に引き入れるのは巧妙であるというておる。此の寺で神道護摩を修する事ができる。・・破邪顕正問答で吉田社で元禄十年丑五月二十八日、大般若転読を再興されたとある。また神官やその家族が写経したとある。今から二百年前は吉田家の神道はたしかに両部習合であった。
奈良朝末期から神宮寺が次々とできたがこれは神に法楽を捧げるための寺院であって本地垂迹の意味の神宮寺ではない。これは悲華経に「わが滅度の後、悪世の世の中に於いて大明神と現じ広く衆生を度す」といふ文にもとずいた説である。また神に経や呪を唱える時は、上位の神には法楽を捧げるのであり、下位の神には仏法の教えによって得脱廻向せしむる為であると心得るべきであろう。
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