5、原人論(終南山草堂寺沙門宗密述)「三つ目の大乗法相教(唯識)」
三、大乗法相教
(三つ目の大乗法相教(唯識)では、有情は無始以来、本来八識を持っていたと説いている。その中でも第八番目の阿頼耶識こそが、人間存在の根本にある心の働きであるとしている。絶えず阿頼耶識の中の身体と環境に関する種子が色々の縁によって変化して、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識の七識が生まれる。それら全てはおのれの本来の姿を変えて現れて来るが、実体がある訳ではない。ではどのようにして変化するのか。思うに、自分自身が外界を認識し始めると、阿頼耶識の中に貯蔵された種子の力に依って、その認識の有り様に似て変化して諸識が生まれてくる。第六番目の意識と第七番目の末那識は、真理に暗いのにそれに執着し過ぎて、自分と云う存在が実存するものだと思い込む。患った時(重病の時は意識が朦朧として、幻影を見る)や夢を見た時には、病や夢と云う異常な状態のせいで、心の中に有りもしない諸々の現象が現れてくる。夢の中では頭の働きが鈍って異様なものが現れたりするが、目覚めさえすれば、それは神仏や鬼や霊などが形を変えて夢の中に現れた仮の姿なのだと云うことが解る。我々の身体も夢の中のこの出来事と同じ事である。これらのことはただ心の中にしか存在せず、一切は心の中で起こった変化に過ぎない。(唯識所変)。唯識の道理を知らない為に、自分自身の存在や外界の事物の存在にこだわり、その為に迷いを起こし、業を造り、生死の世界に窮まること無く輪廻する。この道理を悟ってよく理解出来れば、自分自身は識が生み出した仮の姿であって、心の働きこそが人間の本源であることを理解出来る。(この教えが不完全な教説である点については、後に批評することにする)
「三に大乘法相教は説かく、一切有情は無始已來、法爾に八種の識あり。中に於いて第八阿頼耶識は是れ其の根本なり。頓に根身・器界・種子を變じて七識を轉生す。皆な能く自分の所縁を變現すれども都て實法なし。如何が變ずるや。謂く、我なり法なりと分別しつつ熏習せし力の故に、諸識の生ずる時に變じて我と法とに似たり。第六七識の無明、覆ふが故に、此れを縁じて執して實我實法と為す。患と(重病に心惛して異色人物を見る也)、夢(夢想の所見知るべし)とは患と夢との力に依るが故に、心に種種の外境に似て相現ずるを、夢
時には執して實に外物有りと為すも、寤さめ來て方に知る、唯だ夢の所變なることを。我身も亦た爾なり。唯識所變なり、迷ふが故に我及び諸境有りと執す。此に由りて惑を起こし業を造り、生死無窮なり。(廣くは前に説くが如し)。此の理を悟解すれば、方に我身は唯識所變也と知る。識を身の本と為す。 (不了之義は後に破するところの如し。) 」