4、原人論(終南山草堂寺沙門宗密述)「偏淺を斥く第二 佛の不了義教を習ふ者」
(仏教の諸宗は、その教義が浅いものから深いものに向かって五つに分かれる。一が人天教、二が小乗教、三が大乗法相教(唯識)、四が大乗破相教(中観)である。五は一乗顕性教(華厳)である。(最後の一乗顕性教(華厳)は次の第三で説く)
(一、人天教)
一つ目の人天教(人間界と天上界における勧善懲悪の教え)では、初心者の為に、前世・現世・来世の三世に亘る自身の行為に対する報いや、因果による善悪の報いについて説く。そこには、「十悪は死んで地獄に堕ち、次に悪い場合は死んで餓鬼道に堕ち、そして次に悪い者は死んで畜生道に堕ちる」とある。そこで仏は、儒教で云う五常の教えに倣って五戒の掟を定めたので(不殺生は仁、不偸盗は義、不邪淫は礼、不妄語は信、酒肉不飮噉酒ならば精神は清められ智慧も付く、という。)死んで三途の世界に堕ちることなく、人間界に生まれることが出来る。最善の場合、十善及び布施・持戒などを修めれば、天上界のうちの六欲天に生まれ変わることが出来、また四禅八定を修めれば、未だ凡夫の世界ではあるが、色界や無色界に生を受けることが出来る。(本論の中で天道・餓鬼道・地獄道に触れていないのは、別の次元の世界のことでもあり、またその知識も不十分なので、本筋の妨げになると考えたからである。従って儒仏二教に対する関連で、ここに原人と称する次第。いま仏教に就いて触れるに当たり、その道理は詳しく順序立ててみるのが良い)そこで人間界と天上界との衆生の教えという意味で、人天教と称するのである。(報いをもたらす行いの業には悪業・善業・不定業の三種類があり、受ける報いには時間差によって現報=順現法受業・生報=順次生受業・後報=順後次受業の三種類がある)この人天教の教えでは、業が人間の生き方の本となると説いている。人天教の教えを批判すると、人天教では業の結果として五道に生まれ変わるのだと説くが、誰が業を造り、誰がその果報を受けるのか定かでない。もし眼耳手足が業を造るとするならば、死んだばかりの人にも眼耳手足がそのまま残っているのに、どうして見たり聞いたり手足を動かしたりして業を造り出すことが出来ないのだろうか。もし心が業を作り出すものだとしたら、心とは何ものなのか。もし肉体の一部だとする心が、業の造り手だとするならば、それは物質であり、身体の中に存在することになる。それがどうして同じ身体の一部である眼耳を使って外界の是非を判別できるのか?判別出来なければどうやって物事の取捨選択をしているのか?またこの心と眼耳手足は害し合うものなのに、どのように協同したり連動したりして同じ業縁を作り出すのだろうか?もし喜怒哀楽の感情が身体を動かし言葉を喋らせて業を造るのだとするならば、発露した喜怒などの感情はすぐに消え去るものだから、実体が無いことになる。それでは何が一体造業の主体なのか。また身体と心が一体となって造業に関わるとするならばどうだろうか。だがこの場合、死と共に一体となった身体と心が消滅してしまったら、誰も苦楽の果報を受け取る事が出来ない。もし死んだ後に身体が残っていたとしても、今日の体や心の罪業や福業の結果が、他日後世の苦報や楽報として現れることなどあり得ない話である。こう考えると、福業を修めても修め損となるし、罪報を造れば造り得となる。神の道理とは誠に無道なものである。だからこの人天教を学ぶ者が業縁を信じたとしても、人の本源を明らかにしたことにはならない。)
「偏淺を斥く第二 佛の不了義教を習ふ者
佛教、淺きより深きに逝くに略して五等あり。一に人天教。二に小乘教。三に大乘法相教。四に大乘破相教。上の四は此篇中に在り。 五に一乘顯性教(此の一は第三篇中に在り)
一には佛初心人の為に且らく三世業報・善惡因果を説く。謂く上品十惡を造りて死して地獄に墮つ。中品は餓鬼。下品は畜生。故に佛且らく世の五常之教に類して、五戒を持たしめ三途を免るることを得て人道の中に生ず。天竺の世教の儀式殊と雖も、懲惡勸善には別無し、亦た仁義等の五常を離れて而も徳行の修すべき非ず。例せば此國には手を歛めて擧げ、吐番には手を散じて垂る。皆爲禮也 。不殺は是れ仁、不盜は是れ義、
不邪淫は是れ禮、不妄語は是れ信、酒肉を飮噉せざれば、神氣清潔にして智を益す也。 三途に生れるを免れ得て人道中に生ず。上品の十善及び施戒等を修して六欲天に生ず。四禪八定を修して色界無色界天に生ず。題中に天鬼地獄を標せざるは、界趣不同、見聞不及、凡俗尚ほ末を知らず。況んや肯(あえ)て本を窮めんや。故に俗教に対して且らく原人と標す。今ま佛經を敍す理、宜しく具さに列すべし。故に人天教と名くる也。
然るに業に三種有り。一に惡。二に善。三に不動。報に三時あり。謂る現報、生報、後報なり。 此教中に據るに業を身本と為す。
今之を詰して曰く、既に造業に由りて五道の身を受く。未だ審かにせず、誰人か業を造り、誰人か報を受くと。若し此の眼耳手足能く業を造らば、初死之人、眼耳手足宛然たり。何ぞ見聞造作せざるや。若し心作ると言はば、何者か是れ心。若し肉心と言はば、肉心質あり、身内に繋る。如何んぞ速やかに眼耳に入って外の是非を辨ぜん。是非知らずんば何に因ってか取捨せん。且つ心と眼耳手足と倶に質閡となす。豈に内外相通じ運動應接して同じく業縁を造ることを得んや。若し但だ是れ喜怒愛惡、身口を發動して業を造らしむと言はば、喜怒等の情、乍ち起き乍ち滅す。自ら其體無し。將に何を主と為して業を作らん耶。設し此の如く別別に推尋すべからず。都て是れ我が此身心能く業を造ると言はば、此の身已に死して誰か苦樂之報を受くるや。若し死後更に身有りと言はば、豈に今日の身心、罪を造り福を修し、他の後世身心をして苦を受け樂を受けしむることあらんや。此れに據らば則ち修福の者は屈甚しく、造罪の者は幸甚なり。如何ぞ神理は此の如く無道なるや。故に知る、但だ此教を習ふ者、業縁を信ずと雖も身の本に達せず。」
(二、小乗教)
(二つ目の小乗教では、肉体(五蘊の色)や心的作用(五蘊の受・想・行・識)について語り、それは限りなく遠い過去から因縁によって、一舜一舜生滅を繰り返しながら継続して窮まるところがないと説く。その様子はまるで、水が絶えることなく流れ、灯火が絶えることなく燃えているようである。このように我々の身心は、因縁の力によって一時的にではあるが合体しているので、ちょっと見ると一つのもののようにまた不変なもののように認識されがちである。この因縁の力を知らない愚か者は、この一時の身心の状態に固執して、これを我(が)と捉えまた大事にしている。だから貪・瞋・癡の三毒を起こすことになる。三毒が現れて意識を刺激すると身体と口を動かして、全ての業を作り出すことになり、そうなると因果の道理によって、その業から逃れることが出来なくなる。そして五道に於ける苦・楽の業報を受ける身となり(不共業)、三界の優劣の差のある場所(共通に背負わねばならぬ共業)に生まれることになる。)
「二に小乘教は説かく、形骸之色、思慮之心、無始より來た因縁力の故に念念生滅して相續無窮なり、水の涓涓たるが如く、燈の焔焔たるが如し。身心仮に合して一に似、常に似たり。凡愚は覚らず、之に執(こだわ)って我と為す。此の我を寳とするが故に、則ち貪(むさぼ)る(名利を貪り、以て我を栄(さかん)にす)、瞋(いか)る(違(たが)う情境を瞋り、我を侵害することを恐れる)、痴(まよ)う(非理の計(けい)校(こう))等の三毒を起こす。三毒は意を撃ち、身・口を発動し、一切の業を造り、業成れば逃れ難く、故に五道の苦楽等の身(別業の感ずる所)を、三界の勝劣等の處(共業の感ずる所)を受く。」
(業報を受ける身になると、再び我執に拘って三毒を呼び起こして業を造りだし、その結果として果報を受けることになる。すなわちその身は輪廻から抜け出すことが出来ず生老病死を繰り返し、生死窮まるところがない。その業報を受けた身は誕生・持続・崩壊・空虚の循環を繰り返し、時を経てまた空虚から誕生する。倶舎論に「空虚な世界に大風が巻き起こり、その広がりは想像を絶するもので、厚さが十六洛叉の風輪となる。如何なる物もこれを破壊することが出来ないほどで、須弥山の土台となり、この大風を持界風と呼ぶ。色界の第二禅天にある光音天(極光浄天か)ら金蔵雲が湧き立って三千世界を覆い尽くし、雨が滝の如く降り注ぐも持界風に妨げられて流れ落ちることが出来ず、風輪の上に止まって水輪となる。その深さが十一洛叉に達すると、始めて金輪が出来はじめる。次第に金蔵雲からの雨が貯まって金輪が満ち終わると、先ず六欲天の天上部分の夜摩天から色界の初禅天・梵王界に至る世界が出来てくる。一方持界風は水輪の内の水に刺激を与えて、須弥山や七つの山脈を作る。水輪の内の濁り滓は、山地・四州・泥犂・海水・外輪山となる。すなわちこれを命ある者が住む世界の成立と呼ぶ。こうして天地創造の始めに、一中劫が費やされる。次いで色界の第二禅天に住んでいた有情たちの福報が尽き果てて、人間世界に生まれ変わる。さて地上に降り立った有情たちも、始めのうちは地上にある美味な消化の良い食物で快適に暮らしていたが、それも尽き果てると消化の悪い粳米を食べるようになって大小便を排泄するようになり、男女の別が生じ、食糧確保の為の土地争いから地主と小作の関係が現れ、やがて領主と領民の差別も生じ、こうして人間世界が成立するのに十九中劫を費やすことになる。初めから考えると、二十中劫を経て成劫が終わることになる」と(已上倶舎論)。さて以上のことを認識した上で仏教と他教との違いについて考察を加えるに、仏教で云う空劫の中のことを、道教では虚無の道と云っている。しかし天地は霊妙なもので、決して虚無なるものでは無い。老子は空界に相当する概念を大道と呼んで、人々の物欲を絶ち切らせる手段に利用したのかも知れない。また空界中の大風とは、老子の云う渾沌の一気のことである。だから老子は「道は一を生ず」と云ったのである。金蔵の雲と云うのは、根源の働きが具象化し始めること、すなわち太極のことである。雨が降っても流れないと云う件(くだり)は、儒教で云う陰気が凝結し陰陽が合して万物を生成することに相当する。梵王界すなわち須弥とは、儒教の云う天のことである。滓濁とは儒教で云う地のことである。すなわちここの件は、道教で云う渾沌の一気から、或いは儒教で云う太極から、陰陽の二気を生むと云う件に相当する。第二禅天に住んでいた有情たちの福報が尽き果てて、人間世界に生まれ変わるという件は、儒教で云う天・地が合して人が生まれると云う表現に相当する。すなわち天・地の二つが合して人が生まれ、ここに三才が整うことになる。地餅以下云々のことは、この三才から万物が生まれたという老子の言葉に相当する。これらの意味するところは、古代中国における三皇以前の状況で、洞穴で暮らしたり野宿して食べ物を漁ったりしていた時代のことで、まだ火を使うことを知ら無い時代のことである。当時は文字が発明されていなかったので、後世の人々には詳しいことは解らない。漠然としていて間違いもあり、多くの学者の著述もあり、また多くの異説があって本当の處は解らない。仏教では三千世界を取り挙げてその様子を語っているが、中国だけを対象にしていないので、儒・道・仏教の説く處が同じにならないのは当然のことである。住というのは住劫のことで、やはり二十中劫の経過期間があり、壊というのは壊劫のことで、これまた二十中劫の経過期間がある。壊劫では、前の十九中劫の間に一切の生き物を刀兵災・疾疫災・飢饉災の小三災で亡ぼし、最後の一劫でその住む世界を火災・水災・風災の大三災で壊す。空とは空劫のことで、同じように二十中劫の経過期間があり、ここで世界も一切の生き物も消えてしまうのである。未来永劫にわたって輪廻は絶えることがない。終わりも始まりもなく、あたかも井戸の滑車が上下を繰り返して、動きが止まらない様子に似ている。(道教では、この今の世界が出来る前の一回の空劫の期間だけを問題にして、虚無だの渾沌の一気だのと云って、それを世界の始まりとしている。その空劫以前にも数え切れないほどの成・住・壊・空の四劫期間を繰り返して、終わるとまたすぐに始まることを知らずにいる。だから仏の教えの中でも浅薄な教えとされる小乗教でさえも、儒教や道教の中の深遠な教えよりも勝れていることが解る。)全く我々人間の根底には、永遠に不変な実体など無いのだと云うことを知らないのだ。永遠に不変な実体など無いと云うのは、人間は元々肉体と心が因縁によって和合してこの世に現れたもの、と云うことである。さて今度は、人間の根底にある永遠不変の実体について詳しく分析してみよう。色には地大・水大・火大・風大の四大種が有り、心には受・想・行・識の四蘊が有る。もしこれらが皆我だと云うならば、八つの我が有ることになる。更には地大の中にもまた多くの我がある。骨だけでも三百六十段あるから、それぞれ別々の我があることになる。皮・毛・筋・肉・肝臟・心臟・脾臟・腎臟も、それぞれ別のもので我と云うことになるがそうではない。色々ある心の成分(心所)もそれぞれ別なものである。その働きの中でも見ると聞くとは別ものだし、喜びの思いと怒りの思いはまた別ものである。こうして見てくると、八万四千にも上る煩悩を数えることが出来る。これ程多くの別々なものがあれば、一体何を以て我として良いか解らない。これら全てを我とするならば、我の数は百にも千にもなり、一個人の中の多くのその我が互いに争って紛糾し、その結果として混乱が起きることになる。以上のような見方の外に、我すなわち人間の心の内にある永遠不変の実体を解明する方法はあるまい。あれこれほじくり返してもこれ以上、我の正体を推し測ることは難しい。すなわち我々の身体は、ただ多くの縁が都合良く混ざり合ったものだから、元来自分とか他人とかの区別はないものだと云うことが解れば、欲深くなったり、怒ったりする意味がなくなる。殺したり盗んだりする悪行も、施したり諌めたりする善行も意味がなくなる。(こうして苦諦の意味が解ってくる)そうなれば善悪に拘わらず三界の煩悩は、心に留めないことが肝心となる。(集諦を断つ必要が解る)もっぱら人間の心の内にある永遠不変の実体など無いことを理解し(煩悩を消す具体策・道諦が解る)、そうすることによって欲深さなども絶ち切って、あらゆる業を捨て去ることが出来、永久不変の我は存在しない事が真理として明らかにされる。(煩悩を消滅させねばならぬ滅諦が明かされる)そうなれば最高の悟りの境地である阿羅漢果に達し、身も心も無にして執着を捨て去り、あらゆる苦悩を絶ち切ることが出来る。この小乗教の教えは、身・心の二つの存在と貪・瞋・癡の三種の煩悩が、身心と自然界の本源であると云う。また過去にも未来にも、これ以外に本源となる存在はないとする。では小乗教の教えを批評してみる。幾度も生死を繰り返し世代を重ねてきた我々人間の根本と為る主体は、切れ目無く続くものである。ところで物事を認識する場合、因となる五識(眼・耳・鼻・舌・身)は、縁となる五蘊(色・声・香・味・触)が存在しなければ働きだすことが出来ない。六識の中の意識は、機会が与えられなければ働き出すことは無い。(意識が働かない時とは、気絶したり、眠っていたり、禅定の最終段階となる滅尽定、そして色界第四禅定にある陥ってはならぬ無想定と、その結果である無想天の五つの場合である。)無色界では 欲望も物質的条件も超越しているので、四大種は存在しない。そうすると、ここにある我々人間が絶えること無く世代を重ねてきたのは、一体どう云う訳か。 このように小乗教は六識の作用を説くだけなので、人間の根本を明らかにすることは出来ない。 )
「共業所感、所受の身に於いて還て執して我と爲す。還た貪等を起こし造業受報す。身は則ち生老病死あり。死而して復た生る。界は則ち成・住・壞・空あり。空じて復た成る。 空劫より初て世界を成ずとは、頌に曰く「空界大風起り、傍廣數無量なり。厚さ十六洛叉。金剛も壞する能はず。此を持界風と名く。光音金藏の雲、布(しひ)て三千界に及び、雨は車軸の下す如し。風遏(さえぎり)て流れを聽さず。深さ十一洛叉なり。始め金剛界を作り、次第に金藏の雲あり。雨を注ぎて其内に滿つ。先ず、梵王界乃至夜摩天を成ず。風、清水を鼓して須彌七金等を成ず。滓濁は山地・四洲及び泥犁・鹹海外の輪圍と為り。方に器界立と名く。時に一増減を經る。乃至二禪の福盡きて人間に下生す。初め地餅林藤を食し後に粳米を銷せず。大小便利し男女形ち別れ、田を分かち主を立て、臣佐を求む。種種差別し十九増減を経る。前を兼ね總じて二十増減を名けて成劫と為す」。議して曰く、空界劫中とは是れ道教は之を指して虚無之道といふ。然るに道の體は寂照靈通にして是れ虚無ならず。老氏或は之に迷ひ、或は權設して務めて人欲を断つ。故に空界を指して道と為す。空界中の大風とは、即ち彼の混沌の一氣なり。故に彼、道は一を生ずという也。金藏の雲とは、氣形之始、即ち太極也。雨下りて流れずとは陰氣の凝(こお)る也。陰陽相合して方に能く生成す。梵王界乃至須彌とは彼之天也。滓濁とは地なり。即ち一は二を生ず矣。二禪福盡きて下生すとは即ち人也。即ち二は三を生じ三才備れり。地餅已下乃至種種とは即ち三より萬物を生じるなり。此れ當に三皇已前穴居野食、未だ火化有らざる等にあたる也。但し其時、文字記載無きが故に後人の
傳聞不明なり。展轉錯謬して諸家の著作、種種異説す。佛教は又た三千世界を通明し、大唐に局らざるに縁るが故に、内外の教文全く同じからざる也。住とは住劫、亦た二十増減を経るなり。壞とは壞劫、亦た二十増減なり。前の十九増減に有情を壞し、後の一増減に器界を壊す。能壞は是れ火水風等の三災なり。空とは空劫、亦た二十増減中、空にして世界及諸有情無き也。 劫劫生生輪迴絶へず。無終無始にして汲井輪の如し。道教は只だ、今此世界未成時の一度の空劫を知りて、虚無混沌一氣等を名けて元始と為すと云ふ。空界已前に早く千千萬萬遍を經て成住壞空終りて而復た始まることを知らず。故に知りぬ、佛教法中の小乘淺淺之教は已に外典深深之説を超へたり。
都て此の身の本、是れ我ならざることを了ぜざるに由る。是れ我ならずとは、謂く、此の身は本と色心和合して相を為す。今推尋分析するに色に地水火風之四大有り。心に受(能く好惡之事を領納す)想(能く像を取
る者)行(能く造作する者、念念遷流す) 識(能く了別する者)之四蘊あり。若し皆れ是な我ならば、即ち
八我を成ず。況んや地大の中、復た衆多有り。謂く、三百六十段の骨、一一各別に皮毛筋肉肝心脾腎、各の相
是ならず。諸の心數等亦た各の不同なり。見は是れ聞ならず。喜は是れ怒ならず。展轉して乃至八萬四千の塵勞あり。既に此の衆多之物有り。知らず、定んで何を取て我と為んや。若し皆な是我ならば我即ち百千ならん。一身の中に多主紛亂せん。此れを離れての外、復た別法無し。翻覆して我を推すに皆不可得なり。便ち悟る、此身は但是れ衆縁仮和合の相にして元と我人無し。誰が為にか貪瞋し、誰が為にか殺盜施戒せん。(苦諦を知る也)。遂に心を三界の有漏の善惡に滞らせず(集諦を斷ずる也)。但だ無我の觀智を修し(道諦)、以って貪等を斷じ、諸業を止息すして我空眞如を證得す(滅諦)。乃至、阿羅漢果を得て、灰身滅智して方に諸苦を断ずるなり。此の宗の中に據るに、色心二法及び貪瞋癡を以て根・身・器界の本と為す也。過去未來、更に別法の本と為すなし。今之を詰して曰く「夫れ生を經、世を累ねて身の本と為す者は、自體須く間斷なかるべし。今五識は縁を闕けば起らず。(根境等を縁と為す)。意識は時ありて行ぜず。(悶絶・睡眠・滅盡定・
無想定・無想天なり)。 無色界天は此の四大無し。如何んぞ此の身を持ち得て世世絶えざるや。是に知ぬ、此教を專ぱらにする者も亦た未だ身を原(たずね)ず。」