福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

観自在菩薩冥應集、連體。巻1/6・7/15

2025-03-07 | 諸経

観自在菩薩冥應集、連體。巻1/6・7/15

七、聖徳太子は即ち観音なる事。

 

聖徳太子は人王三十二代用明天皇第一の皇子なり。母后の夢に金色の比丘来たりて曰、我に世を救ふ願あり。願くは后の胎に託んと思ふなりと。后問ひ玉はく、誰人ぞやと。比丘答玉はく、我は是救世の菩薩なり、家は西方にありと。后曰、我が腹は垢穢不浄なれば何とて聖者の託り玉ふ処なるべきやと。比丘答へ玉はく、我は穢はしき事を厭ふにあらず、唯偏に衆生を救はんことを欲ふのみなりと。言已って即ち后の口中に入り玉ひしが、夢覚めて後も喉の中物を呑むが如くにして、其れより懐胎ありて八月になるに胎内にして言宣ふ聲外に聞へたり。胎にあること十二月敏達天皇の二年(573年)正月に誕生し玉ふ。時に西方より光明来たりて宮中を照らす。同じく六年冬十月百済国より佛経論等を貢し来る。太子五歳なるに奏して此れを開き見玉ひ佛法を弘め玉ふ。時に守屋の臣、佛法を破せんとして朝敵となる。太子十五歳にして官軍を率して守屋を討亡し心のままに佛法を弘め玉へり。百濟の日羅と云人来たれり身より光を放つ。神異なること測りがたし。日羅、太子を再拝し地に跪て曰く、敬礼救世観世音傳燈東方粟散國と。

 

時に日羅光を放つ、太子も亦眉間より光を出して左右に語り玉はく、我陳(即ち今の震旦國)にありし時彼は我が弟子なり。常に日天を禮せしゆえに光耀ありと。

 

又推古天皇七年四月に百済国の皇子阿佐太子来たりて聖徳太子を礼拝して、敬礼大悲観音菩薩妙教流通東方日本四十九歳傳燈演説と。

 

太子眉間より白光を放ち玉ふ(今昔物語巻十一聖徳太子於此朝始弘仏法語 第一にあり。)。太子の一生の弘通は傳記に見へたり。さて四十六箇の伽藍を建て一千三百の僧尼を度し、我が滅後に大に仏法を弘通せん者は皆我が後身なりと知れと告げ玉へり。太子傳、天王寺、教興寺の縁起等に詳悉なり。日羅は昔日天子を礼し、今日日本に来て垂迹の太子を禮して本地を称賛し、阿佐も亦異人にして太子の本地観音なることを知れり。されば本地如意輪観音なりといへり。京六角堂の如意輪の縁起

 

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並びに

 

四天王寺根堂の本尊如意輪なるは是なり。凢そ日本に仏法の流布する事は皆以て太子の御力なり。是観音の御國なるが故に王子と顕れ来たりて法を弘め玉ふものなり。末世の我等仏法を聞て三途の苦患を免るる事は皆以て太子観音の御恩なり。高祖弘法大師、聖寶尊師、越智の泰澄、聖武天皇等皆以て観音の化身と云傳へたり。されば吾朝は山々の靈崛みな観自在応現の地にあらずと云事なく、寺寺の名場悉く蓮華手鎮座の砌にあらずと云事なし。推古天皇三年(595年)の春、南海に一の浮査あり。夜夜光を放って聲雷の如し。四月に流て淡州の南の濱に著く。大サ一圍(かこい)長さ八尺(242㎝)なり。島人取りて薪とするに其の煙遠く薫ふを以て天子に奉りけるを、太子に見せたまふに沈水香木なり。太子奏して曰く、此の香木は南天竺南海の岸にあり、其の実は鶏舌香、其の花は丁子、其の脂は薫陸、水に流れ沈んで久しきを沈水香と云ふ。久しからざるを浅香と云ふ。今陛下(推古天皇)仏法を信じ佛像を作るが故に天龍感じ悦んで漂はし送る也。時に天皇大に悦んで百済の佛工に命じて観音の像を刻彫せしめて吉野の比蘇寺に安置し玉ふに、其の尊像霊験掲焉にして時々に光明を放ち玉へり。(日本書紀欽明天皇「十四年春正月甲子朔乙亥、夏五月戊辰朔、河內國言「泉郡茅渟海中有梵音、震響若雷聲、光彩晃曜如日色。」天皇心異之、遣溝邊直此但曰直、不書名字、蓋是傳寫誤失矣入海求訪。是時、溝邊直入海、果見樟木浮海玲瓏、遂取而獻天皇。命畫工造佛像二軀、今吉野寺放光樟像也。」)是日本国の観音の像の始めなり。

 

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