福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

修験宗旨書・・2

2017-12-02 | 諸経
修験宗旨書・・2
邪正分別第二(煩悩即菩提と上面だけで理解しその実義を理解しない者は輪廻を繰り返すこととなる)夫れ諸宗の教門多く煩悩即菩提を説き、邪正一如の旨を明かす。愚人之を聞いてややもすれば邪義を起こし、悪見に堕す。これを文の如く義を取るは諸仏の怨という。
・先ず邪法とは、仏法甚深なるを言ひ陰陽和合・赤白二滞を両部と言ひ胎内五位を仏身円満と名ずけ、この二滞冥合して生ずるわが身なれば所有の所作皆な是れ法性と断じ煩悩即菩提と説き、これ等の義を以て秘密となす、すこぶる邪見なり。諸法皆六大四曼の体性なる上は法性をはなれて一法もなし。然りと雖も何ぞ必ずしも赤白二滞を甚深と談じ邪見を起こさしむるや。父母は是れ理智なり。所生の子は理智不二の佛なりと言ふは、名字もあって実義なし。もし煩悩即菩提は方便を仮らず自然の仏法也といふは顕密の教起何の詮かあらんや。
・次に正法とは、色身の諸法、本より阿字本不生六大四曼の体なり。萬法本来不生の義を悟らず、但し世間の事法に著して貪等の心を起こすは邪見なり。おなじく貪と雖も不生の貧は此れ即ち正見なり。大荘厳論の疏にいわく「貧において正思を起こし、貧において解脱を得る。」(大荘厳経論巻6、弘法品第13「於貪起正思 於貪得解脱 故説貪出貪 瞋癡出亦爾
釋曰。若人於貪起正思觀察。如是知已於貪 即得解脱。故説以貪出離於貪。出離瞋癡亦
復如是。已説煩惱出煩惱
」若し人貪において正思をおこし観察し、貧であると知れば解脱を得ることが出来る、これは貧貧を出離することである。煩悩において煩悩を出ることである)


或は三滞即是れ陰入(空仮中の真理は即六根六識六境となり認識されている)・皆是之道理の道理により煩悩即菩提といひ、或は六大無碍阿字不生の道理により、邪正一如の悟りを開く、この如くの諦理により煩悩即菩提を談ずるは大乗実義の正法なり。唯だ耳に煩悩即菩提と聞き、口に口に邪正一如と説くと雖も、心にその因由を知らざればその実義を悟らず。己が凡情を認めて煩悩を以て菩提と執するは必ず輪廻を増長すべし。たとえば身に病ある時は甘味即苦し、病尽きれば本の甘みを知る。甘苦の惣体は全く不二なり。煩悩即菩提の義は亦復この如し。華厳経に曰く「毘盧遮那性清浄にして三界五趣体皆同、妄念によるが故に生死に沈む、実智によるが故に菩提を証す」と。三界五趣の有情非情皆盧遮那の体性を具し森羅万象皆即法身なり。然りと雖も妄念と実智と差別に依りて凡聖・迷悟不同なり。妄念とは凡夫迷倒の情欲なり。智とは諸仏内証の心性なり。妄念を本と為して行じるを外法と名ずけ、実智に依って行じるを正法といふ。右の法は直入正道の目足、破邪顕正の真鏡なり。末代の行者正理に安住して邪路に入るべからず。信ずべし、知るべし。

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