福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

人生の不条理と信仰の揺らぎについて

2016-07-05 | 法話
マザーテレサもじつは信仰に揺らいでいたといいます。彼女の日記Mother Teresa: Come Be My Light に書かれてあるようです。「いとけない子供たちがこんな悲惨な目に遭わなければならないなんて神は存在しないのではないか?」という疑問と戦いつつ貧民窟で救済活動を続けていたというのです。「貧しい人にふれる時、わたしたちは、実際にキリストの身体にふれているのです。わたしたちが、食べ物をあげるのは、着物を着せるのは、住まいをあげるのは・・・飢えて、裸の、そして家なしのキリストに・・・なのです。」というようなマザーテレサの言葉は彼女自身を奮い立たせる言葉でもあったのではないかと思います。

 明治の仏教者清沢満之も『精神界』で「(如来の導きを)疑ふ者は、証明をさえ疑はずんばやまず。故に一切の証明は唯、信ずる者の前にのみ提出せらるべきものなり。是をもって如来の大道に関する証明を見んと欲する者、亦先ず之を見得べき信念の眼を具へ来らざるべからず。信は我等が生活の本なり。殊に入道の本なり。」とのべていますが裏返せばどうしても信仰の揺らぎ、如来の導きを疑う場面が出てきていたという事だと思います。そこで『信』を改めて強調せざるを得なかったということではないでしょうか。


 以前の福聚講ブログでも述べましたが古来神仏の存在を疑い運命を呪う考えは常にありました。東日本大震災を経験しただけでもそう思います。しかし神仏を否定しただけでは何も変わりません。神仏否定論者は神仏は自己の外にあるという前提に立ち自己は正当化しつつ外の神仏を否定するという論理ですが、じつは神仏は自己の中にもあるのですから神仏を否定すれば永遠に地獄は地獄のままとなります。

アウシュビッツから生還したフランクルは「人は神に“問う存在”なのではなく、神の期待に“応える存在”である。・・私が人生に何を期待するかではなく、人生が私に何を期待しているのかを考えてみよう。・・人間は誰しも心の中にアウシュビッツを持っている。でもあなたが人生に絶望しても、人生はあなたに絶望しない。・・それでも、人生にイエスと言おう(夜と霧)」と述べています。是は「あなたが神仏に絶望しても、神仏はあなたに絶望しない。」と言い換えることができます。




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