中臣祓訓解、(伝弘法大師作)から・・・6
経にいわく「・・祓はこれ不死の薬なり。故によく万病を治す。しかればすなわち決定の業といえども能くこれを転ず。もし亦悪道に堕すといえども必ず苦に代わる。永く三悪道を離れて即ち成仏すること疑いなし。」
おもんみればわが国は神国なり。神道の初め、天津祝詞を呈し天孫は国主なり。諸の神まちまちに賞罰験威を施して、肆つらねるに君臣崇重して幣帛を奉じ、黎下(人民)導行して斎祭をいたす。これによりて龍図(目出度いこと)の運長く、鳳暦(こよみ)の徳はるかに、海内太平に、民間殷富せり。為すところは伊弉諾伊邪那美尊、真言密蔵の本源、天神地祇の父母なり。一切如来は浄明法身の体、三世諸仏は大悲法門の主なり。ここに未来の衆生等、懺悔なすところは少なく、所化するものはなはだ多し。方便の巧智を廻らして難度の衆生を渡す。利益感応の道、内外相応の徳、不思議甚深なり。これすなわち一乗無二の法、義益もっとも幽深なり。自他兼ねて利済す、だれか仏神の教えを忘むや。
そもそも両部の大教は諸仏の秘蔵なり(金剛界胎蔵界の教えは諸仏が秘密にされていたものである)諸仏の智恵は諸仏の本源なり。妙覚の心智、あに繁論し難しや。法徳の神力説きつくすべからず。時に弘仁十三年仲夏二十五日、沙門遍照金剛、文をもて伝ふ。某聞く、智恵の源極を強いて仏陀と名つ゛く。軌持(仏法を説明する言葉)の妙句を仮に達磨(法)といふ。智よく円かなるがゆえに、為さざる所なし。法よく明らかなるがゆえに、自他兼済す。五眼(肉眼・天眼・恵眼・法眼・佛眼)常に鑒かんがみて、溺子を津渉しんしょう(煩悩の海におぼれる衆生を助ける)し、六道(神足通・天眼通・他心通・宿命通・漏尽通)自由にして樊籠(はんろう、鳥籠)を抜拯(ばっしょう、救う)す。つねに摩醯(まけい、摩醯首羅つまり大自在天)を憑念して(帰依して)これに帰し、これに接する所以に因る。不宰の功(自然に順応すること)なんぞあえて之を比喩せん。弟子去にし延暦二十三年に、天命を大唐にふして遠く鯨海を渡る。風波天にそそぐ。人力なんぞ計らん。自ら思えらく冥護によらざるときはいずくんぞ遂に皇美の節(天皇から命じられた使節)を遂ぐることを得んや。即ち祈願す。百八十七所の天神地祇等の奉為に金剛般若経を写し奉ること、神ごとに一巻、鐘谷感応して(神仏感応して)使乎の羨(遣唐使としての願い)を果たすことを得たり・・・
およそ天神地祇は一切の諸仏,惣べて三身即一(法身・報身・応身)の本覚の如来とみなことごとくに一体にして二なし。毘盧遮那は法身、盧遮那は報身如来、諸仏は応身如来なり。三諦(空・仮・中)は三身なり。すなわち「中」を法身とし、すなわち「空」を報身とし、すなわち「仮」を応身と為。三智(縁覚の智である一切智、菩薩の智である道種智、仏の智である一切智智)あり。一切智は「空」を照らし、道種智は「仮」を照らし、一切智智は「中」を照らす。三身三智もまた一心にあり。ゆえに一体には差別なし。これ神の一妙なり。これ皇天の徳なり。ゆえに則ち伊勢両宮は諸神の最貴なり。天下の諸社に異なる者なり。
大方の神に三等あり。謂はゆる一に本覚といふは伊勢神宮これなり。本理清浄の理性、常住不変の妙体なり。ゆえに大元尊神(根源の神)と名つ゛くるなり。境界の風動転せず心海湛然として波浪なし。宝体一心にして外に別法なし。本覚と名つ゛くるなり。
二に不覚といふは出雲荒振神の類なり。遠く一乗の理法を離れて四悪(地獄餓鬼畜生修羅)四州を出でず。仏法僧を見、諸仏の梵音を聞き心神を失う。無明悪鬼の類なり。神はこれ実類お迷神なれば名つ゛けて不覚と為るなり。三には始覚というは、石清水広田の類なり。流転ののちに仏教の教経によりて、無明の眠り覚めて本覚の理に帰る。これを始覚と為す。また実語神(真理を説く神)と名つ゛くるなり。始覚成道の者、佛の外迹(仏が仏以外の姿を現したもの)となるなり。本覚は本初の元神にあらざるなり。・・。・・万事は一心の作なり。神主の人人、須らく清浄を以て先とし、穢悪の事に預からず、鎮とこしなえに謹慎の誠を専らにしてよろしく如在の礼をいたすべし。これすなわち神明内証の奥蔵、凡夫頓証の直道なるものか。(終わり)
経にいわく「・・祓はこれ不死の薬なり。故によく万病を治す。しかればすなわち決定の業といえども能くこれを転ず。もし亦悪道に堕すといえども必ず苦に代わる。永く三悪道を離れて即ち成仏すること疑いなし。」
おもんみればわが国は神国なり。神道の初め、天津祝詞を呈し天孫は国主なり。諸の神まちまちに賞罰験威を施して、肆つらねるに君臣崇重して幣帛を奉じ、黎下(人民)導行して斎祭をいたす。これによりて龍図(目出度いこと)の運長く、鳳暦(こよみ)の徳はるかに、海内太平に、民間殷富せり。為すところは伊弉諾伊邪那美尊、真言密蔵の本源、天神地祇の父母なり。一切如来は浄明法身の体、三世諸仏は大悲法門の主なり。ここに未来の衆生等、懺悔なすところは少なく、所化するものはなはだ多し。方便の巧智を廻らして難度の衆生を渡す。利益感応の道、内外相応の徳、不思議甚深なり。これすなわち一乗無二の法、義益もっとも幽深なり。自他兼ねて利済す、だれか仏神の教えを忘むや。
そもそも両部の大教は諸仏の秘蔵なり(金剛界胎蔵界の教えは諸仏が秘密にされていたものである)諸仏の智恵は諸仏の本源なり。妙覚の心智、あに繁論し難しや。法徳の神力説きつくすべからず。時に弘仁十三年仲夏二十五日、沙門遍照金剛、文をもて伝ふ。某聞く、智恵の源極を強いて仏陀と名つ゛く。軌持(仏法を説明する言葉)の妙句を仮に達磨(法)といふ。智よく円かなるがゆえに、為さざる所なし。法よく明らかなるがゆえに、自他兼済す。五眼(肉眼・天眼・恵眼・法眼・佛眼)常に鑒かんがみて、溺子を津渉しんしょう(煩悩の海におぼれる衆生を助ける)し、六道(神足通・天眼通・他心通・宿命通・漏尽通)自由にして樊籠(はんろう、鳥籠)を抜拯(ばっしょう、救う)す。つねに摩醯(まけい、摩醯首羅つまり大自在天)を憑念して(帰依して)これに帰し、これに接する所以に因る。不宰の功(自然に順応すること)なんぞあえて之を比喩せん。弟子去にし延暦二十三年に、天命を大唐にふして遠く鯨海を渡る。風波天にそそぐ。人力なんぞ計らん。自ら思えらく冥護によらざるときはいずくんぞ遂に皇美の節(天皇から命じられた使節)を遂ぐることを得んや。即ち祈願す。百八十七所の天神地祇等の奉為に金剛般若経を写し奉ること、神ごとに一巻、鐘谷感応して(神仏感応して)使乎の羨(遣唐使としての願い)を果たすことを得たり・・・
およそ天神地祇は一切の諸仏,惣べて三身即一(法身・報身・応身)の本覚の如来とみなことごとくに一体にして二なし。毘盧遮那は法身、盧遮那は報身如来、諸仏は応身如来なり。三諦(空・仮・中)は三身なり。すなわち「中」を法身とし、すなわち「空」を報身とし、すなわち「仮」を応身と為。三智(縁覚の智である一切智、菩薩の智である道種智、仏の智である一切智智)あり。一切智は「空」を照らし、道種智は「仮」を照らし、一切智智は「中」を照らす。三身三智もまた一心にあり。ゆえに一体には差別なし。これ神の一妙なり。これ皇天の徳なり。ゆえに則ち伊勢両宮は諸神の最貴なり。天下の諸社に異なる者なり。
大方の神に三等あり。謂はゆる一に本覚といふは伊勢神宮これなり。本理清浄の理性、常住不変の妙体なり。ゆえに大元尊神(根源の神)と名つ゛くるなり。境界の風動転せず心海湛然として波浪なし。宝体一心にして外に別法なし。本覚と名つ゛くるなり。
二に不覚といふは出雲荒振神の類なり。遠く一乗の理法を離れて四悪(地獄餓鬼畜生修羅)四州を出でず。仏法僧を見、諸仏の梵音を聞き心神を失う。無明悪鬼の類なり。神はこれ実類お迷神なれば名つ゛けて不覚と為るなり。三には始覚というは、石清水広田の類なり。流転ののちに仏教の教経によりて、無明の眠り覚めて本覚の理に帰る。これを始覚と為す。また実語神(真理を説く神)と名つ゛くるなり。始覚成道の者、佛の外迹(仏が仏以外の姿を現したもの)となるなり。本覚は本初の元神にあらざるなり。・・。・・万事は一心の作なり。神主の人人、須らく清浄を以て先とし、穢悪の事に預からず、鎮とこしなえに謹慎の誠を専らにしてよろしく如在の礼をいたすべし。これすなわち神明内証の奥蔵、凡夫頓証の直道なるものか。(終わり)