今日は沙石集を著した無住一円の没した日です。無住は1227年1月17日(嘉禄2年12月28日) 生れ 1312年11月9日(正和元年10月10日)没。以下ウキぺデアに依ります。「宇都宮頼綱の妻の甥。臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学」として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた。 梶原氏の出身と伝えられる。18歳で常陸国法音寺で出家。以後関東や大和国の諸寺で諸宗を学び、また円爾に禅を学んだ。上野国の長楽寺を開き、武蔵国の慈光寺の梵鐘をつくり、1262年(弘長2年)に尾張国長母寺(ちょうぼじ)を開創してそこに住し、80歳の時、寺内桃尾軒に隠居している。和歌即陀羅尼論を提唱し、話芸の祖ともされる。・・・様々な宗派を学びながらも、どの宗派にも属さなかった理由については、自分の宗派だけが正しいとか貴いものと考えるのは間違いで、庶民は諸神諸仏を信仰していて、棲み分けており、場合や状況によって祀るものが異なり、そうした平和的共存を壊すのは間違った仏教の行き方だと考えていたためとされ、諸宗は平等に釈迦につながるため、どれも間違ってはいないという立場であったとする。
著書は、『沙石集』『妻鏡』『雑談集(ぞうだんしゅう)』など。『沙石集』は54歳の時に執筆し、数年かけて5巻を完成させた。・・」
沙石集も当然のことながら神仏一体の理を説いています。最初にでてくる「笠置解脱房上人太神宮参詣事」です。
「笠置解脱房上人太神宮参詣事
同神官ノ語シハ。故笠置上人。菩提心。祈請ノタメニ。八幡ニ参籠ス。示現ニ我力ニハカナヒガタシ。太神宮ヘ参テ申給ヘト。夢ノ
中ニ御告アリテ。道ノ様。委ク。ヲシヘサセ給ケリ。サテ夢ノ中ニ参リ給ケルホドニ。外宮ノ南ノ山ヲスグニ越テ参給。山ノ頂ニ池有。大
小ノ蓮華池ニミチタリ。或ハ開タル花。ツボメル花。色香マコトニ妙ナリ。カタハラニ。人アリテイフヤウ。此蓮華ハ。當社ノ神官ノ既ニ徃生
シタルハ開タリ。徃生スベキハツボメリ。和光ノ方便ニテ。多クハ徃生スルナリ。アノツボメル蓮華ノ大キナルハ。經基ノ袮宜ト申ガ。徃生スベ
キ花ナリトカタル。サテ御社ヘ参テ。法施タテマツルトソ見給ケル。夢サメテ。ヤガテ負打カケテ。只一人。ユメニマカセテ参リ給フニ。スコシモミ
チスガラ夢ニタガハズ。タダシ外宮ノ南ノ山ノ麓ヲメグリテ。大道有テ山ノ路ハナシ。コレレノミゾタガヒタリケル。社壇ノ躰ハ。ユメニタガハズ。サテワカキ俗ノ有リケルヲマ子キヨセテ。マヅユメニミシ袮宜ノ事ヲ問給。コレニ經基ト申子ギヤオハスルトノ給ニ。其甲コソサハ名ノリ候ヘ。袮宜ニハ成ベキ者ニテ候ヘドモ。當時ハ。子ギニテハ侍ラズトイフ。サテ金ヲ三兩。負ノ中ヨリ。トリイデヽタテマツラル。ヤガテ彼俗ノ家ニ宿
シテ。社頭ノ様ナンド。コマカニ問給ヒケリ。我今度生死出離せズシテ。人間ニ生レバ。當社ノ神官トムマレテ。和光ノ方便ヲ仰ベシト。チ
カヒ給ケルト。カタリ侍キ。カノ經基ニ。シタシキ神官ガ語シカバ。慥ノ事ニコソ。年久ナレリト云ヘドモ。此事耳底ニ留テ不忘仍記之」
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