福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

愚管抄巻七 その4/6

2022-11-19 | 法話

愚管抄巻七 その4/6

さてすゑざまは事のしげくなりてつくしがたく侍れども、清和の御時はじめて摂政ををかれて、良房のをとどいできたまいし後、その御子にて昭宣公(藤原基経。摂政であった叔父・藤原良房の養子、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を廃し、光孝天皇を立てた。次の宇多天皇のとき阿衡の紛議を起す。)のわがをいの陽成院ををろしたてまつりて、小松の御門をたて給しより後の事を申すべき也。先(まず)道理うつりゆくことを、地體によくよく人は心うくべき也。いかに國王と云は、天下のさたをして世をしずめ民をあはれむべきに、とをがうち(10才以下)なるをさなき人を國王にはせんとぞ云だうり侍ぞかし。次に國王とてすゑまいらせて後は、いかにわろくとも、たださてこそあらめ(そのまままである)、それをわが御心よりをこりてをりなん(退位する)とも仰られぬに、をしおろしまいらすべきやうなし。「これを云ぞかし、謀反とは(謀反とは天皇陛下を強制退位させること)と云道理又必然の事にて侍ぞかし。其にこの陽成院をおろしまいらせれしをば、いはれず(してはならない)昭宣公の謀反なりと申人やは世世に侍る。つやつやとさもをもはず又申さぬぞかし。御門の御ためかぎりなき功にこそ申つたへたれ。又幼主とて四五より位につかせ給をしかるべからず、ものさたするほどにならせ給てこそ、と云人やは又侍る。今昔つくまじき人を位につくる事なければ、をさなしとてきらはば、王位はたへなんずれば、この道理によりてをさなきをきらふことなし。これら二にて道理をばしるべきなり(①、幼少の天皇は好ましからず、ということと、②天皇になってはならないものを天皇にはしない、という二つの道理)。大方世のため人のためやかるべきやうを用る。世とは人を申也。その人にとりて世といわるる方はをほやけ道理とて(公の道理)、國のまつりことにかかりて善悪をさだむるを世とは申也。人と申すは世のまつりことにものぞまず、すべて一切の諸人の家の内までをだしく(安らか)あはれむ方のまつりことを、又人とは申すなり。其人の中に國王よりはじめてあやしの民まで侍るぞかし。それに国王種姓の人ならぬすじを国王にはすまじと、神の代よりさだめたる国なり。その中には又をなじくはよからんをとながふは、又世のならひ也。それにかならずしもわれからの手ごみ(手筈)にめでたくをはします事のかたければ、御うしろみを(世話をする人を)用て大臣と云臣下をなして、仰合つつ世をばをこなへとさでめつる也。この道理にて国王にもあまりにわろくならせ給ぬれば、世と人との果報にをされて、ゑ」たもたせたまはぬなり。そのわろき国王の運のつきさせたまうに、またやうやうのさまの侍なり。

太神宮(伊勢大神宮)八幡大菩薩の御おしへのやうは「御うしろみの臣下とすこしも心をおかずをはしませ」とて魚水合体の禮(天皇と摂関家が一体となる事)と云ことをさだめられたる也。これ計にて天下のをさまりみだるる事は侍なり。あまのこやねのみこと(天児屋根命、 天照大神が天の岩屋にお隠れになったとき 祝詞を奏した神)に、あまてるをおん神の「とのとうちにさぶらいてよくふせぎまもれ」と御一諾をはるかにし、すへてのたがうべきやうの露ばかりもなき道理をゑて、藤氏の三功(基経が御乱心の陽成天皇の廃位を行ったこと等)といふ事いできぬ。その三と云は、大織冠の入鹿を誅し給しこと、永手大臣(藤原永手)・百河の宰相(藤原百川)が光仁天皇をたてまいらせし事(藤原永手・百川は称徳天皇崩御をうけて光仁天皇を擁立し道鏡を排除した)、昭宣公の光孝天皇を又たて給しこと(基経はご乱心の陽成天皇を廃位し光孝天皇を擁立)、この三也。はじめ二は事あがりたり(時代をさかのぼる)。昭宣公の御ことは、清和の後にさだかにいできたる事也。その後すべて国王の御命のみじかき云ばかりなし。五十にをよばせ給たる一人もなし。位をおりさせ給て後は、みな又ひさしくをはしますめり。これらは皆人しりたれど、一どにこころにうかぶことなければ、うるさきやうなれど、これをまず申あらはすべし。

清和はわずかに御歳三十一、天下を治むること十八年なり。陽成は八年になりてをりさせ給ぬ。八十一までをはしませど世もしらせたまはず。光孝はただ三年、これはさらにいできをはしましたる事にて(あらたに出現された。光孝天皇は先代の陽成天皇が母方の叔父である藤原基経によって廃位されたのち55歳で即位し58歳で崩御)五十五にてはじめてつかせ給。宇多は三十年にて位をさりて御出家、六十五までをはします。醍醐は三十三年までひさしくて、御年も四十六にて、ただこればかりめでたき事にてをはします。朱雀は十六年にてあれど丗にてうせ給ふ。村上は廿一年にて四十二まで也。これ延喜・天暦とて、これこそすこしながくをはしませ。冷泉は二年にて位をおりて、六十二までをわしませど、ただ陽成とをなじ御事なり。圓融は十五年にて丗四(15年間在位して34で崩御)。花山は二年にて四十一までをはしませど云にたらず。一條は廿五年にて丗二、幼主にてのみをはしますは、ひさしきもかいなし。三条は五年なり。東宮にてこそひさしくをはせども又かいなし。後一條は二十年なれども廿九にて(崩御)、又幼主にてひさしくをはしましき(三条天皇の譲位により数え8歳で即位。幼帝のため道長が摂政となる)。後朱雀は九年にてをとなしく(世慣れていた)おはせませども丗七(にて崩御)、又ほどなし(在位年数が短い)。後冷泉院は廿三にて四十二、これぞすこしほどあれど、ひとへにただ宇治殿(頼道)のままなり。

この国王の代のわか死をさせ給にてふかく心うくべきなり。たかきもいやしきも、命のたふるにすぎて(運命の支える以上に)つくりかためたる道理をあらはすみちはあるまじき也。日本国の政をつくりかふる道理と(日本の政治を改変する道理)、をりゐのみかどのよをしろしめすべき時代にをちくだることのまだしきほど(上皇が統治されるような時代になり下る)国王の六十七十までもをはしまさば、摂籙の臣の世をおこなふと云一段の世はあるまじき也。さすがに君とならせたまはして、五十六十まで脱屣もなくてあらんには、ただ昔のままにてこそあるべけれ。誠に御年のわかくて、はじめは幼主の摂政にて、やうやうさばかりにならせ給へども、我と世をしらしむとをぼしめすほどの御心はゑなし。摂籙の臣の器量めでたくて、その御まつり事をたすけて世をおさめらるれば事もかけず。さるほどに君は丗がうちとにてみなうせさせ給ふ也。これこそは太神宮のこの中ほどは(清和天皇以降は)、きみの君にて昔のごとくゑあるまじければ(天皇が天皇として清和以前のようにはありえない)此れうれにこそ神代より「よく殿内をふせぎまもれ」といいてしかば侍殿防護の神勅「願はくは、爾二神、また同じく殿の内に侍ひて、善く防ぎ護ることをなせ」)、その子孫に又かく器量ゑかないて、むまれあいあいしてこの九條の右丞相(師輔)の子孫の、君の政をばたすけんずるぞと、つくりあはせられたる也。さてその後、太上天皇にて世をしろしめすべしと又さだまりぬれば、白河・鳥羽・後白河と三代は七十六十五十にみなあまりあまりして世をばしろしめすになん。さればこのことはりはこれにて心えられぬ。さて(天皇親政をされたので)後三条院ひさしくをわしますべきに、事をばきざして四十二にてうせをはします事ぞをぼつかなけれど、それはむずと(不意に)世のをとろふべき道理のあらはるるなるべし。後三条院御心にをぼしめすほどのありけむは、いかにめでたかりけむ。さて、ともいへかくもいへ、時にとりて世をしろしめす君と摂籙臣とひしと一つ御心にて、ちがふことの返す返す侍るまじきを、別に院の近臣と云物の、男女につけていできぬれば、それが中にいていかにもいかにもこの王臣の御中をあしく申すなり。あはれ俊明卿(源俊明、後三条、白河帝に仕えた)まではいみじかりける人哉。ここを詮には君のしろしめすべきなり(近臣の動きをせんじ詰めた重要事項として)。今は又武者のいできて、将軍とて君と摂籙の家とをおしこめて世をとりたることの、世のはてには侍ほどに、此武将をみなうしないはてて、誰にも郎従となるべき武士ばかりになして、その将軍には摂籙の臣の家の君公をなされぬる事の、いかにもいかにも宗廟神の、猶君臣合体して昔にかへりて、世をしばしおさめんとおぼしめしたるにて侍れば、その始終を申とおし侍るべき也。されば後三条院は四年(在位)、これよりの事を申す細かにべし。この後は事かはりて位をりて後、世をしらんとをぼしめしくはだてて、われはとくせさせ給しかど、白河院七十七(で崩御する)まで世をしろしめしき。これは臣下の御ふるかいになればほさしくをはしますなり。

次に鳥羽院五十四(崩御)までをはしますべきに、又後白河五代のみかど(二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽)の父祖にて、六十六までをはします。太上天皇世をしろしめしての後、その中の御子御孫の位のひさしさ、とさのこと(はやいこと)はむやくなれば申すにをよばず。わざとせんやうにほどなくかはらせ給ふめり。その次にこの院(後鳥羽上皇)の御世に成りて、すでに後白河院うせさせをはしまして後、承久まですでに廿八年になりはべりぬる也。

延喜天暦までは君臣合体魚水の儀まことにめでたしとみゆ。北野の御事もせめて時平と御心たがはぬかたのしるしなるべし。

冷泉院の御後、ひしと天下は執政臣(摂政)につきたりとみゆ。それにとりて御堂までは摂籙の御心に、時の君をおもいあなつ゛りまいらする心のさわさわとなくて、君のあしくをはします事をばねでたく申なをし(立派になるように言い直す)申なをしてをはしますを、君のあしく御心ゑて、圓融・一条院などより我をあなずるか(圓融天皇在位中は藤原兼通,兼家兄弟の政権争いが終始,摂政・関白も実頼,伊尹,兼通,頼忠と目まぐるしく替わった。一條天皇は道長の専横にたいして不快だった)、世をわが心にまかせぬこそ、などをぼしめしけるはみな君の御ひが事とみゆ。

宇治殿(頼道)の後冷泉院の御時、世をひしととらせ給し後に(冷泉院は病弱であったため摂関政治が定着し藤原氏が政権を独占する端緒となった)、すこしは君をあなつ゛りまいらせて、世をわが世に思はれけるかたのまじりにけるよ、などみゆ。

後三条院これを御らんじて、この事あれとをぼしめして、今はただ脱屣の後われ世をしらんとをぼしめしてけり。されどこの宇治殿と後三条院とはさはをぼしめせども(後三条院は、記録荘園券契所を設置して荘園を整理するなど藤原氏の専横をさけ親政を行った)、あしかりけりあしかりけりとみな思ひなをし思ひなをしして、王道へをとしすゑて世のまつりことはやみやみしけるよ(決着がつく)、などみゆ。

白河院の後、ひしと太上天皇の御心のほかに、臣下といふもののせんにたつ事ななくて、別に近臣とて白河院には初は俊明等も候(源俊明。平安後期の公卿。権大納言隆国の三男。白河院の近臣。藤原宗忠はその死を悼み,〈心性甚だ直にして,朝の重臣なり,良臣国を去る,誠に哀しきかな〉と日記に書いている。その剛直さは,皇后の死を嘆いて政務を放棄する白河天皇を諫めたり,鳥羽天皇の外戚藤原公実の摂政就任の野望を抑えたり,また奥州の藤原清衡の贈る砂金を拒絶したりした)。すゑには顕隆・顕頼など云物どもいできて(藤原顕隆は白河上皇の側近として権勢をふるい「よるの関白」とあだ名。顕頼は顕隆の長男。母は鳥羽天皇の乳母典侍悦子。鳥羽天皇に近侍し〈君の腹心〉と称された)、本体の摂籙臣をこの(愚かな)しもざまの人(身分の低いような人)のはしけるに、又かなしうをされてをそはれはばかりながら、又昔のすゑはさすがにつよくのこりて、鳥羽・後白河院のはじめ法性寺どの(藤原忠通。鳥羽・崇徳・近衛・後白河の4代にわたり摂政・関白)まではありけりとみゆ。

この中に白河院の知足院殿をひしと中あしくてもてなしをひこめて(知足院こと藤原忠実は鳥羽天皇の関白,次女泰子の入内をめぐって白河法皇と対立し,関白を辞し嫡子忠通がこれに代った。法皇が没すると政界に復帰し,次女泰子を鳥羽上皇妃として入内させた。長男忠通をうとんじその次男頼長を推したが成功せず,保元の乱のもとを作り知足院に幽閉)、その知足院の子法性寺殿を別にとりはなつやうにつかひたてさせ給たる御ひが事の、ひしと世をばうしないつるにて侍るなり。これにつけてさだかに冥顕の二の道、邪神善神の御たがへ、色にてあらはれ内にこもりてみゆるなり。されども鳥羽院は最後ざまにをよぼしめしたりけん、物を法性寺殿に申あわせて、その申さるるままににて後白河院位につけまいらせて、立なをりぬべきところに、かやうに成行は世のなをるまじければ、(鳥羽天皇は保安4(1123)年,子の顕仁(崇徳天皇)に譲位,白河上皇没後の大治4(1129)年院政を開始,崇徳・近衛・後白河の3代28年にわたって院政。皇位継承をめぐり祖父白河と対立。院政開始後,白河院政での荘園整理政策を転換し荘園の興隆を促進、さらに,藤原忠実の政権再登用後,摂関家を院近臣として従属させるなど,独自の政策を推し進めた。有力な院司として,藤原顕頼,藤原家成らがおり,また伊勢平氏を政権の基盤にとりこんだ。崇徳天皇の譲位ののち,皇后美福門院得子との間の子体仁(近衛天皇)を即位させ,さらに近衛没後,雅仁(後白河天皇)を皇位につけ,崇徳上皇の反発を招いた。これは,前代同様の皇位継承をめぐる皇統内部の対立であり,鳥羽没の直後,朝廷内を二分して争われた保元の乱(1156)の要因となるものであった)すなはち天下日本国の運つきはてて、大乱のいできて、ひしと武者の世になりにし也。その後、摂籙の臣と云物の世中にとりて、三四番にくだりたる威勢にて、きらもなく成にしなり。其の後わずかに松殿(藤原基房、太政大臣,関白を歴任。平清盛と対立して備前に流された。のち源義仲とむすんだが,義仲の敗死で政界をしりぞき,以後は有職故実の識者として重用された)・九条殿(九条兼実、慈円の兄。源頼朝の後援で摂政となり、後白河院政のもと勢力の伸長をはかったがはたさず、政敵源通親と対立し、のち失脚)この二人、いささか一人の人(摂政関白)に似たる事どもあれど、かく成ぬる上のなさけにてこそあれ。松殿は平家にうしなはれ、九条殿は源将軍にとりだされたる人にて、国王の御意にまかせて、摂籙臣をわが物にたのみもし、にくみてもするすち゛のこそこそとうせぬる上は、よきもあしきもをかしき事にて今はやみぬるに、ただしばしこの院の後、京極殿(良經)を摂籙になされたりしこそ、こはめでたき事かなとみえしほどに、職には居ながら、つやつやとかいはらいて(なにも残さず去る)、世のやうをも家のならひをも、すべてしらず、きかず、みず、ならはぬ人にて、しかも家領文書かかゑて、かくとられぬ(清盛の子平盛子は基実に嫁いだが死別。その際,基実の継子基通(7歳)の養育に当たるという名目で日本最大の荘園領である摂関家領の大部分を横領。父清盛の勢力拡大となる。盛子死去の後所領を後白河法皇が没収したため清盛の怒りを買い,後白河法皇幽閉などを強行したクーデタの一因となる。)を摂籙の臣になされたりしこそ、こはめでたき事かなとみえしほどに、ゆめのやうにて頓死せられにき。近衛殿と云父子の、家にはむまれて、職には居ながら、つやつやとはからひて、世のやうをも家のならひをも、すべてしらず、きかず、みず、ならはぬ人にて、しかも家領文書かかえて、かくとられぬ。かえされぬして、いまだうせずしなだをはするにて、ひしと世は王臣の道はうせはてぬるにて侍よと、さはさはとみゆる也。それに王も臣もまじかき九条殿の世の事を思はれたりし。たからの正道なるかたは、宗廟社稷の本なれば、それがとるべきにや。

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