沙石集・巻六第十七話(七十五) 「祈請して母の生所を知る事」
洛陽に、貧しき母と女とありけり。都にて住みわびて、縁につきて、越後国に下りてぞ世を渡りける。生まれつきたる果報なれば、いづくにても貧しうてぞ過ごしける。京の者にて、念仏者のありけるに、この女、あひかたらひて住みけるが、あまりに心安からぬ世間を見て、この念仏者、申しけるは、「かく心苦しくて住まんよりは、都にては、とてもかくても過ぎなん」とて、都へぞ誘ひける。
この女、母に離れんことを歎きて、用ゐざりけれども、たびたび申し勧めて、果ては、母の尼公に、「『かくて、心苦しくおはせんよりは、都にては、さすが住み慣れて侍れば、これほどのことはあらじ』と思ひて、『女房を具して上らん』と申すを、離れ奉らんことを歎きて、用ゐ給はず」と言ふ時に、母、申しけるは、「まことに、貧しくとも、あひ添ひてこそ侍るべけれ。さりながら、一人一人も心安くてこそありたければ、ただ上り給へ」と言ふ。女は、ふつと用ゐざりけり。「何さまにも、つひには離るべき道なれば、かかる田舎の住居なぐさむ方なき所に、ともに心苦しくて過ぐさんよりは、ただ上り給へ。離れたりとも、『さて都にも心安くおはすらん』と思はば、心をもなぐさむべし。さあらんにつけては、孝養にてこそあらめ」とて、上るべきよし、あながちに言ひければ、泣く泣く別れを悲しみながら、あひ具せられて、女、上りぬ。
さて、京にてあひ住みけるほどに、田舎のこと、風の便りもなかりければ、互ひにおとづるることもなし。明け暮れは母のことを申してぞ泣きける。
さるほどに、清水寺に詣でて、「母のこと、世にありとも、無しとも、示し給へ」と、祈り申しけり。日数積もりて、感応むなしからず。夢に告げ給ひけるは、「なんぢが母は、別れて後、なんぢに離れたることを歎きしほどに、病ひ付きて、いくほどなく失せにき。筑紫人の某といふ者のもとに、栗毛駮なる駄に生まれて、当時、京にあり。宿所は、しかじかの所」と、明きらかに示し給ふ。
夢覚めて、やがてかの宿所を尋ねつつ、「これには、いかなる人のおはするぞ」と問へば、「筑紫の人の宿なり」と言ふ。「さて、栗毛駮の御馬や候ふ」と問ふに、「あり」と答へければ、「さらば、あれを見候はばや」と言ふに、主怪しみて、ことの子細を問ふ。女人、申けるは、離れて候ふ母のことを、清水に祈り申して、かかる示現を蒙りたるよし、泣く泣く語りければ、主、あはれに思えて、その馬を尋ぬるに、昨日鎌倉へ下りけるよし、下人申しければ、「別の馬をつかはして、かの馬を率て帰れ」とて、急ぎ使を下しけり。
江州の四十九院(唯念寺 (滋賀県豊郷町)行基開創の江州四十九院)といふ宿にて追ひ付きて、率て帰るほどに、この馬、にはかに病みて、その夜死にけり。使、あさましく思えて、むなしく帰り上らんも、そのしるしもなかりければ、馬の頭を切りて、持ちて上る。
女は、馬の食ひ物なんど、ねんごろに用意して、日を数へて侍ちけるほどに、、むなしく頭ばかりを持ちて上りたり。これを見て、かの女房、馬の頭に袖をうちおほひて、音も惜しまず泣き悲しむことかぎりなし。これを見聞く人、よその袂もしぼるばかりなりけり。さて、この馬の頭を袖に裸(つつ)みて帰りて、墓を築き、種々の孝養をぞしける。
人の親の、子を思ふ痴愛の因縁によりて、多くの悪道に落ちて苦を受くるを、神通なければ、これを知る子なし。知らざれば、先世の恩所・知識をも、あるいは殺し、あるいは悩すこそ、まめやかに愚かなれ。この女人は、孝養の志深くして、仏に祈りて、先世の親のことを知れり。人ごとに生を受くるたびに、父母あり、恩所あれども、生を変へぬれば、いかなる形となり、いかなる報を受くるをも知らぬのみこそ侍るめれ。
梵網経には、「一切の男子は、これわが父。一切の女人は、これわが母。われ生々にこれにしたがひて、生を受けずといふことなし。ゆゑに六道の衆生は、みなこれわが父母なり。しかるを、殺し食するは、わが父母を殺し食するなり」と説かれたり(梵網經盧舍那佛説菩薩心地戒品第十卷下「一切男子是我父。一切女人是我母。我生生無不從之受生。故六道衆生皆是我父母。而殺而食者。即殺我父母亦殺我故身。一切地水是我先身。一切火風是我本體。故常行放生。生生受生常住之法。教人放生。若見世人殺畜生時。應方便救護解其苦難。常教化講説菩薩戒救度衆生。若父母兄弟死亡之日。應請法師講菩薩戒經福資亡者。得見諸佛生人天上」)
唐の国清寺に、拾得といひしは、豊干禅師の行者なり。ある在家人、客人をもてなさんとて、禅師に申して、拾得を呼びて、荷用(かよう)なんどせさせけるに、寒山子もともなひて、行きてけり。さて、酒を飲み、肉を食ひて、楽しみ遊びけるを、寒山・拾得、二人傍らにして、けしからぬほどに笑ひければ、主も客人も、興さめてぞ思えける。
主、その後、禅師にこのよしを申しければ、禅師、拾得を呼びて、「いかにかかるけしからぬことありける」と、いさめられければ、「いかでか笑ひ候ふべき。かれが先生(せんじやう)の親ども、痴愛の因縁によりて、畜類の身を受けて、今食物となれるを、親が肉とも知らずして、これを愛し、遊び戯れ、楽しみしこと、あまりに悲しく思えしかば、寒山とともに、このことを言ひて歎き侍りしを、彼らがつたなき眼にて、笑ふと見て侍るなり」とぞ申ける。
知ると知らぬと、近きと遠きとこそあれ、いはば、みな父母を殺し、食するにこそ。平等の慈悲をおこし、孝養の懇志を励まして、衆生を救ひ助くべし。群類を悩し殺することなかれ。
洛陽に、貧しき母と女とありけり。都にて住みわびて、縁につきて、越後国に下りてぞ世を渡りける。生まれつきたる果報なれば、いづくにても貧しうてぞ過ごしける。京の者にて、念仏者のありけるに、この女、あひかたらひて住みけるが、あまりに心安からぬ世間を見て、この念仏者、申しけるは、「かく心苦しくて住まんよりは、都にては、とてもかくても過ぎなん」とて、都へぞ誘ひける。
この女、母に離れんことを歎きて、用ゐざりけれども、たびたび申し勧めて、果ては、母の尼公に、「『かくて、心苦しくおはせんよりは、都にては、さすが住み慣れて侍れば、これほどのことはあらじ』と思ひて、『女房を具して上らん』と申すを、離れ奉らんことを歎きて、用ゐ給はず」と言ふ時に、母、申しけるは、「まことに、貧しくとも、あひ添ひてこそ侍るべけれ。さりながら、一人一人も心安くてこそありたければ、ただ上り給へ」と言ふ。女は、ふつと用ゐざりけり。「何さまにも、つひには離るべき道なれば、かかる田舎の住居なぐさむ方なき所に、ともに心苦しくて過ぐさんよりは、ただ上り給へ。離れたりとも、『さて都にも心安くおはすらん』と思はば、心をもなぐさむべし。さあらんにつけては、孝養にてこそあらめ」とて、上るべきよし、あながちに言ひければ、泣く泣く別れを悲しみながら、あひ具せられて、女、上りぬ。
さて、京にてあひ住みけるほどに、田舎のこと、風の便りもなかりければ、互ひにおとづるることもなし。明け暮れは母のことを申してぞ泣きける。
さるほどに、清水寺に詣でて、「母のこと、世にありとも、無しとも、示し給へ」と、祈り申しけり。日数積もりて、感応むなしからず。夢に告げ給ひけるは、「なんぢが母は、別れて後、なんぢに離れたることを歎きしほどに、病ひ付きて、いくほどなく失せにき。筑紫人の某といふ者のもとに、栗毛駮なる駄に生まれて、当時、京にあり。宿所は、しかじかの所」と、明きらかに示し給ふ。
夢覚めて、やがてかの宿所を尋ねつつ、「これには、いかなる人のおはするぞ」と問へば、「筑紫の人の宿なり」と言ふ。「さて、栗毛駮の御馬や候ふ」と問ふに、「あり」と答へければ、「さらば、あれを見候はばや」と言ふに、主怪しみて、ことの子細を問ふ。女人、申けるは、離れて候ふ母のことを、清水に祈り申して、かかる示現を蒙りたるよし、泣く泣く語りければ、主、あはれに思えて、その馬を尋ぬるに、昨日鎌倉へ下りけるよし、下人申しければ、「別の馬をつかはして、かの馬を率て帰れ」とて、急ぎ使を下しけり。
江州の四十九院(唯念寺 (滋賀県豊郷町)行基開創の江州四十九院)といふ宿にて追ひ付きて、率て帰るほどに、この馬、にはかに病みて、その夜死にけり。使、あさましく思えて、むなしく帰り上らんも、そのしるしもなかりければ、馬の頭を切りて、持ちて上る。
女は、馬の食ひ物なんど、ねんごろに用意して、日を数へて侍ちけるほどに、、むなしく頭ばかりを持ちて上りたり。これを見て、かの女房、馬の頭に袖をうちおほひて、音も惜しまず泣き悲しむことかぎりなし。これを見聞く人、よその袂もしぼるばかりなりけり。さて、この馬の頭を袖に裸(つつ)みて帰りて、墓を築き、種々の孝養をぞしける。
人の親の、子を思ふ痴愛の因縁によりて、多くの悪道に落ちて苦を受くるを、神通なければ、これを知る子なし。知らざれば、先世の恩所・知識をも、あるいは殺し、あるいは悩すこそ、まめやかに愚かなれ。この女人は、孝養の志深くして、仏に祈りて、先世の親のことを知れり。人ごとに生を受くるたびに、父母あり、恩所あれども、生を変へぬれば、いかなる形となり、いかなる報を受くるをも知らぬのみこそ侍るめれ。
梵網経には、「一切の男子は、これわが父。一切の女人は、これわが母。われ生々にこれにしたがひて、生を受けずといふことなし。ゆゑに六道の衆生は、みなこれわが父母なり。しかるを、殺し食するは、わが父母を殺し食するなり」と説かれたり(梵網經盧舍那佛説菩薩心地戒品第十卷下「一切男子是我父。一切女人是我母。我生生無不從之受生。故六道衆生皆是我父母。而殺而食者。即殺我父母亦殺我故身。一切地水是我先身。一切火風是我本體。故常行放生。生生受生常住之法。教人放生。若見世人殺畜生時。應方便救護解其苦難。常教化講説菩薩戒救度衆生。若父母兄弟死亡之日。應請法師講菩薩戒經福資亡者。得見諸佛生人天上」)
唐の国清寺に、拾得といひしは、豊干禅師の行者なり。ある在家人、客人をもてなさんとて、禅師に申して、拾得を呼びて、荷用(かよう)なんどせさせけるに、寒山子もともなひて、行きてけり。さて、酒を飲み、肉を食ひて、楽しみ遊びけるを、寒山・拾得、二人傍らにして、けしからぬほどに笑ひければ、主も客人も、興さめてぞ思えける。
主、その後、禅師にこのよしを申しければ、禅師、拾得を呼びて、「いかにかかるけしからぬことありける」と、いさめられければ、「いかでか笑ひ候ふべき。かれが先生(せんじやう)の親ども、痴愛の因縁によりて、畜類の身を受けて、今食物となれるを、親が肉とも知らずして、これを愛し、遊び戯れ、楽しみしこと、あまりに悲しく思えしかば、寒山とともに、このことを言ひて歎き侍りしを、彼らがつたなき眼にて、笑ふと見て侍るなり」とぞ申ける。
知ると知らぬと、近きと遠きとこそあれ、いはば、みな父母を殺し、食するにこそ。平等の慈悲をおこし、孝養の懇志を励まして、衆生を救ひ助くべし。群類を悩し殺することなかれ。