福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

『歎異抄真髄(大須賀秀道)』より・・4/4

2021-06-22 | 法話

「(求道の途中の疑問として)如来の光明は空想であるかもしれぬ、如来のお慈悲と考えているのも悉く妄想であって、己が主観から勝手に描き出しているものではあるまいか?己が心の寂しき欠陥を忘れるために自分に都合のよい夢をみているのではあるまいか?(如来という存在は)己が欲求に応ずるただ一時の夢の幻影にすぎぬのではないか?・・これは誰でも求道の途中に突如として胸裏に現れる疑問である。(「ひょっとしたら世界は一場のお伽噺にしかすぎず、神はそんなものには関心を以てはおられぬのかもしれぬ。・・『主よもしわれら欺かれることありともそは汝に依りてなり』という聖アウグスチヌスの言葉はいまなおわれわれの現代的感情にピッタリと当てはまる(ルナン)」という言葉もあります。古今東西「神」を疑うことは衆生の性でした)・・しかし私どもの心はあくまで妄想である。空言である。たわごとである。私ども凡夫不成の迷心では光明も虚偽である。慈悲も虚偽である。何一つとして虚偽ならぬものはない。
 これに反して如来は真実である。如来にありてこそ光明も真実である。霊能も真実である。慈悲も真実である。ただいまわたしどもの救われたのは、この如来の真実で救われたのである。如来における真実の智恵・慈悲・方便が私共の心に至心・信楽・欲生の三信となって現れてくださったのである。・・自ら自分を地獄一定の身の上と気がついたのは全く如来の大慈大悲である。自分においては何事も妄想・顛倒・幻影である。このこころで自分が胸の裡に光明を認めたとてそれが何の役に立とうか。・・その中でただ私どもの地獄へ落ちるが真実であるように、如来様の助けてくださることだけは真実である・・」

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 秘密安心往生要集・・22/42 | トップ | 阿字観の大切さ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

法話」カテゴリの最新記事