福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

金山穆韶師の「仏教における個体の観念」・・・3の2

2017-05-14 | 霊魂論
二、(大乗について)個別体の大我に還源する旨を説くものは、一般の大乗仏教である。一般大乗仏教の説によれば、この現象界を生死流転の苦境とし、此の苦境を解脱し、寂滅安穏の涅槃の境地を得せんとするは、小乗と異なることなきも、その個体及び涅槃については、小乗と説を異にするものである。

即ち小乗にては個体を構成する要素を色受想行識の五蘊となす(五蘊は物と心からなる)。しかるに小乗に明かす心は六識なり。六識とは眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識にして、前五識は五根五境相応して起こる心象、第六識は前五識と同時にその作用を起こすことあると共に、また前五識その作用を生ぜざる時にも、単独にその作用をおこすことあり、たとえば鐘声を聞くが如きは、耳根にて音声をただ感受する作用は耳識なり。其の上に今の音声は鐘の声なり、あるいは大塔の鐘の声なり等の知覚作用加ふるに至は、これ第六意識の作用なり。即ち前五識は五境の刺激により、現在の五境を認知する単純なる作用なるも、第六識は、現在過去未来に亙って細やかに思惟分別をなす。しかして第六意識は前五識と同時にその作用を起こすとともに、前五識の生ぜざる時も、単独にその作用を生気することあり。・・しかして小乗の説によれば衆生の身心に留存せる業力により、衆生の身心相続し輪廻転生するというも、その心は上述のごとく、第六識以上を明かさず。しかるに其の第六識は時にその作用断絶することあれば(極睡眠、極悶絶、滅儘定、無想天)、業力それ自ら所依の処をうしなふこととなる。
   
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 金山穆韶師の「仏教における... | トップ | Q,仏前で三礼、神社で二礼す... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

霊魂論」カテゴリの最新記事