かの大日経における三句(大日経・住心品にある「1.菩提心を因となし、 2.大悲を根となし、3.方便を究竟となす、」という三句をいう)五転(真言行者の菩提心が昇っていく次第で,発心、修行、菩提、涅槃、方便究竟の五位)三劫(住心品にいう、真言行者が覚るまでに超度するところの煩悩妄心の位階。麁妄執、細妄執、極細妄執、をいう)十地、六無畏(住心品にいう善無畏、身無畏、無我無畏、法無畏、法無我無畏、一切法自性平等無畏)等及び金剛頂経に説かれたる五智(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)五相(通達菩提心・修菩提心・成金剛心・証金剛心・仏身円満。)の法門は皆是自心性の開顕の要諦である。如来自証大覚の転起を顕示せるものである。
かかる果界(覚りの世界)の縁起を明かすところに密教の本領が存するのである。しかして何れの法相に依るも経の深趣は簡明に示し得ざるも、いましばらく五転の敬意に依って約述せんに五転とは発心、修行、菩提、涅槃、方便究竟にして、かの五智、五佛、五方(五智とは大日如来の五つの智慧、法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智、これを五仏・五方にあてはめると大日如来(中心)阿閦如来(東方)宝生如来(南方)観自在王如来(阿弥陀如来)西方)不空成就如来(北方)となる。)、九識(眼・耳・鼻・舌・身・意・末那識・阿頼耶識、菴摩羅(あまら)識)、五部(金剛界曼荼羅を構成する、仏部,金剛部,宝部,蓮華部,羯磨(かつま)部)等の法門と旨趣を等しゆうするものである。しかして此の五転に本有(元から)の五転、修生’(修業して覚る)の五転等の説ある中、今、修生東因発心の義(さきにのべた金剛界荼羅の五仏を、 発心(阿閦)・宝生(修行)・阿弥陀(菩提)・不空成就(涅槃)・大日(方便)の五転に配したもの。)を表として釈せば、中央の方便究竟の位は、五智の中の法界体性智、九識の中の第九識即ちHrdaya心である。所謂宇宙的絶対生命の自体にして、未だ自覚の発生せざる潜在的状態なり、無分別の本有の理体なりとも一応いい得らる。而してこの本有の理性を如実に体得せんとの最高の要求の生じたるはこれ東方発心の位にして、識に約せば第八識、五智の中の大円鏡智、所謂Cita心である。
かかる果界(覚りの世界)の縁起を明かすところに密教の本領が存するのである。しかして何れの法相に依るも経の深趣は簡明に示し得ざるも、いましばらく五転の敬意に依って約述せんに五転とは発心、修行、菩提、涅槃、方便究竟にして、かの五智、五佛、五方(五智とは大日如来の五つの智慧、法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智、これを五仏・五方にあてはめると大日如来(中心)阿閦如来(東方)宝生如来(南方)観自在王如来(阿弥陀如来)西方)不空成就如来(北方)となる。)、九識(眼・耳・鼻・舌・身・意・末那識・阿頼耶識、菴摩羅(あまら)識)、五部(金剛界曼荼羅を構成する、仏部,金剛部,宝部,蓮華部,羯磨(かつま)部)等の法門と旨趣を等しゆうするものである。しかして此の五転に本有(元から)の五転、修生’(修業して覚る)の五転等の説ある中、今、修生東因発心の義(さきにのべた金剛界荼羅の五仏を、 発心(阿閦)・宝生(修行)・阿弥陀(菩提)・不空成就(涅槃)・大日(方便)の五転に配したもの。)を表として釈せば、中央の方便究竟の位は、五智の中の法界体性智、九識の中の第九識即ちHrdaya心である。所謂宇宙的絶対生命の自体にして、未だ自覚の発生せざる潜在的状態なり、無分別の本有の理体なりとも一応いい得らる。而してこの本有の理性を如実に体得せんとの最高の要求の生じたるはこれ東方発心の位にして、識に約せば第八識、五智の中の大円鏡智、所謂Cita心である。