福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

佐竹さんから密教展での講演の記録をいただきました。

2011-08-10 | 講員の活動等ご紹介
平成23年7月31日(日)
於 東京国立博物館
「空海と密教美術展」記念講演

「弘法大師と仁和寺 -阿弥陀仏について-」
大西智城 師 (総本山仁和寺執行 真言宗御室派財務部長)


一、 自己紹介
 私は昭和18年の未年(ひつじどし)に徳島の漁師の次男坊として生まれました。小さいときからたいへん賢かったので(会場笑)小学6年で寺に入りました。小学校を卒業後、立江寺(四国霊場19番札所)に移り、元は「けんじ」という名前が智城という名前になりました。中学生のとき、お寺で頂くおこづかいが少ないためお賽銭を盗むことを考え、300円ばかりをいただいたところ、その場で住職に見つけられ「こら、いるだけにしておけ」といわれ、あわてて200円ばかりを返してしまいました。後で住職(後に395代金剛峯寺座主となる住職の庄野琳真師)に呼ばれてお説教をうけたのですが、「『辛抱』だよ。『幸せ』という字は『辛い』より一本多いだけで似ているだろう。今は一つ辛抱しなさい、幸せが来ますからね。」というお言葉をいただきました。この言葉は私の杖言葉として今も大事にしております。
 40歳のときから自坊で老人ホームをはじめて、今では28年になり、18箇所運営しています。

二、 仁和寺の紹介
仁和寺さんは9万坪の境内で10キロ四方、471000平米、14200坪。東京ドームの36倍あります。国宝は82点、重文が584点、58代光孝天皇が発願、父の意志を継がれて59代宇多天皇が仁和寺をつくりました。1994年(平成6年)にユネスコの世界文化遺産に登録されました。

仁和寺には檀家はなく、観光収入でやっています。ぜひお参りに来てください。みなさんは毎日お仏壇でお祈りして、毎月お墓参りをして、年に1回は仁和寺へお参りするといいと思います。
58代光孝天皇は53歳にて天皇に即位し、57歳で崩御なさいました。光孝天皇は自分が天皇になるとは思ってもいなかったことでしたが、先帝の菩提を弔い、仏法の興隆を図るため「西山御願寺」の建立を発願されました。古今集の「君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ」が 光孝天皇の詠まれた歌です。
跡を継いだ息子の宇多天皇が寺院建立のご遺志を継承されました。仁和2年(886年)に仁和寺とし天台宗のお坊さんと真言宗のお坊さんをお呼びになって密教を学び、後に真言宗をお選びになって真言宗の寺になりました。(完成は仁和4年(888年)。)宇多天皇の息子の醍醐天皇が空海に(弘法大師という)大師号を与えた方になります。仁和寺は後に出家なさった宇多法皇を初代として、門跡寺院として明治まで30代の門跡が続きました。
仁和寺には宇多天皇、醍醐天皇、村上天皇3代にわたって日記が残されています。宇多天皇が書かれた日記には猫について「こんな毛色は他にはないし本当に愛らしい。寝っころがると丸まって、伸びたら弓みたい。夜にはネズミを捕ってくる。父からもらったものだから大切にしている」などと残されています。

最後の30代目の門跡の純仁法親王(小松宮彰(あき)仁(ひと)親王)は還俗して明治維新時官軍側の征夷大将軍となり、維新後は日本赤十字社の総裁を務められました。彰仁親王の銅像は上野公園にあります。(上野動物園入口近く)

仁和寺のご本尊様は阿弥陀如来です(両脇侍は勢至菩薩と観音菩薩)。
この阿弥陀さまは光孝天皇の等身大だと言われています。(真言宗のご本尊は大日如来ですが、)覚鑁によりますと、阿弥陀如来は大日如来と同じであるといいます。阿弥陀如来は極楽浄土(西方浄土)へと導き、大日如来は密厳浄土(東方浄土)へと導きます。阿弥陀如来は48誓願をお立てになったのですが、その18番というのが、悪人正機、つまり「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国(極楽浄土)に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」、というご誓願です。また、女人成仏もそのご誓願のなかにあります。ほかの如来は女の人は女のままでは成仏できない、いったん男になってから成仏するのですが、阿弥陀如来は女の人も女のままで成仏できる、そういうご誓願なのです。カラオケとかでみなさんがここ一番の得意な歌を18番といってお歌いになる、その18番というのはこういう阿弥陀様の18番のご誓願(悪人正機)をいわれとしています。

最近『失敗それもまたよし』という本を書きました。吉田兼好法師(1283頃 ―1352頃)の徒然草に、仁和寺のお坊さんに碌な者はいないと書かれていますので、書いたのです。

三、 説法(健康)
 生かせ命ということで、私は笑いをテーマにしています。
JTで講演したとき「今日も元気だ、たばこがうまい」の、たばこがの「が」を「か」にして
「今日も元気だ、たばこ買うまい」にしてくださいっていったら
次から講演の依頼がなくなりました。(笑)

つるの恩返しという話しがあります。御存知のように
(若者が)怪我をした鶴を助けると、ある日、娘が訪ねてきました。若者はその娘と結婚して
幸せに過ごしました。その娘はこの戸を開けてはいけませんといい、自らの羽を抜いて
機を織っていた。約束を破って障子を開けたら、そのまま妻は飛んでいったという話です。
 実はこの話には第2章あるのです。また怪我をしていた鳥がいたので、それを助けた。すると
美しい娘がやってきた。また、障子を開けてはいけませんといったので、前回障子を開けて妻に逃げられていますから二度と失敗しないように開けませんでした。しかし何日経っても出てきません。そこで、開けると、家財道具すべてがなくなっていました。なんと助けた鳥はサギだったのです。(笑)

 笑いというのは健康にたいへんよいものです。胃の首の辺りに「関門」というツボがあり、笑うと新陳代謝がよくなり、体内の不要物を外に出すのです。また、呼吸というのも健康にとても影響があります。仁和寺の近くに妙心寺という禅寺がありますが、江戸時代に白隠というお坊さんがいて、若い頃に患ったぐずぐずといった病気と胸の病気を呼吸法(+瞑想)で治したということです。(『夜船閑話』参照)お釈迦さまも最澄も達磨も呼吸法というものを重視しておりまして、調身調息調心といいます。(呼吸法はこのうち調息があたります。)呼吸法を簡単に説明しますと、3秒間鼻から空気を吸う、2秒間お腹(下丹田)にためる、15秒間口から空気を出すということになります。この15秒間口から空気を出すというのが少々難しいです。俗に仲がよいことを「息が合う」と言いますね。
 健康によいものといえば、運動・食事・笑いですね。
 笑い話のネタというと、お嫁さんとお姑さんの話がやはり1番多いです。
 (1) お姑さんが施設のプールが好きで、「三途の川を泳ぐ練習をしているの」と言います。これを聞いて、お嫁さんは「和尚さん、ターンは教えないでね」と言っていました。
 (2) 朝早くにお姑さんがお寺が開く前から門の前で待っていて、「和尚さん、聞いてください。家の嫁がとてもひどくて、早くあの世のお爺さんのところに行きたい。」と言うのですが、ふと足を見るとしっかり健康サンダルを履いて来ていました。・・・
 などなど、笑いのネタはどこにでも落ちているものです。

 (その他)
 地獄と極楽を見てまいりましたが、一見同じようでありました。花が咲き、鳥が歌う極上の環境で、ご馳走をみんなで囲んで1メートルの箸を使って食べようとしているのですが、地獄では、みんな自分の箸で食べようとして一口も食べられないうちに食事の時間が終わってしまって苦しんでいました。極楽では、みんな向かい側の人に食べさせ合って、楽しく食事をしておりました。自分さえよければいいというのは地獄の心、絶えず相手のことを考えるのが極楽の心です。お大師さんが言われた済世利人です。
 
大西智城 師 プロフィール
昭和18(1943)年11月  徳島県阿南市出生
昭和41(1966)年3月  高野山大学文学部密教学科卒業

立江寺・高等学校教員・(福祉)常楽園勤務・徳島県青少年センター・(福祉)白寿会常務理事(阿波老人ホーム施設長)を経て、
現在
 総本山 仁和寺執行(責任役員)
 真言宗御室派 財務部長
 徳島大学 医学部・歯学部 非常勤講師
社会福祉法人 白寿会 本部長
真言宗御室派 願成寺住職
高野山真言宗 地蔵院住職
著書
 『愚僧の秘密』 ㈱家の光出版総合センター
 『もっと楽に生きる』  ㈱家の光出版総合センター
 『失敗それもまたよし』(近著)  徳島出版㈱
共著
 『施設ケア最前線』 医歯薬出版㈱
 『性と愛セクシャリティ』  ㈱中央法規
 『社会事業家としての空海(高野山大学選書第五巻)』 ㈱小学館スクウェア




「神護寺創成期の歴史-弘法大師空海と伝教大師最澄の交友と訣別-」
谷内弘照 師 (高野山真言宗遺迹本山神護寺貫主)

一、東日本大震災の犠牲者のために黙祷
二、和気氏のこと
神護寺は平安京の造営責任者だった和気清麻呂が建てた愛宕五坊のひとつが高雄山寺でその後、清麻呂公が創建した河内の神願寺が合併されて神護寺になりました。
 和気清麻呂には5つ年上の広虫という姉がいまして孤児を助けて姓をつけて養子を育てました。広虫のブロンズ像はジュネーブにありましたが、いまはユニセフに移されました。
この和気広虫のことを高野山の松長管長の奥様の松長昌子さん(高野山大学でフランス語を教え、退職後歴史小説家。ペンネーム斎藤史子)が、「慈愛の人-和気広虫―清麻呂を支えた才女」(淡交社)を書かれています。
和気広虫は清麻呂の姉で孝謙天皇に仕えました。道鏡即位という宇佐八幡の託宣が伝わり、その真偽を確かめるための使者に選ばれますが、遠路に耐え難く、弟の清麻呂が代わって宇佐に赴きました。宇佐八幡に行き、御神託を受けると道鏡とありましたが、清麻呂はもう一度御神託を受けました。すると龍が現れて道鏡を退けよとあったため、それを戻って朝廷に伝えると、清麻呂は九州大隈に流されてしまいました。広虫は広島県三原(御調(みつぎ)神社)に流されました。

 その流刑の道中も道鏡の刺客が清麻呂を殺そうとしました。すると300匹のいのししが現れて守ったと伝えられています。いのししは秦氏のシンボルマークです。戦前の10円札には和気清麻呂の肖像画のお札があって、裏はいのししの絵柄だったそうです。

孝謙天皇がお亡くなりになると道鏡は下野の薬師寺に移され、広虫も清麻呂も復権します。清麻呂は後に桓武天皇にも仕えています。

三、高雄山寺(神護寺創成期)と空海・最澄
清麻呂の長男の広世は弘文館という図書館と寄宿舎を造りました。この施設は平安時代の最初の私塾で、24時間体制で勉学に励むことができるようになっていました。「ゆとり教育」というのは本来はこういうものを言うのです。この弘文館にて最澄さんが招かれ半年間に渡って法華経の講演をしました。その後、最澄さんは遣唐使として1年ほど唐に国費短期留学僧として渡り、戻ってからの帰朝報告は高雄山寺で行ないました。

一方、空海は一般の留学僧(20年留学)で費用は自分持ちで覚悟が必要だったはずです。そして、2年半後、たくさんの密教経典とともに帰国し、最澄に経典などを貸しました。最澄さんはお大師さんの書いた御請来目録を写しました。最澄さんは弘仁3年、興福寺の帰りに乙訓寺にいたお大師さんを尋ねて高雄山寺で灌頂をしてほしいと頼みます。
このときお大師さんは元気がなく、それはたぶん乙訓寺にて早良親王の怨霊を封じるための修法を1年ほどして疲れていたのではないかとも言われています。

お大師さんは早速この年の11月15日に高雄山寺にて金剛界の灌頂を授けます。そのメモが灌頂暦名です。最澄が筆頭にあります。仏教界にて既に著名であった最澄が灌頂を受けるので、平安仏教のリーダーとして空海が頭角を現わすことになりました。最澄さんの後に書いてある和気真理と仲世はこの灌頂のスポンサーです。
12月14日の胎蔵灌頂は145名でした。
(この灌頂のとき掛かっていたのが高雄曼荼羅です。)

最澄さんが亡くなるまでお大師さんは高雄山寺にお住まいになりました。弘仁十四年、布教の基地を東寺につくりました。

四、 神護寺のこと、寺宝説明
神護寺は、境内は6万平米で、現在は創建当時の73分の1。昔はこのほかに複数の荘園がありました。現在は檀家はありません。明治初期に寺宝を国に取られ、昭和27年に一部返還されました。(非常にびんぼーな寺になってしまったとのことです。)天長元年824年神護寺になり、以来1200年ほど続いています。

 神護寺は、国宝17点、重要文化財2,833点を所蔵しています。寺宝は管理が大変で(具体的には事業者3割負担など。寺にとって重い負担だそうです。)、昔から「虫干しの規則」(寺則)にのっとり大切に保管しています。展覧会などに出品する際には文化庁を通して運送会社に依頼するのですが、文化財運搬の専門職であるのに近年は入札制になり心配です。運搬の際に事故(文化財損壊事故)が起きるケースがあり、しっかりとした専門職にお任せしないとなりません。毎年5月初旬に「宝物虫払い」の行事があり、主要なものを寺で順次展観しています。
 昭和54年ごろにNHKのよみがえる国宝という番組で寺宝修復の様子が紹介されました。

(寺宝説明。美しいスライドにて紹介されました。) 
 神護寺には五体そろった虚空蔵菩薩を祀った多宝堂があります。秋は紅葉がきれいで、ライトアップされて夜間拝観ができます。
 本尊の薬師如来は国家安泰を担う、そのために、癒すというよりも鋭い眼差しをしています、決意というか。唇だけに紅が入っています。比較的大きい像なので、元々は神願寺のご本尊であったかもしれません。というのは、神願寺は国の寺で、高雄山寺は修行の地であったので、神願寺のご本尊のほうが大きいものであっただろうと想像されるからです。
 弘法大師像のレリーフ。(大師堂)
 高雄曼荼羅は神護寺の住職も二十数年見た事がなかった。京博に預けていたのですが、
天井が低くて掛けることができなかったのでそのままになっていました。いま工事中
の新館では大丈夫らしいです。いま上野の展覧会にて掛かっている胎蔵界曼荼羅は(金剛界曼荼羅)よりも少々大きいです。お大師さんが指導して描いたのは胎蔵界が大きいのです。線画で描けばずっとお手本になるだろう、と線で描きました。唐から持ってきた彩色曼荼羅をお手本として。
この高雄曼荼羅は、1200年前の弘法大師の頭の中の理想の宇宙観が描かれています。お大師さんが指導したものはこれしかありません。
 神護寺には弘法大師が彫った不動明王もありました。平将門を鎮圧するために関東に行きました。将門が絶滅したので、お不動さんに「帰りましょうか」というと「帰らん」と言ったそうです。そこで、成田山に祀られて新勝寺が誕生したと伝えられています。
 赤釈迦という国宝の釈迦如来像があります。裏あてというか裏彩色が見事です。
 神護寺は400段の階段を登ると持国天と増長天の二天門があります。
 一切経は4000経、現在は2300経が伝わっています。10巻まきの布のケースが230巻あるのですが、すべてデザインが違います。
 肖像画。伝源頼朝像、伝平重盛像、伝藤原光能像。(日本を代表する肖像画です。)
 後白河法皇が文治六年(1190)、御幸されるに先立って、文治四年に寺内に建てた仙洞院。

 寺宝は多数あり、一晩中お話しても話しつくせないほどです。どうぞいらっしゃってください。

谷内弘照 師 プロフィール
1955年 京都生まれ
1974年 戒師亀山弘応和上に従い得度 
1978年  高野山大学密教科を卒業。添田隆俊和上に従い加行成満、伝法灌頂入壇
1979年  先々代住職谷内乾岳師に従い神護寺に奉職
1986年 書道家小峰鐵彰師に師事
 1989年 篆刻家山下方亭師に師事
2004年 神護寺塔頭地蔵院住職
2007年 神護寺住職就任 水明書道会評議員、日本篆刻家協会会員
近著 『ほっとする空海の言葉』(安元剛 文、谷内弘照 書) 二玄社

講演後に大西師「失敗それもまたよし」徳島出版、谷内師「ほっとする空海の言葉」(文/安元剛、書/谷内弘照)二玄社、のサイン会がありました。

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