『拾遺往生伝』及び『後拾遺往生伝』の作者・三善為康往生の日。三善為康保は延五年(一一三九)八月四日、九十一歳で往生。
三善為康は平安後期の貴族・算道家。越中国射水郡の豪族射水氏の出身。治暦3年(1067年)に上洛して、三善為長の下で算道を学び為長の養子。康和2年(1100年)正六位上・少内記に叙任。
堀河天皇の時に抜擢されて算博士・諸陵頭を兼ねる。『朝野群載』『懐中歴』・『掌中歴』・『拾遺往生伝』及び『後拾遺往生伝』など多くの著作を著を著す。
晩年には強い阿弥陀信仰を抱き、天承年間には結縁のための勧進の一環として、『拾遺往生伝』を著し、続いて『続拾遺往生伝』を執筆。保延五年(一一三九)八月四日に往生したが、亡くなる際には阿弥陀如来に向かって多年の念仏の功徳によって必ず引接を垂れ給わんことを祈請しながら没し、往生人(極楽往生した人)となったといわれている。
本朝新修往生伝に 「算博士三善爲康は越中國射水郡の人也。其の先祖、射水を以て姓と爲す。治曆三年、年始十八、土を離れ洛に入り、三善爲長朝臣算博士に師事し、卽ち入室の弟子と爲る。啻に算道に通ずるのみにあらず、亞に(主なるものの次に)紀傳を學す。望は鄕貢に在り。屢(たびたび)省試し、遂に不第に處し恨を呑んで罷る。暮年節を變じ、少內記に補す。本局勞により敍爵す。堀川院の御宇なり。算術に熟すを以て算博士に抽任し、後に諸陵頭を兼任す。上下五位に到る。博士幼少之時より、偏に觀音に歸し、如意輪大呪(注1)を誦す。遍數限らず。天仁二年以後、每日千遍を誦す。多く靈驗あり。三十以後、道心に住し、五十以後日別念佛一萬遍。善事を修する毎に極樂に廻向す。承德二年1098八月四曰に已に生涯を終り將に死路に入んとす夢を見る。彌陀如來、諸菩薩を率いて來迎せんとす。爾時、人有りて吿て曰く、「汝の命限は未だ盡ず。後年八月四日來迎すべきは、覺後思惟。若し是れ妄想か。但し三寶を祈る。須く是を決すべし」。康和元年1099九月十三日。天王寺に参じ正修念佛す。九箇日を歴て百萬遍を満たす。卽ち祈請して曰く「吾が順次往生の願、彌陀來迎の夢。俱に虛妄ならざれば、舍利三粒出現し玉ふべし」。倂しながら再三祈念す。壺を把り之を沃すに、金玉聲あり。數に依り出現ること已に祈願の如し。感淚不留。此事詳しくは往生傳序に注す。其後永く婬欲事を斷じ、彌よ念佛を修す。經論之中に語る、往生近き者は抄して之を集む。名けて世俗往生決疑と曰ふ。又往生人を訪ふ。隨喜して之を記す。捨遺往生傳。後拾遺往生傳。各三卷是也。後拾遺傳中初紙載之但大治二年に云ふ、大治三年或人の夢に、博士往生極樂之瑞ありし事は往生傳序又同下ノ十有二に詳し。」(三善爲康は保延五年(1139)八月四日に往生したが、亡くなる際には阿弥陀如来に向かって多年の念仏の功徳によって必ず引接を垂れ給わんことを祈請しながら没し、往生人(極楽往生した人)となったといわれている。)
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