1、最近も悲惨な事件事故が相次いでいます。
全く
「天道是か非か」
この世は地獄である、と叫びたくなります。
2、お釈迦様の世でもやはり地獄は現出されていました。
テーリーガ-ター(尼僧の告白)には悲惨な運命に弄ばれた尼僧達の話が次々と出てきます。
キサーゴータミーは「218、わたしは分娩の時が近つ゛いたので歩いていく途中で、私の夫が路上で死んでいるのを見つけました。わたしはこどもを生んだので我が家に達することが出来ませんでした。219、貧苦なる女(わたくし)にとっては二人の子供は死に、母も父も兄弟も同じ火葬の薪で焼かれました。220、一族が滅びた哀れな女よ、そなたは限りない苦しみを受けた。・・221、さらにまたわたしはそれを墓場の中で見ました。子供の肉が食われているのを。わたしは一族が滅び夫が死んで世のあらゆる人々には嘲笑されながら不死の道を体得しました。」といっています。また蓮華色比丘尼の壮絶な人生もありました。
大般涅槃經には人が過去に流した涙は「四大海よりも多し」とされています。(注1)
3、そしてさらに苦悩を受けている人は代受苦の菩薩であるとされます。『維摩経』には「一切衆生病むをもって、この故に我れ病む。もし一切衆生の病滅せば、則ち我が病も滅せん。…またこの疾やまい、何の所因より起こるやと言わば、菩薩の病は大悲をもって起こるなり」とあり、『請観音経』に「また地獄に遊戯し、大悲、代わりて苦を受く」とあり、『大智度論』四九では、大悲受苦を説いたのち、「もし代わるべき理有らば、必ず代わること疑わず」とあります。
4、しからば苦を菩薩に代わっていただいている衆生の我々は
どうすればよいのか・・。
ここで聖徳太子の「捨身飼虎の教え」があることに気が付きます。
我々は代受苦をしていただいている菩薩様方に対して我々自身が又菩薩道に励むことでお答えしなければ忘恩の徒となるということです。密教の加持祈祷で諸願成就するのも受者が菩薩道に入っているからでしょう。
(注1)(大般涅槃經卷第二十二
北涼天竺三藏曇無讖譯
光明遍照高貴徳王菩薩品第十之二
復次に善男子よ。菩薩摩訶薩、諸衆生を觀ずるに、色・香・味・觸の因縁を為すの故に、昔より無數無量劫より來かた常に苦惱を受ける。一一の衆生の一劫の中に積むところの身骨は王舍城毘富羅山の如し。飮む所の乳汁は四海の水のごとし。身より出すところの血は四海の水より多し。父母兄弟妻子眷屬の命終に哭泣して出す所の目涙は四大海より多し。盡地草木を四寸籌となし以って父母を数えるも亦た盡すあたわず。無量劫より來た、或は地獄畜生餓鬼にありて受くる所の行苦は稱げて計ふべからず。此の大地を揣じて棗等のごとくせんも、猶究極すべからず。生死盡すべからず。菩薩摩訶薩は是の如く深く一切衆生、欲の因縁を以ての故に苦を受けること無量なるを観ず。菩薩は是の生死行苦の故に念慧を失はず。」)
全く
「天道是か非か」
この世は地獄である、と叫びたくなります。
2、お釈迦様の世でもやはり地獄は現出されていました。
テーリーガ-ター(尼僧の告白)には悲惨な運命に弄ばれた尼僧達の話が次々と出てきます。
キサーゴータミーは「218、わたしは分娩の時が近つ゛いたので歩いていく途中で、私の夫が路上で死んでいるのを見つけました。わたしはこどもを生んだので我が家に達することが出来ませんでした。219、貧苦なる女(わたくし)にとっては二人の子供は死に、母も父も兄弟も同じ火葬の薪で焼かれました。220、一族が滅びた哀れな女よ、そなたは限りない苦しみを受けた。・・221、さらにまたわたしはそれを墓場の中で見ました。子供の肉が食われているのを。わたしは一族が滅び夫が死んで世のあらゆる人々には嘲笑されながら不死の道を体得しました。」といっています。また蓮華色比丘尼の壮絶な人生もありました。
大般涅槃經には人が過去に流した涙は「四大海よりも多し」とされています。(注1)
3、そしてさらに苦悩を受けている人は代受苦の菩薩であるとされます。『維摩経』には「一切衆生病むをもって、この故に我れ病む。もし一切衆生の病滅せば、則ち我が病も滅せん。…またこの疾やまい、何の所因より起こるやと言わば、菩薩の病は大悲をもって起こるなり」とあり、『請観音経』に「また地獄に遊戯し、大悲、代わりて苦を受く」とあり、『大智度論』四九では、大悲受苦を説いたのち、「もし代わるべき理有らば、必ず代わること疑わず」とあります。
4、しからば苦を菩薩に代わっていただいている衆生の我々は
どうすればよいのか・・。
ここで聖徳太子の「捨身飼虎の教え」があることに気が付きます。
我々は代受苦をしていただいている菩薩様方に対して我々自身が又菩薩道に励むことでお答えしなければ忘恩の徒となるということです。密教の加持祈祷で諸願成就するのも受者が菩薩道に入っているからでしょう。
(注1)(大般涅槃經卷第二十二
北涼天竺三藏曇無讖譯
光明遍照高貴徳王菩薩品第十之二
復次に善男子よ。菩薩摩訶薩、諸衆生を觀ずるに、色・香・味・觸の因縁を為すの故に、昔より無數無量劫より來かた常に苦惱を受ける。一一の衆生の一劫の中に積むところの身骨は王舍城毘富羅山の如し。飮む所の乳汁は四海の水のごとし。身より出すところの血は四海の水より多し。父母兄弟妻子眷屬の命終に哭泣して出す所の目涙は四大海より多し。盡地草木を四寸籌となし以って父母を数えるも亦た盡すあたわず。無量劫より來た、或は地獄畜生餓鬼にありて受くる所の行苦は稱げて計ふべからず。此の大地を揣じて棗等のごとくせんも、猶究極すべからず。生死盡すべからず。菩薩摩訶薩は是の如く深く一切衆生、欲の因縁を以ての故に苦を受けること無量なるを観ず。菩薩は是の生死行苦の故に念慧を失はず。」)