「真言安心勧善義」彦岑和尚撰
問。真言宗の安心は如何心得申すべきや。
答。即身成仏の一句。まさしくこれ密宗安心の肝要なり。大師の釈に「一切の佛法はこの一句を出ず。云々」(「・・即身成仏の四字を歎ず 即ち是の四字に無辺の議を含ぜり 一切の
問。その旨如何。
答。三界六道流転やむことなく。三毒五欲におおいに昧まされて。冥より冥に入りぬべき愚痴無知無常顛倒。まことに拙く穢わしきこの心、この身にて直に万徳円満三世常住浄妙法身の佛体となることを得んこと、まことにありがたき宗旨の教えにて、無上至極の安心ならずや。たとひそれ学問修行の力なき輩も一念疑惑の心を離れて、もっぱら只だ、信心に住してこの身すなわち佛体なり。この心すなわち佛心なり。佛体佛心ならば、善心善事をつとめて行うべし。悪心悪事をば堅くなすまじきと心得れば、頓に生死の区を出て、至る所として自性法身の極楽浄土にあらざることなしと安心すべし。真言宗に縁なき衆生は六道輪廻脱るる期いずれのところぞ。まことに悲しき至極なるべし。諸宗の祖師にてまします龍猛菩薩は「ただ真言法の中にのみ即身成仏するがゆえに、三摩地の法を説く。諸経のなかにおいては欠して書せず」(『菩提心論』)とおおせ置かれしなり。しかれば真言宗にいりぬる人々は即身成仏疑いなし。まことに有難きことにてはべるなり。諸教諸宗の教えに随へる輩は自ら流転凡夫の区にさまよふ。唯これ真言宗趣に縁なきことを悲しむべし。大聖文殊五字心陀羅尼頌経に「あるいは一念をおこして、我は是れ凡夫なりと言はば、三世の佛を謗するに同じ、法のなかに重罪を結す」とのべたまへり。即身成仏の明文一一挙げるにいとまあらず。「成佛の難きにあらず、この法に遇ふことの難きなり」(大師作の恵果和上碑文に和上の言として「冒地の得難きにはあらず、この法に遇うことの易からざるなり」)と古徳の言い置かれしも、これらの旨を述べたまえることにこそ。
阿字のこと
問。真言宗は阿字をもって根本法門とすと承れり。しからばこれまた安心の根本なりや。
答。阿字は実にこれ密宗の根本法門なり。根本安心の秘要なり。阿字本不生の義は即ち是れ即身成仏の義なり。阿字門に通ずれば即身成仏に通達す。即身成仏にうたがひなければ諸法本不生に疑ひなし。安心の至要たること知んぬべし。
問。阿字観は如何が修行をなし、如何が少分も覚り得べきや。
答。阿字は一切字の母、一切声の体、一切実相の源にして、大日如来の種子なり。阿字に発心、修行、菩提、涅槃、方便究竟の五転門の義あり。佛法無量無辺なりといえども、この五転の法門を出ることなし。又、真言宗に息災、増益等の五種の法あり。この五種の法またこれすべて阿字の功徳なり。又無・不・非の三義。有・空・中の三義。浅略・深秘・秘中の秘・秘秘中の深秘等。凡そ無量無辺の甚深の義門あり。畢竟三世十方諸仏所説の無量不可思議の法門もただこれ阿字の義をのべたまへり。一切経教は阿字より出生し、阿字に摂り、一切諸仏も阿字より出生ましまして阿字に住し、阿字に帰せずといふことなし。
乃至世界諸法山河大地森羅万象も、悉く是れ阿字より建立に阿字に約(つ)まる。畢竟萬法の能生にして萬法の所帰なり。その義は諸仏の妙弁も説きつくしたまふことあたわず。天魔の眼精窺い見ることもとより難し。有心の縁ずる阿字にあらず。無心の縁ずる字義にあらず。言語をはなれてて言語実相なり。塵垢をけい脱して塵染如如なり。因業をはなれて無分別もおよばず有有なり無無なり。しからば如何ぞや。法身如来大悲甚深にして未来衆生のために強いて自証の法を説いて諸法本不生と開示したまへり。しかれば今日の我らかたじけなくも唯この一句を提撕して、行住坐臥歴縁対境しばらくもわするることなく修観日夜其の功実につもりなば、自然に少分悟入の時節あらん。また、それ先徳阿字観の軌則あり。有縁の師に随って伝授修観あるべきなり。ただねがわくは真言行者偏に諸仏の加護をあおぎみて自ら金剛無垢眼を掲げんことを。(続)