三種の神器について。結論は「三種の神器こそ日本国の象徴であらせられる天皇陛下が神・仏・儒の統合の象徴であられることを示している」ということです。
1、神皇正統記に以下のようにあります。
「・・三種(みくさ)の神宝(かむたから)を(天照大神が)授けまします。先づあらかじめ、皇孫(瓊瓊杵尊ににぎのみこと)に勅して曰く、「葦原千五百秋瑞穂国(アシハラノチイオアキノミズホノクニ)は、これ吾が子孫(うみのこ)の主(きみ)たるべき地(ところ)なり。爾(いまし)皇孫(す めみま)、就いて治(しら)すべし。さきく行き給へ。宝祚之(あまつひつぎ=皇位)の隆(さか)えまさむこと当(まさ)に天壌(あめつち)と窮まりなかる べし」また大神、御手に宝鏡を持ち給ひ、皇孫に授け祝(ほき)て、 「吾が児、この宝の鏡を視ること当になほ吾を視るがごとくすべし。ともに床を同じくし殿(みあらか)を共(ひとつに)して斎鏡(いわいのかがみ)とすべし」との給ふ。八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)・天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)を加へて三種とす。また「この鏡の如くに分明なるを以て、天下に照臨し給へ。八坂瓊の広がれるが如く曲妙(たくみなるわざ)を以て天下をしろし めせ。神剣をひきさげては順(まつろ)はざるものを平らげ給へ」と勅ましましけるとぞ。この国の神霊として、皇統一種正しくまします事、まこ とにこれらの勅に見えたり。三種の神器世に伝ふること、日月星の天にあるに同じ。鏡は日の体なり。玉は月の精なり。剣は星の気なり。深き習(いわれ)あるべきにや。抑も、彼の宝鏡は先に記し侍る石凝姥命(イシコリドメノミコト)の作り給へりし八咫の御鏡〈八咫に口伝あり〉、
玉は八坂瓊(ヤサカニ)の曲玉、玉屋の命〈天明(あめのあかる)玉とも云ふ〉作り給へるなり〈八坂にも口伝あり〉。
剣は素戔烏命の得給ひて、大神に奉られし叢雲剣なり。この三種につきたる神勅は正しく国を保ちますべき道なるべし。
鏡は一物(いちもつ)を蓄へず。私(わたくし)の心なくして、万象を照らすに是非善悪の姿現れずと云ふことなし。その姿に従ひて感応するを徳とす。これ正 直の本源なり。
玉は柔和善順を徳とす。慈悲の本源なり。
剣は剛利決断を徳とす。智恵の本源なり。
この三徳を翕受(あわせうけ)ずしては、天下の治まらんことまことにかたかるべし。」
2、和辻は神皇正統記の記述を肯定して、「鏡」 、「玉」 、「剣」に「正直」、「慈悲」、「智恵」の三徳を当てはめる典拠を以下のように考察しています。「・・典拠をあげるとすれば、正直の概念は日本の神話や神道の流れをうけ、 慈悲の概念は仏教の流れを、智恵の概念は儒教の流れを、すなわち是非善悪 の分別を核心とする流れを、受けているとも言えるであろう。(和辻哲郎「日本倫理思想史」)」
3、まさに天皇陛下は三種の神器を受け継がれることににょって、神・仏・儒の三つを統合されるお立場であったことを示されているのです。