山 岡 瑞 円 上 人 の 略 伝(三 井 英 光)等より・・1
一、生 い 立 ち
四国霊 場簾六十一番札所、 愛媛県小松町字南川 の栴坦山香園寺住職、 山岡瑞円上人は、 明治十六年九月計日、 松山市山西、常福寺山岡泰恕師を父として生れた。 幼にして父を亡ない、六才の時、母につれられ て あらたに香園寺に入り、第 三十六世新瑞応師を師僧として得度剃髪した。 その後十二才にして 一且高野山 に登 りた るも、 間もなく山 麓 の妙寺村東光寺 の仙石信明師 (後 に愛 媛県 小松 町清楽寺へ転住 す) の室 に入り、前後五力年 同師の膝下に在って四度加行(真言僧侶になるための行法、十八道・金剛界・胎蔵界・護摩の四行があり、4つの段階を経て、伝法灌頂を受法する資格があり、伝法灌頂に入檀し、伝法阿闍梨位を得る。)を成満したのであ る。その後笈を負うて讃岐 に、或 いは岡山 に転 じ、更に京都 の東寺中学林 に入りて密教を学び たるも、 途中先師の遷化 に遇い、その上自 からも亦肺患を病 みて医師 の勧めに依 り学業を廃 し て香園寺に帰 り、明治 三十六年 (注1)八月、 二十才に して師蹟を継いで、香園寺簾 三十 七代 の住職となったのである。
(注1)この年一月には、 大谷光瑞率いる大谷探検隊がインドビハール州ラージギル郊外で霊鷲山を発見しています。当時は日清戦争の賠償金で日本経済が絶好調の時です。翌年には日露戦争が勃発します。
一、生 い 立 ち
四国霊 場簾六十一番札所、 愛媛県小松町字南川 の栴坦山香園寺住職、 山岡瑞円上人は、 明治十六年九月計日、 松山市山西、常福寺山岡泰恕師を父として生れた。 幼にして父を亡ない、六才の時、母につれられ て あらたに香園寺に入り、第 三十六世新瑞応師を師僧として得度剃髪した。 その後十二才にして 一且高野山 に登 りた るも、 間もなく山 麓 の妙寺村東光寺 の仙石信明師 (後 に愛 媛県 小松 町清楽寺へ転住 す) の室 に入り、前後五力年 同師の膝下に在って四度加行(真言僧侶になるための行法、十八道・金剛界・胎蔵界・護摩の四行があり、4つの段階を経て、伝法灌頂を受法する資格があり、伝法灌頂に入檀し、伝法阿闍梨位を得る。)を成満したのであ る。その後笈を負うて讃岐 に、或 いは岡山 に転 じ、更に京都 の東寺中学林 に入りて密教を学び たるも、 途中先師の遷化 に遇い、その上自 からも亦肺患を病 みて医師 の勧めに依 り学業を廃 し て香園寺に帰 り、明治 三十六年 (注1)八月、 二十才に して師蹟を継いで、香園寺簾 三十 七代 の住職となったのである。
(注1)この年一月には、 大谷光瑞率いる大谷探検隊がインドビハール州ラージギル郊外で霊鷲山を発見しています。当時は日清戦争の賠償金で日本経済が絶好調の時です。翌年には日露戦争が勃発します。