真言傳・役行者「役優婆塞は大和国葛上郡茅原の郷の人也。彼の郷に一人の婦女あり。夢に天より一の独鈷下りて口に入ると見て孕ぬ。十月を経て男子を生ず。是欽明天皇七年546正月一日也。面貌形体世の人に異也。十三歳以来歩行の間雨りても衣裾をぬらさず。足に蠢類を踏まず。十七歳より藤の皮を衣として松の葉を食として華を吸ひ草を結びて金剛山に住して難行苦行し、箕面寺に登る。是斉明天皇第四年戊午658也。澗(たにみず)の流れに随て山を越へ川を渡て尋登る。時に三重の滝あり。最上の淵は雄滝也。高さ一条餘也。杖を立てて腰をかけてよじ登る。其の杖の跡今にあり。淵の底に三丈餘の黒蛇わだかまり臥す。時に出て人に見ゆ。第二には瓔珞の滝也。岸石滴りて珠を貫けるが如し。第三は雌滝也。高さ十五丈餘、布をさらせるに似たり。頂上の壺は龍穴也。其の龍の色、斑にして長さ三丈餘、ややもすれば黒雲を吐きて雨を下す。爰に行者心を致し誠を運びて修行する間、同年(斉明天皇第四年戊午658)四月十七日の夜、夢見らく、龍穴の底を知る為に利剣をあみて身に著し長縄を脇に付けて淵の中に沈むこと一里許り、時に一の城有り。石門をかためたり。暫く立ちて聞けば囂塵のをとなくして娯楽のしらべあり。門前に跪きて持呪すること洛叉(十万遍)、人の聲、戸の内に在りて問て云く『呪を誦する誰人ぞや』。答て云『日本国役優婆塞行者也』と。問云『君は又誰人ぞや。我は是徳善大王也』と。終に大王、門を開けて行者を龍樹の浄土に出参す。大王の左右に十五の金剛童子圍繞せり。四方を見に隅楼四方に立て、重閣軒をつけり。殿堂瑤階、寶池林樹、心の及ぶ處に非ず。寶葢香華、燈明飲食等の供具、懸列して其の数知らず。堂の前ごとに丈餘の錫杖を立てたり。時いたればふるはざるに自らなる。正面ごとに丈餘の鼓聲をかく。剋限に打たざるにたへにひびく。菩薩・聖衆・天人・大衆その中に満てり。其の中央の宮殿の内に荘厳の床あり。其の上に竜樹菩薩・弁財天女厳然として坐したまへり。此の間に徳善大王、仏前の香水を取りて行者の頂上に灑ぎて頂を摩して云く『汝、本所の還りて力のたへんほど意に任せ興隆せよ』と。其後水上にうかびあがると見て夢覚めぬ。同行の義覚・義賢に対して夢を語りて涙を流す。行者不日滝行。西の脇を點定して荊棘を払ひ厳河を平げ、自ら草堂を結びて等身の龍樹菩薩幷に辨財天女の像を造り顕す。同年(斉明天皇第四年戊午658)十月十七日甲午を以て紅葉を折り薪をこりて開眼供養既に畢ぬ。徳善大王、十五金剛童子等の護法神の為に小社を作りて堂内の艮角に安置せり。(溪嵐拾葉集「一。乙護法事 背振山縁起云。夫印度南天竺國ニ在大徳比丘。名曰龍樹菩薩。其國ニ在王。名曰徳善大王ト。此王生於十五人王子。第十五王子生後經七日不知行方ヲ失畢。于時大王失愛子悲歎無極。爰ニ龍樹菩薩以天眼照見于三千界ヲ之處。粟散邊土之境。日域西土之際背振山ニ現居セリ。爾時菩薩如此事白大王。大王歡喜ヲ引率十四人王子ヲ。而龍樹菩薩倶ニ來現シ於背振山ニ給云。今鎭守背振權現者徳善大王。即辨財天者是也。十五人王子者。即辨財天十五童子是也。發於護法之願ヲ。處處ニ示現シ玉フ。最後十五王子故乙護法 已上」)
行者昼は滝の上にて孔雀明王の呪を誦し、夜は滝の下に大聖明王の呪を誦す。山草澗水、三時の閼伽をこたらず。三密の念誦闕ることなし。其の勤行のあと、滝の頂の東西に高所幷に滝の下の南北幽閉の庭是也。是の如く練行二十余年を見たり。矜羯羅・制吒迦の二童子、八部衆等夙夜に奉仕し、宿衛す。天智天皇六年667乙卯、行者三十四にして大峰に入りて修行す。剣嶽に至るに骸骨の続目一々に相を離れずして長さ九尺五寸あるなり。左の手に独鈷を取り、右の手に智剣を取りて仰ぎて臥り。眼中より樹を出生す。行者是を見て件の骸骨の持つ剣杵を取んとするに山岳は動きて取る事能はず。行者大にあやしみて本尊に祈るに夢に本尊示したまふ。此の死骸は汝の先の生なり。この峰に修行せし七生の中の第三生の骸也。汝千手陀羅尼五遍、般若心経三遍を誦して祈請して取るべしと云々。夢覚めてそのごとく祈るに則ち二手を開きて剣杵を授くと云り。同天皇十年(671)生年三十八にして金峯山に登りて修行す。持統天皇九年丙申(699年となるが実際は持統天皇は697年までしか在位されていない)生歳六十三にして金峯山と剣山とえお行き通ん為に諸国の鬼神を召集して両山の間に石橋を作り渡らしむ。葛城の一言主の明神、行者に申さく『 わが形極めて見悪し。昼ははばかりあり。夜つくるべし』と。行者ゆるさずして尚昼作るべき由命ず。神其の験力にかたざることを思ひて王宮の人に託して申さく。役優婆塞、王位をかたむけんとす』。則ち勅使、行者をとらへんとするに呪力によりてとらへられず。是によりて母を縛獄せらる。母を救はむ為に獄に来る。同(天智天皇)十一年丁酉672、二月十日、伊豆の島に流し使はさる。生年六十四也。昼は王命にしたがひて島に居り、夜は駿河国富士の峯にて修行す。然るに一言主尚後の恐れを思ひて後悔を知らず又託宣すらく『役行者は早く殺害せらるべし。存命せば尚王法を謬べし』と。公家、又神の讒言を用ひらるるによりて文武天皇四年庚子700十月二十五日、勅使をつかはして伊豆の島に行者を引き出して誅せんとす。時敢てふせがず。勅使の前に蹲踞して頭を傾けて教を受く。但し刀を乞て両肩面背等をまねきりて舌を以てねぶりてかへし與ふ。行者云く『あやしきかな、あやまちなくして重々の勅勘を蒙事』と云ふ。勅使驚きて致さずして公家に奏す。天皇、博士を召して表をとはしむ。其の詞に云『天皇慎崇し玉ふべし。是凡人に非ず。尤も賢聖也。早く殺罪を免じて速やかに都城に迎へ尊重し住修せしむべき者也云々』。其の時に罪を免じて迎へ請じて尊重せしむ。爰に行者、一言主の讒言也と聞きて、呪力を放ちて明神を纏縛し所持の両呪を以て七度呪し高聲にせめて云『縛することをそし』。時に大鬼明神をとらへしばりて出来れり。行者誓ひて云『将来に験力ひとしき聖者あらば此の縛をとくべし。若し其れなくんば慈尊下生の時、今の縛を解きたまふべし』と云て遥かなる谷の底に投げ入れつ。今の金剛山の東西に一言主谷と云ふ是也。行者左右に語りて云く『是当時の憤を報ずるに非ず。将来をだやかならむ事を思故也』との給ふ。谷の底に長さ二丈餘の黒蛇をとろへたるすがたにて、地にうつぶし臥、若し雨気あるときはほこる音あり。蛇を見る人、凶事を蒙り、音を聞く人不祥を致すと云へり。大宝元年正月一日、渡唐せんとて箕面の徳善大王の社の前にて渡唐の日を申す。大王、社の内に哭泣してこえ聞へて社の内より猛火俄かに発してもゆ。行者一度呪するに火炎消て損なし。時に行者生年六十八にして鉢に母を坐せしめて唐へ飛び去り給といへり。或る説に云く、本朝の沙門道照和尚(白雉四年(653年)、遣唐使として入唐し、玄奘三蔵に師事して法相教学を学び帰朝後日本法相宗の祖となる。最初の火葬者)唐朝に入って霊験の処処を順禮する間、五百人の賢聖をして請をへて新羅寺に住して法華経を講讃するに神仙毎日来りて道照和尚の弁舌を聞く。其の中に第三の仙和、国の語を以て論議を発す。和尚問て云く『本国の語を以て疑を挙ぐる、誰人ぞや』答『大和国金峯山葛城山富士の峯等の行者役優婆塞也。坐を下りて本国の由みを思て涙を流す。行者云く『我此の土に来て年月を送ると雖も三年に一度は本国に往きて三の峯を練行す。本朝の恩を忘れざる故也』といへり。
或る説に云く、行者は三国修行の人也。初生は天竺、次に唐土、次は日本国伊輿国石鎚を行ず。次の生は伯耆国三徳山にて行ず。次の生は金峯山にて行ず。初七日にうつぶし臥して心経を誦するに地蔵菩薩出給ひ、行者剣を以て是を打ち奉りてをひ返して云く『この身を以て悪魔を降伏しがたし』。又七日仰臥して心経を誦するに弥勒出給ひ、又杵を以て打返奉事先の如し。又七日立て眼を出し牙をかんで心経を誦するに金剛蔵王現じ給り。青黒怒にして左の手に剣印を結びて腰を押へ、右の手に三鈷杵を取りて巌の中より出ての給はく、『昔霊鷲山に有りて法華経を説く、今は金峯山にして蔵王の身を現ず』との給ふ。蔵王則ち虚空をふみて三鈷窟の中に入りたまひぬ。爰に行者、柘楠草を以て等身の蔵王を作りて釈迦窟に安置し奉る。又、大峰は是れ本佛生國野山也。彼地より飛び来りて我朝に落ち留まる所也。行者はこの峰を行ふ事七度也。行者護法を以て三重の滝を流せり。護法をして毎日寅の時に此の浄水を両山に灑がしめて修行者の益をえしむ。初二三生は骸骨を留む。第四生より第七生に至る迄、骸を留めて初生長七尺五寸。第二生は八尺。第三生は九尺五寸。三重の石窟は初生の時には下の窟。阿弥陀の曼荼羅を安置す。第三生には中の窟に胎蔵曼荼羅を安置す。上の窟には金剛界の曼荼羅を安置す。窟ごとに大壇・閼伽器・五部鈴・撅・五色等、皆石を持てtつくり置きたまへり。第三重の窟の艮の石に行者の形像をえりつけたり。又剣の獄に剣有。八角にして長さ九尺也。件の剣は大唐の后の御願、海岸寺の宝物。行者伝て、此の獄の茅原の郷に生を受け給へり。大峰の縁起の文は、行者の母、賀茂氏、権現御示現によりて感得する所也。行者
、義覚に授く、義覚より数代相伝ふと云へども器なきによりて金峯山蔵王堂の秘所の埋むといへり。」