(二)渡海
大師の入唐はその三十一歳の時で、正しく桓武天皇の延暦二十三年(西暦八〇四)に當る。この年の七月六日に、遣唐大使藤原葛野かどの麻呂の一行が、肥前國松浦郡田浦たのうらから唐へ渡ることとなつた。大師は橘逸勢はやなりと共に、藤原葛野麻呂の第一船に便乘いたし、天台の傳教大師は、判官菅原清公きよともの第二船に便乘いたした。ここで先以て申置かねばならぬことは、當時の日支間の航海は非常に危險で、今日では殆ど想像し得ざる程の困難が多かつたことである。
申す迄もなく、當時の航海は帆船に乘るので、風の利用が第一に緊要である。所が當時日支間の航海に、この風の利用が十分研究されて居なかつた。一體西は紅海より、東は日本海に至る、東洋の海上に吹く風の方向は、季節によつて略一定して居る。所によつては多少の相違はあるが、極めて大體を見渡して、陰暦の四、五月から七、八月にかけては、多く西南の風が吹き、九、十月から翌年の一、二月にかけては、多く東北の風が吹く。その以後は復た西南の風が吹き出すといふ樣に、季節によつて吹く風の方向が略一定して居る。これは西暦六十年の頃に、エジプトのアレキサンドリアの住人ヒッパルスといふ人が始めて發見して、航海に利用したと傳へられるので、ヒッパルス風とも、また恆信風ともいはれた。この風の利用が開けて以來、西洋から東洋に渡航するには、西南風を利用して四・五月の頃から發船する。その反對に東洋から西洋に出掛けるには、十月以後に發船する。帆船時代には皆この恆信風を利用したもので、唐宋時代の歴史を見渡すと、南洋や西洋の貿易船が支那に入港するのは、大抵夏の五月の南風の吹く頃で、之を夏迅といひ、その貿易船が西洋や南洋へ歸航するのは、冬の十月十一月の北風の吹く時で、之を冬迅というた。
日支間の航海にもこの風を利用すべきと思ふが、事實大師の時代には、餘り之を利用せなかつた樣である。この時代に日本から支那に出掛けるには、大抵夏期を選ぶ。光仁天皇の寶龜七年(西暦七七六)の閏八月に、遣唐使一行の上奏に、今既入二於秋節一、逆風日扇、臣等望、待二來年夏月一、庶得二渡海一(『續日本紀』卷卅四)といへる通りである。現に大師等も七月六日に田浦を發船されて居る。支那から日本に歸るのは秋冬の交を選ぶ。これらは恆信風利用の點から觀れば、間違つて居ると申さねばならぬ。勿論恆信風以外に、低氣壓や潮流の關係や、その他の事情もあつて、簡單に斷定は出來ぬが、恆信風を利用する上から申せば、その反對に、春夏の交に支那から日本に、秋期に日本から支那に渡航する方が寧ろ安全便利と思ふ。
幾多の入唐僧侶の中で、尤も迅速なる渡海を遂げたのは、安祥寺の惠運和尚であらう(大師の弟子。実恵の門下。842年(承和9年)唐の商人李処人の船で唐に渡った。長安青龍寺で義真に灌頂を受け847年(承和14年)に帰国)。彼は仁明天皇の承和九年(西暦八四二)秋八月二十四日に、肥前國松浦郡遠値賀とほちか島那留浦を發船し、正東風――實は東北風と見るべきである――に乘じ、僅に六晝夜にして浙江の温州の樂城縣(今の樂清縣)附近に到着いたし、滯在五年の後ち、承和十四年(西暦八四七)の夏六月二十二日に、明州(今の浙江省會稽道鄞ギンより出帆して、西南風を利用し、僅々三晝夜にして、肥前國遠値賀島に歸着して居る。即ち往復ともに恆信風を利用した譯である。
高岳(眞如)親王に同伴して入唐した宗叡和尚は、清和天皇の貞觀四年(西暦八六二)の九月三日に、肥前の遠値賀島から東北風に乘じて帆を擧げ、途中一夜だけは逆風に苦しめられたが、その七日に早くも浙江の明州附近に到着した。貞觀八年(西暦八六六)歸朝の時は、六月に福建の福州より西南風に乘じ、五日四夜にして遠値賀島に到着して居る。これも往復ともに恆信風を利用したればこそ、かく容易な航海を遂げ得たのである。かく西暦九世紀の半頃となると、恆信風を利用した場合が多く見當るが、その五十年前の大師の入唐時代には、未だこの利用が十分に知られて居なかつた樣に思ふ。
次に航海には方向を正確に知ることが必要で、それには羅針盤を使用せなければならぬが、羅針盤が航海に利用さるるに至つたのは、大師の時代より約三百年後の北宋の末期からである。大師の時代には、世界の何地でも、まだ航海に羅針盤を使用して居らぬ。從つてこの時代の航海は、日月星宿を目標にして方向を定めるといふ、至極不安心のものであつた。大師より約四百年の昔に、法顯がセイロンから南洋を經て支那に歸着した。その當時の航海の有樣を記して
「海中抄賊多し。遇輙全無し。大海彌漫して邊なし、東西を知らず、唯だ日月星宿を望みて進む。若陰雨時、逐風に遂いて去る、亦た准するところなし。天すでに晴るに至って、乃ち東西を知る、還って正を望んで進む。若し伏石(暗礁)に値へば、則ち活路なし(『法顯傳』)」。と申して居る。法顯その人も廣州へ入港する豫定が、難風に遇ひ方向を誤つて、今の山東の膠州灣附近へ漂着したのである。唐時代の航海の状態もほぼそれと同樣であつた。
唐時代でも、南洋方面から來る貿易船は鴿はとを養ひ、之を陸上との交通にも、又は陸地の搜索にも、使用いたして居たが――最近の世界大戰以來持て囃された傳書鴿の使用は、東洋が本場で、十字軍の頃に、東洋から歐洲に傳つたものである――日支間の航海には之を使用せなかつた。從つて我が入唐船が本國を離るるが最後、陸上との交通全く絶えて、一切の消息が通ぜぬので、その心細さは想像以上と申さねばならぬ。
之に加へて當時我が國の造船術も操船術も倶に幼稚で、支那は勿論、或は朝鮮よりも劣つて居つた。齊明天皇の御世に、百濟援助の目的で戰艦を造つたが、折角出來上ると間もなく「艫ヘ舳トモ相反カヘル」といふ有樣で、實用に適せなかつたといふ(『日本書紀』卷廿六)。ついで我が海軍と唐の海軍と、今の朝鮮の忠清南道にある、百濟の白村江(白江口)で會戰して、我が海軍が失敗したが、それも畢竟我が國の戰艦の不完全と操船の不熟練の結果と認むべきであらう。
仁明天皇の承和六年(西暦八三九)八月に唐から歸朝した大使藤原常嗣つねつぐの一行は、往路は日本船で出掛けたが、その歸路には日本船の不完全を嫌ひ、江蘇の楚州(今の淮揚道淮安縣)で新羅船を倩うて之に搭乘した。同じ年に新羅船の方が能く風波に堪へるといふので、太宰府で新羅風の船を製造した。これらの事實は何れも當時日本に於ける造船の不完全なりし證據と認むべきである。そののち元・明時代に至つても、日本船は一體に支那船より製造法が劣つて居つたやうである。
上述の如き事情であるから、當時の航海の例として、出發の時にも歸朝の時にも、三四艘を一組となし、互に連絡をとつて航行するが、大抵中途で離散する。二三の著しい難船の實例を示すと、
(a)聖武天皇の御世に、遣唐大使多治比眞人廣成の一行は、天平六年(西暦七三四)十月に四艘の船に分乘して、蘇州(今の呉縣)から歸朝の途に就いたが、大使の搭乘した第一船が比較的無事なりしを除くの外、その他の三艘は皆難船した。中にも判官平群朝臣廣成の一行百十五人の搭乘した第三船は、南海の崑崙國(林邑國今の佛領安南の一部)に漂着し、或は殺害せられ、或は病死して、僅に四人だけ生存し、唐の保護を受けて、十年(西暦七三八)三月に、山東の登州(今の膠東道蓬莱縣)より渤海國に送られ、渤海國使の我が國に入貢するに同行して、龍原府(今の朝鮮の國境の圖們江口附近)より歸朝せんとしたが、又逆風の爲に、出羽國に漂着して、翌十一年(西暦七三九)の十一月に、六年目でやつと平城の京に到着した。
(b)その後約二十年にして孝謙天皇の天平勝寶五年(西暦七五三)の十一月に、遣唐大使藤原清河らの一行も亦四艘の船に分乘して、蘇州から解纜したが、間もなく離散し、中にも清河や阿倍仲麿の搭乘した第一船は、安南の驩州方面に漂着して、安南から更に長安に歸つた。清河も仲麿も之が爲に、遂に再び故國を見ることを得ずに唐で逝去した。十月や十一月に支那を發船すると、東北風を受けて、安南や林邑方面へ吹き附けらるるのが當然であらう。
(c)更にその後二十五年を經て、光仁天皇の寶龜九年(西暦七七八)に遣唐副使小野朝臣石根いはね――この時大使佐伯宿禰今毛人イマエミシは病に罹つて、遂に入唐せなかつた故、石根は名は副使にして實は大使であつた――の一行は、例の如く四艘に分乘して、九月から十一月の間にかけて、揚子江口を發船したが、何れも難船した。中にも石根の搭乘した第一船が、一番の遭難で、石根以下約六十人が溺死した。生存した約百人の者も、やがて乘船が中斷した爲、心ならずも離れ離れになり、艫部に乘つた五十六人は薩摩國甑こしき島郡に、舳部に乘つた四十一人は、肥後國天草郡に漂着して、不思議に生命を全くしたことがある。
此の如き状態であるから、當時支那へ渡航するのは、殆ど命掛けと申しても決して誇張でない。學問の爲とか信仰の爲とか、專心精進の人は格別、御役目で唐へ派遣される人々は、先づ難有迷惑の方であつた。遣唐使出發の際には、例として朝廷で送別の宴を御開きになるが、隨分濕りぽいものであつた。大師の同伴された、遣唐大使の藤原葛野麻呂の爲に開かれた、送別の宴の有樣も、葛野麻呂涕涙如レ雨、侍レ宴群臣無レ不二流涕一と傳へられてゐる(『日本紀略』前篇十三)。遣唐大使の佐伯今毛人や、遣唐副使の小野篁などは、渡航を忌避したと推せらるる形迹がある。暦學や天文を研究すべく、唐に派遣された留學生の中にも、愈※(二の字点、1-2-22)本國發船の際に亡命して身を隱した者がある(『續日本紀』卷八)。
宇多天皇の寛平七年(西暦八九五)に遂に遣唐使を廢止したが、これには唐の衰亂といふ原因もあらうが、遣唐使廢止の發議者たる菅原道眞の主張に、
「臣等伏して舊記を檢するに、度び度びの使等、或は渡海の命に堪えざるもの有り。或は賊に遇て遂に身を亡じる者あり、唯だ未だ唐に到れるを見ず、難阻飢寒之悲あり(『菅家文章』卷九)」。
とあるに據ると、渡海の危險といふことも、その一大原因と認めねばならぬ。要するに大師時代の入唐は非常に危險多く、今日の歐米留學などと同一視すべきものでない。
さて話が本題に立ち歸つて、わが大師の渡海の有樣を申述べよう。最初肥前の田浦出發の時は、當時の慣例として四艘一組となり、同時に帆を揚げたが、間もなく離散した。中にも大師の乘船は、最も困難なる航海を續けたことは、大師の作られた「大使福州觀察使に与ふるがための書」(『性靈集』卷五)に、
賀能啓ス。高山澹黙ナレドモ、禽獣労ヲ告ゲズシテ投リ帰キ、
深水言ハザレドモ、魚龍倦ムコトヲ憚ラズシテ逐ヒ赴ク。
故ニ能ク西羌、険シキニ梯シテ垂衣ノ君ニ貢シ、
南裔、深キニ航シテ刑厝ノ帝ニ献ズ。
誠ニ是レ明ラカニ艱難ノ身ヲ亡ボスコトヲ知レドモ、
然レドモ猶命ヲ徳化ノ遠ク及ブニ忘ルルナリ。
伏シテ惟レバ大唐ノ聖朝、霜露ノ均シキ攸、皇王宜シク宅トスベシ。
明王武ヲ継ギ、聖帝重ネテ興ル。九野ヲ掩頓シ、八紘ヲ牢籠ス。
是ヲ以テ我ガ日本国、常ニ風雨ノ和順ナルヲ見テ定ンデ知リヌ、中国ニ聖有スコトヲ。
巨棆を蒼嶺ニ刳メテ、皇華ヲ丹墀ニ摘ム。蓬莱ノ琛ヲ執リ、崑岳ノ玉ヲ献ズ。
昔ヨリ起テ今ニ迄ルマデ、相続ヒテ絶ヘズ。
故ニ今、我ガ国主、先祖ノ貽謀ヲ顧ミテ今帝ノ徳化ヲ慕フ。
謹ンデ太政官右大弁正三品兼行越前国ノ太守、藤原朝臣賀能等を差シテ、
使ニ充テテ国信別貢等ノ物ヲ奉献ス。
賀能等、身ヲ忘レ命ヲ銜ミ、死ヲ冒シテ海ニ入ル。
既ニ本涯ヲ辞シ、中途ニ及ブ比ニ、暴雨帆ヲ穿チ、戕風柁ヲ折ル。
高波漢ニ沃ギ、短舟裔々タリ。
凱風朝ニ扇ゲバ、肝ヲ耽羅ノ狼心ニ摧ク。北気夕ニ発レバ、胆ヲ留求ノ虎性ニ失フ。
猛風ニ頻蹙シテ、葬ヲ鼈口ニ待ツ。驚汰ニ攅眉シテ、宅ヲ鯨腹ニ占ム。
浪ニ随テ昇沈シ、風ニ任セテ南北ス。
但ダ天水ノ碧色ノミヲ見ル。豈ニ山谷ノ白霧ヲ視ンヤ。
波上ニ掣々タルコト、二月有余。水尽キ人疲レ、海長ク陸遠シ。
虚ヲ飛ブニ翼ヲ脱シ、水ヲ泳グニ鰭ヲ殺ス、何ゾ喩ト為スニ足ラン哉。
僅カニ八月ノ初日ニ、乍チニ雲峯ヲ見テ欣悦極罔ス。
赤子ノ母ヲ得タルニ過ギ、早苗ノ霖ニ遇ヘルニ越エタリ。
賀能等万タビ死波ヲ冒シテ、再ビ生日ヲ見ル。
是レ則チ聖徳ノ致ス所ニシテ、我ガ力ノ能クスル所ニ非ズ。
又大唐ノ日本ニ遇スルコト、八狄雲ノゴトクニ会ヒテ高台ニ膝歩シ、
七戎霧ノゴトクニ合ヒテ魏闕ニ稽顙スト云フト雖モ、而モ我ガ国ノ使ニ於テハ、
殊私曲ゲ成シテ待スルニ上客ヲ以テス。
面リ龍顔ニ対シテ自ラ鸞綸ヲ承ル。佳問栄寵已ニ望ノ外ニ過ギタリ。
夫ノ璅々タル諸蕃ト豈ニ同日ニシテ論ズベケンヤ。
又竹符銅契ハ本姧詐ニ備フ。世淳ク、人質ナルトキハ文契何ゾ用イン。
是ノ故ニ我ガ国淳樸ヨリ已降、常ニ好隣ヲ事トス。
献ズル所ノ信物、印書ヲ用イズ。遣スル所ノ使人、姧偽有ルコト無シ。
其ノ風ヲ相襲イデ今ニ盡クルコト無シ。
加以ズ使乎ノ人ハ必ズ腹心ヲ択ブ。任ズルニ腹心ヲ以テスレバ、何ゾ更ニ契ヲ用イン。
載籍ノ伝フル所、東方ニ国有リ、其ノ人懇直ニシテ礼義ノ郷、
君子ノ国トイフハ蓋シ此ガ為カ。
然ルニ今、州使責ムルニ文書ヲ以テシ、彼ノ腹心ヲ疑フ。
船ノ上ヲ撿括シテ公私ヲ計ヘ数フ。斯レ乃チ、理、法令ニ合ヒ、事、道理ヲ得タリ。
官吏ノ道、実ニ是レ然ルベシ。
然リト雖モ遠人乍チニ到テ途ニ触レテ憂多シ。
海中ノ愁猶胸臆ニ委レリ。徳酒ノ味未ダ心腹ニ飽カズ。
率然タル禁制、手足厝キドコロ無シ。
又建中以往ノ入朝ノ使ノ船ハ、直ニ楊蘇ニ着ヒテ漂蕩ノ苦シミ無シ。
州県ノ諸司、慰労スルコト慇懃ナリ。左右、使ニ任セテ船ノ物ヲ撿ベズ。
今ハ則チ、事、昔ト異ナリ、遇スルコト望ト疎ソカナリ。底下ノ愚人、竊ニ驚恨ヲ懐ク。
伏シテ願ハクハ遠キヲ柔クルノ恵ヲ垂レ、隣ヲ好スルノ義ヲ顧ミテ、
其ノ習俗ヲ縦ニシテ常ノ風ヲ怪マザレ。
然レバ則チ涓々タル百蛮、流水ト与ンジテ舜海ニ朝宗シ、
喁々タル万服、葵藿ト将ンジテ以テ堯日ニ引領セン。
風ニ順フ人ハ甘心シテ逼湊シ、腥キヲ逐フ蟻ハ意ニ悦ンデ駢羅タラン。
今、常習ノ小願ニ任ヘズ。
奉啓不宣。謹ンデ言ス。
とあるにて、その大體を察知することが出來る。耽羅とは今の濟州島のことで、南風の爲に、ここに漂着すると、掠奪に遭はねばならぬ。留求とは今の臺灣のことで、北風の爲に、ここに漂着すると、人喰種族に殺されねばならぬ。この敍述には幾分文章上の修飾誇張があるかも知れぬが、『日本後紀』卷十二の遣唐大使藤原葛野麻呂の復命にも、この時の航海の有樣を述べて、
死生之間出入し、波濤之上に掣曳すること、都スベテ卅四箇日。
とあるのを併せ考へると、當時の困難を略想像することが出來ると思ふ。海上に漂蕩した日數は、一つは卅四箇日といひ、一つは二月有餘とあつて、所傳一致を缺くが、七月六日わが田浦を發し、八月十日に唐の赤岸鎭に着したから、航海日數は正しく卅四日で、二月有餘とあるは、或は一月有餘の誤かも知れぬ。
最新の画像[もっと見る]
- 金剛頂瑜伽中發阿耨多羅三藐三菩提心論 7ヶ月前
- 一日は定光佛・熱田大明神・妙見様・天神と地神の日 2年前
- 万人幸福のしおり 4年前
- 佛説彌勒大成佛經 (全巻書き下し) 4年前
- 四国八十八所の霊験・・・その97 6年前
- 四国八十八所の霊験・・・その92 6年前
- 四国八十八所の霊験・・その89 6年前
- 四国八十八所の霊験・・・その88 6年前
- 四国八十八所の霊験・・・その83 6年前
- 四国八十八所の霊験・・・その76 6年前