福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

昔から国民精神の基盤をなしていた先祖供養・・5

2018-05-20 | 先祖供養
昔から国民精神の基盤をなしていた先祖供養・・5
「日本霊異記には家畜が前世の父母であったりする話が多い。輪廻などという考え方はあまりに非科学的であり今日到底みとめることはできまい。しかし今日例えば親子関係を自明の事実として親子という人間関係とはいかなる人間関係であるかという反省もなく生きつつある我々を思うとき、ここにはわれわれよりもより深い精神の営みが感じられる。われわれにおいてもわが子がわが親を見つめ改めてある人間と人間とが親子と言われて生きている事実を思うとき「縁」ということばが新しくいきかえってくるかもしれない。本居宣長の「今世にあることも、今あればこそ、あやしとは思はね、つらつら思ひめぐらせば、世の中にあらゆること、なにものかはあやしからざる、いひもてゆけば、あやしからぬはなきぞよと(玉勝間)」という言葉も日本人のこの世のこのような生の理解の底辺に流れ続けてきたものを取り出したことばといえよう。このように現実のこの世の生自体が形而上なるものにかかわる営みであった。そこからこの世のなりゆきの生を求めつつもその生の終焉を形より上なるものに帰る、あるひは帰することとして悲しみつつもあきらめに転じてきたのである。形より上なるものとのかかわりにおいて「あきらめ」は可能であったのである.(日本人の心、相良亨)」)


明治35年3月22日、熊楠より土岐法龍あての手紙です。霊魂不滅ということは当然の事と喝破しています。「・・・霊魂の死不死などは題からして間違っておる。神道ごとき麁末なるものにすらアラミタマ、クシミタマなどということがある。神にまた魂魄ある説なり。魂と魄の別などは太古から支那にあったらしい。すでに霊魂といわば不死をのみこんだ下題なり。もし人間の人間たる所以の精(エッセンス)が死か不死かとの説ならんには予は他の動物とかわり不死と答うべし。・・・康熙なりしか乾隆なりしか、支那の帝王にして、天地一大劇場、堯舜は立ち役、桀紂は悪方などいひし人ある。予をもってすれば世界は一大劇場、法律は刑罰場、色事は濡れ事場、議論は相談場、憂苦は阿波の十郎兵衛、殺伐は六段目、謀計は七段目、立志は天河屋の段、短慮は八百屋お七の恋の火桜、これのみ。さたしんだら感相同じ一大柩、悪方もああ苦しく務めた、濡れ事師もつまらぬことに骨折ったがずいぶんうけましたろうかねと、一大愉快を催すこと、虎渓の三笑(晋の高僧彗遠(えおん)は東林寺にいたが、寺の下にある虎渓をまだ渡ったことがなかった。あるときやってきた詩人の陶潜と道士の陸修静を見送って行く道すがら、話が弾み、虎渓を渡ったのも気付かず、虎の吠えるのを聞いてはじめて気がつき、三人顔を見合わせて大笑いしたという逸話)そこのけなり。・・・悪趣下愚の人間、急に浮かばれず、死んでも六道に迷うは芝居が混雑して手拭を落としたるを尋ね周り、役者が楽屋で役割の当不当を論じ、給金や花に葛藤を生ずるほどのことで、まけおしみから今一度やってみたくなり、無理な算段をして今一度櫓をたてかえさんなどいうやつが、再生輪廻を脱せずに馬のあしとなり鬼卒となりまわるようなもの・・」

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