福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

観音霊験記真鈔23/33

2024-04-23 | 諸経

観音霊験記真鈔23/33

西國二十二番摂州総持寺千手像、御身長三尺。

釋して云く、復千手観音經に云く、一切人天常に供養すべし。専ら名号を稱すれば無量の福を得て無量の罪を滅せん。命終して阿弥陀の國に往生せん(千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經「汝等大衆諸菩薩摩訶薩梵釋龍神。皆應恭敬莫生輕慢。一切人天常須供養專稱名號。得無量福滅無量罪。命終往生阿彌陀佛國。佛告阿難。此觀世音菩薩所説神呪眞實不虚」)。

問、観世音の名号を稱して如何が西方に往生するや。

答、西方浄土は凡夫往生とげやすし。故に千手經の最初に、専ら我が本師阿弥陀如来を念ぜよと教誡あり(千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經「至心稱念我之名字。亦應專念我本師阿彌陀如來。然後即當誦此陀羅尼神呪」)。

或は彌陀の名号を称念せず、観音の名号ばかり稱念する衆生皆悉く西方浄土へ往生すべし。其所以は観音常に彌陀界に御座す故に観音信仰の衆生何んぞ他界に往生せん。或は楞伽経に所有法身報身應身及び変化身皆無量壽の極楽界の中より出ず(大乘入楞伽經・偈頌品第十之初「十方諸刹土 衆生菩薩中 所有法報佛 化身及變化 皆從無量壽 極樂界中出」)

不空三蔵の云く、観音彌陀一躰二名。西國二十二番摂州総持寺三尺千手の像は山蔭中納言息男の願主沙門圓仁法師の開基なり(今昔物語にあり

https://yatanavi.org/text/k_konjaku/k_konjaku19-29)。

時に陽成天皇の御宇に(9世紀後半から10世紀前半)越前の守藤原朝臣高房と云人あり。(https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjb7_6OoPqEAxVYcfUHHYwPDzYQFnoECA0QAQ&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E8%2597%25A4%25E5%258E%259F%25E9%25AB%2598%25E6%2588%25BF&usg=AOvVaw0yyecKgSoePgO22zBDsbAp&opi=89978449

淡海公五代の孫なり。其の一男を山蔭の中納言と云ふ。或時父高房鎮西に知人ありて山蔭をつれて下向しけるに、淀の穂積の橋の下(豊中市新穂積橋か)に一人の鵜飼亀を取りて殺さんとするを高房是を買い取りて水中に投げ入れぬ。其日暮れに此山蔭中納言の幼少成るを水中に落し入れたり。父高房悲歎のあまり観音に祈誓して云く、定業亦能轉の方便を以て再び我が子を見せたまはば千手観音の像を造り奉らんと言ひ、思の餘りに舩を漕ぎ戻し都に歸らんとするに忽ち水中より我子山蔭昨日買い取りて放つところの亀の甲に載せて浪の上に浮かぶ。是れ観音の御方便なりと悦び限りなし。殊に身躰恙なく長命なりき。さて父高房卿幾程なくて死去し玉ふ。山蔭幼少の意ながら父の宿願を果さんと思ふよりふし、大神御井と云者(大神巳井 おおみわのみい。平安時代前期の官吏。承和14年(847)唐に滞在していたことが円仁の「入唐求法巡礼行記」にみえる。貞観16年伊予権掾のときにも,香薬購入のため唐につかわされた)遣唐使に至りける。山蔭観音の像を作んが為御衣木(みそぎ。神仏の像を作るのに用いる木材)をもとめに沙金一百両を付けて御井をたなみけるに、御井約諾して其儘渡唐し、さて件の御衣木を尋ぬるに清涼山佛母院と云所に赤栴檀の靈木あり。是を買求め日本に渡さんとす。唐帝是靈木を押へて日本へ渡さず。故に御井件の木に銘を彫りて海になぐる。其の詞に云く、栴檀香木長さ三尺六寸周り四尺八寸、其形四方なり。是日本國越前守護藤原朝臣高房の子息千手観音の像を作りて亡父の宿願を果さん為にあつらゆる所の靈木なり。しるしあらば海を渡り無難其所に至らんと云へり。其後山蔭中納言生長して才能他に超へ朝臣の誉れ世に勝れ元慶五年881七月十二日播磨守に任ず。同六年三月二日彼國に下向しけるに土民来りて云く、此の明石の浦に靈木ありて夜毎に光を放つ。人恐れをなすと告るに、中納言奇特の思ひをなす處に御井程なく皈朝して彼の木の由来を語るに中納言射弥々感じて京に歸り彼の靈木を以て佛像を刻まんと欲し上洛するところに摂州嶌下郡総持(大阪府茨木市総持寺)にあいて人夫休息の為に暫く靈木を下して挙げんとするに挙がらず。中納言怪しみをなして靈木に向ひて云く、若し跡を此處にたれんと思召さば軽く挙らせ玉ふべし。速やかに尊を顕し伽藍を作らせんと思ひ中納言長谷観音に参籠して祈誓するに七日満ずる暁の夢に貴僧御帳の内より出て云く、汝亜善悪をきらふことなかれ、下向の道にて始めに逢たる人を佛師に頼むべしと告げ玉ふ。夢さめて早旦に下向するに門前に十五歳計りの童子あり。髪殊に乱れて衣は肩を綴り其の躰もっとも賤し。然れども霊夢の告げに任せて佛像を造らしむ。已に一日一夜の間だに長さ五寸の十一面観音を造る。今彼の寺の意見(こころみ)の観音是なり。又童子一千日の間別所のこもり居て千手観音の像を造り奉つる。仁和二年886五月十五日の暁空中に聲ありて長谷の観音や在すと三度まで云ければ佛所に答へて云く、ものいひさがなき行基かなと云て佛所を踏み破り南をさして去りぬ。中納言急ぎ佛所を見れば三尺の千手の靈像在す。則ち二菩薩の像も在す。未だ寺を建立せざる間だに中納言又死去せり。生年六十五歳なり。子息七男七女有りけるが皆同心して伽藍を作る。摂州嶌下郡総持是なり。然れば則ち中納言在世のとき、件の佛の跡に観音を移し奉つる。今の洛陽東山吉田今長谷寺是なり。歌に

「をしなべて 長き賤き総善寺 佛の誓頼まぬはなし」

私に云く、歌の上の句少しきこへず。案ずるに「長き」を「高き賤しき」と見てしかるべき歟。但し権者の歌なれば御素意知叵し。任佗(さもあれ)言心は一切衆生煩悩具足の身なりとも、此の御寺に詣すれば都て善人となるほどに早く佛の誓をたのめとなり。佛の誓の事前々委しく挙るが如し。若し學者講談せば四弘誓願を發いて演べし矣。さて総持寺を爰にて総善寺とよめり、或書を見れば一本に総善寺とあり。後学見合すべし。法印智海(12世紀頃天台僧。法印大僧都。比叡山東塔西谷林泉房に住し、大原問答に参加したことが初伝に見える。顕真や永弁と同じ檀那流の流れをくみ、毘沙門堂の明禅とは師弟関係にあった)の歌に

「憂きの身を 捨てぬ誓も待ち侘びぬ 迎の雲に 空たのめすな」(続古今に源具親朝臣の歌とあり)

又式子内親王の歌に

「露の身にむすべる 罪はおほくとも もらさじものを華の臺に」(新後撰(1303)釈教・六七二に式子内親王の歌としてあり)

西國の歌に引き合わすべし。

 

 

 

 

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