法句経「一九」に
「 經文を誦むこと多しと雖も、此を行はざる放逸の人は、他人の牛を數ふる牧者の如く、宗教家の列に入らず。」とありました。頂門の一針です。経典に説かれていることを行うことは勿論、十善戒を護る事すら難しい我が身を反省する事しきりです。しかしよくよく考えると以前に書いたように「お大師様への恩返しをどうするか」などと考えている時は自然と十善戒も護れて善行もできる気がします。神仏を忘れて「我利我利亡者」になっているときはまさに「宗教家」どころか地獄の住人になりさがっている自分を感じますが・・。
「 經文を誦むこと多しと雖も、此を行はざる放逸の人は、他人の牛を數ふる牧者の如く、宗教家の列に入らず。」とありました。頂門の一針です。経典に説かれていることを行うことは勿論、十善戒を護る事すら難しい我が身を反省する事しきりです。しかしよくよく考えると以前に書いたように「お大師様への恩返しをどうするか」などと考えている時は自然と十善戒も護れて善行もできる気がします。神仏を忘れて「我利我利亡者」になっているときはまさに「宗教家」どころか地獄の住人になりさがっている自分を感じますが・・。