妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・39
二には三毒二求。
「衆生被困厄 無量苦逼身 觀音妙智力 能救世間苦」
此の一頌を三毒二求とすることは、一切衆生界内界外の三毒の惑に由て、果報の男女も無く、禅定(女に配す)智慧(男に配す)も無きが故に分段變易の二種生死の困厄を招く。是を「無量の苦、身を逼む」と云なり。
「觀音妙智力」等の二句(觀音妙智力 能救世間苦)は観音の一心三観(一切の存在には実体がないと観想する空観 、それらは仮に現象していると観想する仮観 、この二つも一つであると観想する中観を同時に体得すること)の妙智力に依りて二種世間(界内の世、界外の世)の苦を救ひ玉ふなり。三観の中に空観は見思を断じて界内の苦(分段身)を免れ、假観中観は塵砂無明を断じて界外の苦(變易身の微細生滅)を免る。但し是猶一往の分別なり。實には不思議の中道の空なり。不思議の中道の假なるが故に空観も雙て三惑(見思惑・塵沙惑・無明惑)を破するなり。されども鐵を冶ふるに麁垢は先ず除くが如くにして、見思は初め、塵沙は次、無明は最後に断ぜらるるなり。更に観法の圓ならざるには非ず。
二には次の普門示現を答するを頌するに二つ。初めに正しく示現を頌ずるに、初めには超えて総答を頌す。長行には別答、総答と次第す。故に今先ず総答を頌ずるを超えると云なり。
「具足神通力 廣修智方便 十方諸國土 無刹不現身」
「具足神通力 廣修智方便」とは上の長行の総答は但「以種種遊諸國土度脱衆生」と云ふ。今は先ず普く身を現し説法する因由を出す。其の由何とならば一念三千の妙観(一念の心に三千の諸法を具えることを観ずること)より無量奇特の神通力を以て、種種の身相を現じ、又妙智の方便を以て自在に説法し利益するなり。又解すらく、神通は本来性具(理性に具せり)なるを、廣く一心三観の妙智の方便を修するが故に、性徳を照見して神通を発揮するなり。
「十方諸國土 無刹不現身」とは、利は梵語なり、具には紇差(きしゃ)怛羅、又は差怛羅(さいたら)と云ふ。是則ち梵文の「きしゃいたら梵字」の「きしゃ梵字」字に「しゃ梵字」ある故なり。此には土田とも云。故に土田に例して世界の名とするなり。此の二句(「十方諸國土 無刹不現身」)の意は一念三千の妙観の前には十方も自心の裏(うち)なり。三土(同居、方便、實報)も但一法の性なれば一心一性を離れずして遍く諸國土の一切の機根に應ずるなり。若し秘密趣に約せば上に云ところの六大平等の理を了達し玉へるが故に普く自心中の十方國土に遊化し玉ふなり。
問、前より聞ゆるところの法界も自の身心なりと云こと、頓に解しがたし。請ふ直載に示して痛快ならしめよ。
答、問者の意は、自身と云は唯此の五尺の形骸なり、自心と云は唯我が胸中の方寸の内なりと思はるるが故に疑氷未だ釈(とけ)ざる者なり。今喩を以て明かさん。譬ば一斛容るるほどの嚢あらんに唯米一升を盛って餘の九斗九升をば外に置く時は、唯是一升容の嚢なり。何となれば、本来一斛容の嚢なりと云ことを知らざる故にかくの如くするなり。法界は自心の外なりと云が如し。若し嚢を濶げて容る時は、本来大なる嚢なるが故に始めは外にありつる九斗九升の米、咸く嚢中にあり(法界皆自身なりと見るが如し)。然る時は一升容と一斛容とは嚢の過には非ず。元来大なる嚢なりと云ことを知ると知らざるとにあり。知る者は能く一斛の米を容れて自在なり、知らざる者は一升の米を容れて不自在あんり。今時心地を学ぶと号する者、佛は自己の方寸にありと執して、浄穢二土の報應二佛を蔑し、繪木泥像を棄てて、是佛に非ずと云。大なる謬見邪見なり。哀れなる哉彼が方寸裏の心佛空しく心内の万象を撥無して、法界を容ること克ざることを。
二には追って別答を頌するに三。
「種種諸惡趣 地獄鬼畜生 生老病死苦 以漸悉令滅」
「種種諸惡趣 地獄鬼畜生」とは所應の衆生を挙ぐ。此れに二義あり。此れに二義あり。一には「種種諸惡趣」は総じて三途を指し、地獄・鬼・畜生は別して三途を挙ぐ。
二には「種種諸惡趣」とは九界(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩)なり。佛界に望て皆悪とす。地獄・鬼・畜生とは別して極悪の三途を出す。此の中に「地獄」とは地下に獄あるが故に名く。梵には泥利耶(ないりや)、此には極苦處と云。
「鬼」とは梵に歩多(ほだ)と云をば此には自生と云。是化生(胎生・卵生と違い、自らの過去の業力によって忽然と生まれる)の鬼なり。梵に薜茘多(へいれいた)と云をば、翻じて祖父鬼と云。是胎生の鬼なり。外書に曰、鬼は歸なり、人は死して気に歸るゆえなりと(『列子』天瑞「鬼は帰なり。其の真宅に帰るなり」)。今佛教の意は然らず。鬼神も形相ありといへども多くは其形醜陋なるを以て、人に見せしめんことを欲せず。故に世の愚人は鬼なしと思へり。
「畜生」とは梵には底栗車(ちりじゃ)、此には畜生と云。人間に畜養する牛馬羊豕鶏の六を本とする意なり。されども畜生の名は唯やしなはるる類のみに名けて餘類には其の義遍ねからざるが故に、新譯には改めて傍生と云。傍生とは一には傍行の故に(畜生は多くは臥して行くが故に)。二には其の類多きが故に(多類は正類に簡ぶが故に傍と云)。三には其の性愚痴なるが故なり(愚痴は正智に揀(えらぶ)が故に傍生と云)。
「生老病死苦」等は三界の分段の四苦は知りやすければ注せず。變易身(悲願の力によって肉体や寿命を際限なく自在に変化改易できる菩薩等の生死のことで、三界外における果報の身)の四苦を云はば、即ち是生住異滅の四相なり。始めて變易身を受るは生苦なり。一念の間住するは是住なり(老苦に配す)。第二の念に移るは異なり(病苦に配す)。初念の滅するは滅なり(死苦に配す)。かくの如く九界(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩)三土(事浄土・相浄土・真浄土。事浄土とは凡夫が有漏の浄業によって受用する土、相浄土とは声聞・縁覚および初地以下の菩薩が無漏を習得して受用する土、真浄土とは初地以上の菩薩および諸仏が実証した善根によって受用する土のこと)二種生死(分段生死と変易生死。分段生死は肉体の大小や寿命の長短など一定の際限がある凡夫等の生死のことで、三界内における果報の身とされるのに対して、変易生死とは悲願の力によって肉体や寿命を際限なく自在に変化改易できる菩薩等の生死のこと)は皆四相を離れず。是則諸法を差別する愚痴無明の残て究竟平等の心地を得ざるを以て、究竟じて常住不生不滅なること能はざるなり。若し隔歴(円融の逆、互いにへだてあって、別々のこと)の無明咸盡ぬれば十方三世に於いて毫釐(ごうり)も差別無し。若し三世の別無ければ畢竟常住なり。此に於いて四相(生住異滅や生老病死)遷流の無常悉く亡ずるなり。今観音は已成の古佛として畢竟常住に至り玉ふが故に、又人をして漸漸に三惑(見思惑・塵沙惑・無明惑)を滅し四相を盡さしむ。此の時に二種生死の苦永く盡るなり。
二に意業普く観ずることを頌するに二。初めには本観慈悲を明かす(本観とは三観(空観・仮観・中観)なり、諸観の根本なるが故に)。
「眞觀清淨觀 廣大智慧觀 悲觀及慈觀 常願常瞻仰」
知の禮の記に曰、五の観の字、皆去聲に呼べ(觀音義疏記卷第四(宋四明沙門知禮述)「二眞觀下頌意業普觀二。初一行明本觀慈悲有五。觀字皆去聲呼。」)(已上)。韻會の去聲翰の韻に観古玩の切、観る所なり。已上。みものと訓ず知禮の意は所観の諦境を指すと云義なり。
「眞觀」とは真諦の理を見るが故に真観と云ふ、即ち空観なり。
「清淨觀」とは空観を以て見思の糞穢を除いて其の次に假観を修するが故に見思の汚れなきに約して、清淨觀と云。又一義には、此の三字(清淨觀)に三観を含ぜり。空観は自ら清浄なり。假観は他をして清浄ならしむ。中観は三惑の汚れなくして究竟清浄なり。是故に三観皆清淨觀なり。
「廣大智慧觀」とは即ち中道正観なり。雙遮(非空・非假)雙照(亦空・亦假)して偏りなく待なし(空假ともに泯ずるが故に待對するもの無し)。故に廣大智慧觀と云。
「悲觀及慈觀」とは如上の三観、或は次第に修し、或は不次第に修す。皆慈悲を以て合して観ぜずと云ことなし。何となれば慈悲とは自他平等の心なるが故に、若し自他平等ならざる時は法界一相の中道正観成就せざるが故なり。此の慈悲とは無縁の慈悲なり。謂く縁ずることなくして(空)而も悪愛親疎あることなく平等に縁ずるなり(假)。又三観を以て衆生の苦を抜くは是悲観なり(苦楽平等の實相を照らすが故に能く苦を抜く)。三観を以て衆生に樂を與ふるは是慈観なり(平等観の故に能く苦を即ち樂とす)。
「常願常瞻仰」とは上の如く、菩薩、内には三観を以て真理を推究め、外には慈悲を以て一切衆生を愍み、自利利他の万徳円満し玉ふ。是を以て衆生、常に観音に齋しからんことを願ひ常に彼の徳を膽仰ぐべしとなり。
二には智光普く照らすことを明かす。
上の三観慈悲は因中の誓願なり。今智光普く照らすは果上(修行の結果得られる境地)の物(たみ)を利(すく)ひ機を鑒がみる智なり。
「無垢清淨光 慧日破諸闇 能伏災風火 普明照世間」
「無垢清淨」とは已に三惑の垢染を離れたるが故に無垢清淨なり。
「光」とは無明の暗惑を離れて智光顕照するなり。
「慧日破諸闇」とは上の一句(無垢清淨光)は智光を云、此の句は智慧の日光を以て三惑の暗を破することを云。月は明らかなりといへども一切の闇を破すること能はず。日は能く一切の闇を除く。故に果上の佛慧を日に喩ふるなり。
「能伏災風火」とは三土(事浄土・相浄土・真浄土。事浄土とは凡夫が有漏の浄業によって受用する土、相浄土とは声聞・縁覚および初地以下の菩薩が無漏を習得して受用する土、真浄土とは初地以上の菩薩および諸仏が実証した善根によって受用する土)の生死を以て風水火の三災に喩ふるなり。火災は初禪に至る、同居土(凡夫と聖者がともに同居している土)の分段生死に喩ふ。水災は第二禪に至る、方便土(三賢位(十住・十行・十回向)の菩薩の智慧に応じて感得される土)の變易生死に喩ふ。風災は第三禪に至る、實報土(初地以上の菩薩が、それぞれのさとりの程度に応じて感得する土)の變易生死に喩ふるなり。(大の三災。火災は熱火によって初禅天までを焼失する。水災とは大水害によって第二禅天までを流失。風災とは 大風害により第三禅天までを破壊する。)。然るを今、風火のみを挙げて水を云はざることは何ぞ。初後を挙れば中間は例知すべき故なり。
「普明照世間」とは慧日の用を云なり。能く三土の生死を伏して二種世間の機を照らすなり。二種世間とは、一には界内の有為世(分段生死)。二には界外の無為世(變易生死)なり。
三には口業普く説くことを頌するに、初めには二輪を化の本と為すことを頌す(二輪とは身業・意業の二なり。輪とは衆生の煩悩を摧破する義なり。口輪の説法を頌ずるに先ず身意を明かすことは身なければ口もなし、意なければ説くべき智慧なし。故に此の二業を挙げて、法を授る根本を立るなり。)
「悲體戒雷震 慈意妙大雲 」
「悲體戒雷震」とは説法して衆生を度せんと欲には先ず身相を現ず。此の身は大悲救苦の體なるが故に悲體と云。此の大悲化他の身は諸戒を以て荘厳して威儀厳整なるが故に、世の人をして粛敬はしむること、雷の震ふ時、物を粛(おそれ)しむるが如し。故に「戒雷震」と云。末法今時の我等は戒行疎慢にして身口の二業に過失を顕はれ、意には亦三毒熾盛なれば、起居挙動に其の形を顕すが故に在俗の人の恭敬も無ければ外に其侮を禦ぐこと克(あた)はず。自ら當来三途の苦を招くのみにあらず、又他をして福徳を減少せしめ(自身無徳なれば非福田なるが故に能供養の俗人、當来の福甚だ少なし。)大聖世尊の無量劫に難行苦行して得玉へる妙法を徒に塗炭に墜すこと、是皆出家の破戒無戒にして三業麁糙なるより起れり。佛は正法を久住せしめんが為に戒律を制し玉ふ。末世の僧徒は戒律を捨て、正法の久住をば思はず、唯衣食住を求め名聞を希ふて首を臣妾の履に扣き、膝を僕婕(ぼくしょう)の足に屈めながら而も又人の恭敬を求む。豈是理に乖けるに非ずや。佛法を以て活命の因縁とするのみにあらず、理に乖て名利恭敬を求ること愚痴の至り貪欲の極。誠に慙愧するに餘ある者なり。
復次に自の無戒破戒の非を餝(かざ)らんが為に戒律は小乗なり小行なり取るに足らずと云者、今世街に溢(みて)り。見ずや華厳経には十善戒を三乗の因と説き(大方廣佛華嚴經卷第二十四十地品第二十二之二「禪定三乘樂 皆從十善生」)、大日経の受方便學處品には十善戒を真言行者の通軌とす(「大毘盧遮那成佛神變加持經卷第六受方便學處品第十八」「諦聽金剛手。今善巧修行道を説かん。若し菩薩摩訶薩此に住する者、當に大乘に於いて通達するを得べし。祕密主、菩薩、不奪生命戒を持して應に爲すべからざる所なり。不與取及び欲、邪行、虚誑語、麁惡語、兩舌語、無義語との戒を持し、貪欲、瞋恚、邪見等皆な應に作すべからず。祕密主、如是に修學する所の句は、菩薩、修學する所に随って則ち正覺世尊及び諸菩薩と同行なり。應に如是に學ぶべし」)。梵網経は初頓の別圓(蔵通別圓のうちの別圓。蔵は三蔵教 (小乗の教え)、通は通教 (声聞・縁覚・菩薩に通ずる大乗初門の教え)、別は別教 (菩薩だけに説かれた教え。 空・仮・中の三諦が各別であるような法門)、円は円教 (完全円満な三諦円融の法門)。)の大乗戒なり。瑜伽の菩薩地にも亦大乗の戒を説けり。かくの如く大乗の経論に戒律彌綸(みりん・全体にいきわたる)せり。
然るを前の如く云は此れ大なる愚昧亦大なる謗三宝の罪なり。恐らくは呵鼻の苦報其の脚下に在らんことを。
「慈意妙大雲」とは菩薩は慈を以て意とす。故に慈意と云。無縁にして被らしむ。故に妙と云。一切衆生を覆ふこと譬ば大雲の如し。身輪意輪既に施して後に口輪に説法し玉ふ。故に次の句に「澍甘露法雨」等云ふなり。
二には正しく口輪説法を頌す。
「澍甘露法雨 滅除煩惱焔」
「澍」は韻會の去聲の遇の韻に曰、澍は殊遇の切。説文に時雨澍(そそい)で万物を生ず。已上。
「甘露」とは天上の不老不死の神藥なり。今観音の三十三身乃至無量の諸身を現じて説き玉ふは皆中道の不生不滅の玄理なり。又機は三乗五乗七方便(声聞・縁覚・菩薩を三乗。人間天上声聞 縁覚菩薩 を五乗。七方便とは人・天・声聞・縁覚と蔵教・通教・別教の三種の菩薩)の法と見れども観音の一心三智(一切智・道種智・一切種智の三智を同時に一心に証得すること)の法と見れども観音の一心に三智を以て照らし玉ふ時は、一切の法即ち佛法。亦即ち中道なり。又始めは方便して諸法を説き玉へども後には五乗皆開會して一乗に入玉ふ。此等の義を以て甘露と云ふなり。
「法雨」とは法を説きて人の心を潤すを以て雨に喩ふ。大学に徳身を潤すと云意なり(礼記大學「富は屋を潤し徳は身を潤す」)。慈意の大雲の中より一味を法雨を澍ぐなり。藥艸喩品中の意の如し(薬草喩品第五に「是の諸の衆生、是の法を聞き已って現世安穏にして後に善処に生じ、道を以って楽を受け、亦法を聞くことを得。既に法を聞き已って、諸の障礙を離れ、諸法の中に於いて、力の能うる所に任せて、漸く道に入ることを得。彼の大雲の、一切の卉木叢林、及び諸の薬草に雨るに、其の種性の如く具足して潤いを蒙り、各生長することを得るが如し。」)
「滅除煩悩焔」とは中道の法雨を蒙りて衆生の三惑の燄滅するなり。
復次に上の科を通じて釈せば、(慈意妙大雲の)「慈雲」は慈悲普きなり。(澍甘露法雨の)「注雨」は説法普きなり。燄滅するは利益普きなり。此の三普(慈悲普き・説法普き・利益普き)を以て衆生入佛道の門とす。此の故に此の一頌は別して普門を頌ずるに當れり。
二には加えて顕機を頌ず。
「諍訟經官處 怖畏軍陣中 念彼觀音力 衆怨悉退散」
上の長行の文に瓔珞を施せるを以て、義疏には顕機を明かすとせり。今此の偈の中に至って天臺の釋義冥(はるか)に佛意に契へることを見る者なり。
「諍訟」とは諍は争ふ也。訟は似用の切、説文に、訟は争也。言の公に於ける也。言に从(したが)ひ公に从ふ。周禮の大司徒の註に、罪を争ふを獄と曰ひ、財を争ふを訟と云(韻會許家)。謂く公儀に訴て財寶等を論ずる也。
「經官處」とは官人の訟を断(ことはる)處を經る也。「官處」は今俗に云奉行處なり。
「怖畏軍陣中」とは戦時を云。此の中に軍とは周禮の地官の小司徒に曰、五人を伍と為す(今時の五人組也)、五伍を両と為す(二十五人)、四両を卒と為す(百人)、五卒を旅と為す(五百人)、五旅を師と為す(二千五百人)、五師を軍と為す(一万二千五百人)といへり。天子は六軍(七万五千人)、諸侯は三軍(三万七千五百人)、是周の代の制なり。陣とは古は陳に作る。陳列の義なり。怖畏とは意上の句を兼たり。謂く訟の場に臨むときは、若し我非分に陥らんときは財を奪れ刑に遇ことを恐る。又軍陣に進むときは刀杖弓箭の恐れあり。若し退逃んときは、大将の誅罰を怖る。進退に怖畏なきことあたはず。過去の冤讎、現在の怨敵、一時に會合す。怖畏の切なること此に過ぎたるは無し。
「衆怨悉退散」とは若し観音の神力を念ぜば、訟の怨敵も軍陣の冤も悉く退かんとなり。密經の中に訟庭に臨むに真言を以て藥を加持して含めば相論に勝つことあり。今も其れに似たるものなり。此の訴訟戦陣も、煩悩業苦の三道に約して云べし。皆準知すべし。
三には雙(ならべ)て二観を頌するに二(二観とは長行の中の持名を勧むると、供養を勧むるとの二つを云ふなり)(長行に「若復有人受持觀世音菩薩名號。乃至一時禮拜供養。是二人福正等無異。」とあり)。
初めには受持を勧むることを頌するに二。初めには境智の深妙を明かして以て常念を勧む。
「妙音觀世音 梵音海潮音 勝彼世間音 是故須常念」
三句の中に五の音の字あり(妙音・觀世音・ 梵音・海潮音・世間音)。皆是衆生の称名の音聲なり。観音の妙智を以て觀じ玉ふ時、皆妙境となるなり。謂く三智(一切智、道種智、一切種智)を以て照了するに衆生の言音即ち三諦(空假中)の境と成るなり。
「妙音」とは有空を雙べ遮するなり。是絶言の境なれば妙音と云。有空を雙べ照らすは是「世音」なり。世とは有為世(界内(欲界・色界・無色界の三界の内)の生死即ち有なり)。無為世(界外の生死即ち空なり)の二世間あり。此の二世間は本一理を離れざるが故に、二つ俱に捨つべき法にあらず。二世間別ならずして而も又別異せり。故に「観世音」と云。観の一字は能觀、世音の二字は所觀の二世間なり。此の妙音・観世音の二種は俱に中智の境なり。
「梵音」とは、梵は是四無量心なり(慈悲喜捨の四心は梵天の所修なるが故に)。慈悲喜捨の四心を以て觀ずれば化他なるが故に假智なり。
「海潮音」とは能く俗諦の諸法に稱(かな)って機を照らすに、若しは種(種子を下すなり)若しは熟(修行錬熟するなり)若しは脱(果を得るを云)時節を差(たが)へず、了了に観照するを海潮音と云。此れ大海の潮の時を失はざるに似たるが故に尒(しか)云也。
「勝彼世間音」とは畢竟空の智は九界の情計を出過し、二世間(有為世・無為世)の相に勝れて衆生の言音を観ず。故に勝彼世間音と云。此の一の音の字は空智の境なり。三観(空観・仮観・中観)格別に次第して明かせども觀ずる時は唯一心にあり。又智の外に境なく、境の外に智なし。境智冥一(主観客観一体)にして思慮頓に亡ず。
「是故須常念」とは正しく持念せよと勧るなり。
「是故」とは上を蹈んで下を起こすなり。上の三句(妙音觀世音 梵音海潮音 勝彼世間音)の如きは三智(声聞縁覚の智である一切智、菩薩の智である道種智、仏の智である一切種智。)三諦(すべての存在は空無なものであるとする空諦、すべての事象は因縁によって存在する仮のものとする仮諦 、すべての存在は空でも有でもなく言葉や思慮の対象を超えたものであるとする中諦)最上最妙なり。然るに此の三諦三智は即是三身(法身・報身・応身)なり。謂く中は法身、空は報身、假は應身なり。此の三身の佛は一切衆生の帰すべく念ずべきところなり。此の故に常に念ずべしと云なり。「常念」とは中道の正念なり。諸法を立せず破せず(立は假、破は空)。又能念所念の差別もなし。三諦一時に照らし三観(空観・仮観・中観)一時に亡ず。三観次第ならざれば常と名け、三観偏ならざるを正と云。若しかくの如くして不次不偏なるは即ち中道深廣の大機なり。