本朝高僧傳及び日本霊異記に見る元興寺沙門智光
1,本朝高僧傳・和州元興寺沙門智光傳
「釈智光は河州の人なり。智蔵に従て三論旨を受く。性情純真。普く経論を渉り元興寺に住し空宗を講説す。同寺の頼光、亦智蔵を師とし、俱に令名あり。暮年誓ひて言語を絶し観想を凝らして数年にして卒す。光(智光)歎じて曰く「頼は少年から親友なり、受生は何方の土なるかを知らず」と。追憶輟せず。夢に頼の居に到る。金殿銀楼華臺玉扉、宝樹珍禽、種々勝境なり。乃ち問ふ、「是何の処ぞ」と。頼曰く「極楽界也。予常に憶ふを以て我しばらく能くここに至る。速に帰去すべし」と。光(智光)曰く、「安養界は我願ふ所也。悪帰用邪」。頼曰く「師浄行無し。何ぞ居を得るべきや」と。光(智光)曰く、「公平生の行を顧みるに未だ我を邁る非ず。惟だ近来語らざるのみ。我何の罪焉んや」。頼曰く「我昔普く経論を見るに往生の資糧、観想に加ふる無し。是を以て言語を絶し人事を謝し、四威儀中唯だ彌陀の相好・浄土の荘厳を観じ、今楽邦に生ず。子、身意散乱し浄土に因なし。郤りて我を詰むる邪」。
光(智光)泣きて曰く、「何為れば往生を得べきや」。頼曰く「須らく彌陀に問へ」。光(智光)を引きて佛處に詣ず。荘厳光彩又禮処に邁く。乃ち稽首して佛に白して曰く「何等か是れ往生の正業なるや」と。佛言く「如来の相好及び浄土の荘厳を観ぜよ。是を正業と為す」。光曰く「今此の界を見るに廣博厳飾、心眼及ばず。況や又如来の相好をや。豈そ凡慮の堪ふる所ならんや」。是に於て彌陀即ち金色の右臂を挙げ大光明を放ち掌中に小浄土を現ず。厳飾備足、其の具を見せしむ。既に寤めて畫工に掌中の浄土を圖せしめ、殿を構へて安置し極楽房と号し、以て観想に充つ。後吉祥而て終りぬ。其の畫、現に元興寺にあり。(極楽房は智光・頼光の遺構として今も国宝で残っています。
智光曼荼羅(重文)。
世人争ひて模写す。(智)光、空宗に精し「華玄略述」等の書を著す。嘗って曰く「三論に二あり。一は部別三論、中百十二巻是也。二は義別三論、破邪顕正言教是也。其の義別は一切邪法也。故に之を破す。一切正法也、故に之を顕す。邪正平等法界宛然、是を言教と名く。又曇鸞は義に依り天親菩薩の往生論疏釈五巻を著す。
賛じて曰く、頼光、観想を以て楽國に生じ取る。智光、憶想に因りて能く到る。浄念を回想し遂に弥陀佛を観じ奉り小浄土を見る。昔梁僧濟、夢に無量佛に接し掌に置き遍く十方に到る。是れ皆停観専純、報佛自受用身において感ず。衆人若し能く修想して二光(智光と頼光)の如くんば浄刹に往かざるなし。」
2,日本霊異記巻七
「釋智光は河內國の人,其安宿郡鋤田寺之沙門也。俗姓鋤田連,後に姓を上村主と改む也。母の氏は飛鳥部造也。天年聰明,智惠第一。盂蘭瓫・大般若・心般若等の經疏を製し諸學生の為に,佛教を讀傳す。時に沙彌行基あり,俗姓越史也。越後國頸城郡人也。母は和泉國大鳥郡人,蜂田藥師也。俗を捨て欲を離れ弘法し迷いを化す。器宇聰敏,自然生知。內には菩薩の儀を密め,外には聲聞形を現す。聖武天皇、威德を感ずる故に之を重信す。時人欽貴し菩薩と美稱す。天平十六年甲申冬十一月を以て大僧正に任ず。是に於いて智光法師、嫉妒之心を発して之を非して曰く「吾は是れ智人なり。行基は是れ沙彌なり。何故天皇は吾が智を齒へたまはずして唯だ沙彌を譽て用ひたまふや焉」と。時を恨み罷りて鋤田寺に住む。儵に痢病を得、一月許を經。臨命終時に、弟子を誡めて曰「我死しても焼く莫れ。九日間置て待て。學生我を問はば,之に答へて應に曰へ『東西に有緣,而して留りて供養す』と。慎て他に知らす勿れ」と。弟子教えを受け師の室戶を閉ざし,他に知らしめず。而して竊に涕泣し晝夜闕を護りて唯だ期日を待つ。學生問求すれば遺言の如くに答ふ「留りて供養する也」と。時に閻羅王使二人,光師を來召し西に向ひて往く。之を見るに前路に金樓閣あり。問ふ「是れ何の宮ぞ」。答て曰く「葦原國の名に聞へたる智者よ,何が故に知らざるや。當に知るべし、行基菩薩將來生の宮なり」。其門左右に二神人立つ。身に鉀鎧を著し,額に緋蘰を著す。使長跪して白して曰さく「召也」。問曰「是れ豐葦原水穗國の所謂る智光法師矣」。智光答白「唯だ然り」。即ち北方を指して曰く「此道より將て往け」と。使に副ひて步前するに火を見ず日光に非ずして甚の熱の氣、當に身に当たり面を炙る。極熱にして惱むと雖も心は近就かんと欲す。問「何ぞ是の熱なる」。答「汝を煎ずる為の地獄の熱氣なり」。前に往くに極熱の鐵柱立てり。使ひ曰く「柱を抱け」。光就きて柱を抱けば肉皆銷爛、唯だ骨璅のみ存り。之を歷つこと三日、使、弊箒を以て其柱を撫でて言く「活きよ活きよ」と。故の如く身生きたり。又北を指して將て往く。先に倍勝せる熱銅柱立てり。極熱の柱にして悪に引かれるところにして猶ほ就きて抱んと欲す。言ふ「之を抱け」。即ち就きて之を抱けば,身皆爛銷す。之を逕ること三日、先の如く柱を撫て「活きよ活きよ」と言へば故の如く更に生く。又北を指して往く。甚だ熱き火氣は雲霞の如く空從り飛ぶ鳥は當に熱氣に落ちて之を煎らる。問「是け何の處ぞ」。答「師を煎ずる為の熬阿鼻地獄なり」。即ち至れば師を執へて燒入燒煎す。唯だ打鍾音を聞く時、冷めて乃ち憩ふ。之を逕ること三日、地獄の邊を叩きて言ふ「活きよ活きよ」。本の如く復た生く。更に將て還り來り金宮門に至り先の如く白して言す「之を將て還り來つ」。宮門に在る二人告て言く「師を召す因緣、葦原國に有りて行基菩薩を誹謗す。其罪を滅せんが為の故に請召す耳。彼の菩薩、葦原國を化し已りて將に此宮に生ぜんとす。今し垂來の時の故に待候也。慎て黃竈火物を食ふこと莫れ。古事記の黃泉戶喫あり、日本書紀の飡泉之竈あり。今忽ちに還れ」と。使と俱に東に向ひ還り來たる。即ち之を見れば頃は唯九日をへる。蘇りて弟子を喚ぶ。弟子音を聞き集會して哭喜す。智光大ひに歎きて弟子に向ひ具に閻羅の狀を述ぶ。大ひに懼き大德に言向し誹妒心を舉げしことを念ず。時に行基菩薩、難波に有りて橋を渡し江を堀り船津を造らしむ。光の身、漸く息まり菩薩の所に往く。菩薩之を見、即ち神通を以て光の所念を知る。咲を含みて愛言す「何ぞ面奉つること罕(まれ)なる」。光、發露懺悔して曰く「智光、菩薩の所に誹妒心を致して是の言を作す、『光は古德大僧なり、加以智光生知。行基沙彌は淺識の人にして具戒を受けず。何が故に天皇、唯だ行基を譽め智光を捨つる也』。口業の罪に由り閻羅王、我を召して鐵銅柱を抱しむ。之を經ること九日、誹謗の罪を償ふ。餘罪の後生世に至らむことを恐れ、是を以って慚愧發露し當に免罪を願ふ」。行基大德、和顏嘿然、亦た更に白さく「大德の生處を見るに,黃金を以て造宮せり」。行基之を聞きて言く「歡ばしき矣、貴き哉」。誠に知るべし、口の身を傷るの災門、舌の善を剪るの銛鉞なるを。所以に不思議光菩薩經に云く「饒財菩薩、賢天菩薩の過を説くが故に、九十一劫常に婬女腹中に堕して生じ、生じ已りて之を棄て狐狼の所食と為る」とは其れ斯れを謂ふ矣。此より已來、智光法師、行基菩薩を信じ明かに聖人なるを知る。然るに菩薩、機に感じ縁盡きて天平廿一年己丑春二月二日丁酉時を以て法儀を生馬山に捨て、慈神は彼の金宮に遷る也。智光大德は弘法傳教、化迷趣正、白壁天皇の世を以て,光仁朝(光仁天皇は709年から782年。諱は白壁)、智囊は日本の地を蛻し、奇神の不知の堺に遷矣。」