11月30日 坂東三十三か所札所巡礼結願に向けて、第30番札所高蔵寺と
第33番札所那古寺に巡礼し、無事結願することが出来ました。
木更津駅に10時に集合しました。
前日は気温も低く曇り空だったが、この日は好天に恵まれ、絶好の結願の巡礼日和。
暖かな日差しが白衣を羽織った身体を優しく包み、出発の朝から晴れやか気分である。
坂東三十三か所札所において、結願寺以外唯一まだ巡礼を済ましていない第30番札所高蔵寺に向かった。木更津市の市街地東方約10㌔程を山間に入ると、杉などの巨木にが生い茂る小高い山の上に、高蔵寺「高倉観音」があった。苔むした石段を上り仁王門をくぐると、鐘楼が見え、右手には熊野神社と納経所があり、そして正面には寺院としては珍しい高床式の本堂がある。重層入母屋造りの壮大な堂で、床下を高くとった高床式で、大人が立って歩けるほど高く、戦時中はこの床下が軍馬の厩舎に使われていたと言われている。高蔵寺の寺号もこの特異な構造が理由という。
縁起によれば6世紀後半、用命天皇の時代に徳義上人という僧が、当山に籠って法華経を唱えているとお告げを受け、木の梢に現れた4寸ほどの観音像を村人と共に安置するお堂を建てたのが始まりで、その後、行基が正観音像を刻んで、徳義上人がまつった観音像をその頭部に納めて本尊としたという。その昔このあたりを治めていた猪野長官という人物が、子宝が授かるように願い、生まれた娘が嫁いで生んだ男児が、大化の改新を起こした藤原鎌足で、鎌足はこの寺に堂宇を寄進したと伝わっている。
納経所に御朱印を頂きに行くと、ご住職さんから、もう御開帳は終わっていますが、300円払って本尊の床下を拝観できますよと言われる。本尊の観音像は行基の作と伝わり、クスノキの一本彫で高さは3.9mもあり全国の観音像のなかでも大きな像である。しかし本堂に安置されている厨子を見ても、とても3m以上の仏像が納められる大きさには見えないのだが、床下を拝観してみてその疑問は解ける。床下には「観音浄土巡り」が設けられていて、たくさんの仏像や仏画、民俗信仰等の資料が展示されていた。
その中心に、「ご本尊正観世音菩薩」の表示と御簾がかかった祭壇があり、その祭壇には蓮華座があるが、それは観音菩薩像の足元なのである。つまり3mもある観音様は、本堂の床下から立ち上がっているのである。観音様の下半身は床下にあり、上半身は本堂の床を貫き、高床式本堂の一階に置かれた厨子には、観音様の胸部から頭部にかけてがおさめられていた。近づいて上部を仰ぎ見ると観音様のお姿を間近に見ることができて、大変有難く、堂内の薄暗がりのなかで般若心経、観音経、光明真言を読経すると安らぎに満ちた時が静かに流れていくようでした。熊野神社で般若心経を納経すると、銀杏の落葉が美しい境内を後にした。
そして結願の寺、第33番札所 補陀洛山 那古寺へ。いよいよ結願なのかと身が引き締まる思いで向かう。館山市郊外の小高い丘に那古山があり、その中腹に那古寺は建っていた。参道から登っていく急な石段を上がって境内にでて朱塗りの仁王門をくぐると、左手に鏡楼、右手に阿弥陀堂、多宝塔が並び正面に本堂が見えるが、本堂は南向きに建っていて仁王門からは本堂の側面が見えている。本堂からは眼下に館山湾を一望できる。創建は養老元年。行基が元正天皇の病気平癒を祈願して千手観音を刻んだところ病が癒え、このため、天皇の勅願により堂宇が整えられたという。中世には源頼朝が七堂伽藍を建て、その後も足利尊氏や里見氏の信仰を受け栄えた。本堂はかつて山上にあったが、元禄の地震で倒壊し、現在の寺は享保年間に徳川幕府によって再建された。正面の偏額の「圓通閣」の文字は老中、松平定信の書である。堂内のご本尊の千手観音様は御開帳されており、黒い御身体に千手の手を広げ静かに見守っていらっしゃる。大慈悲の御姿の前で、最後の読経をする。一つ一つのお経の字を読むほどに、ここまで来られ、このようなご縁を結ばせて頂いた事、高原導師さまや先達の方々に導かれたことに感謝の思いがわきあがる。結願寺のゆったりと流れる空間の中で、私は充足感と、心に消えることのない明かりがついた気がして、穏やかな喜びに満たされた。寺を降り駐車場から続く坂道を登って行くと、山上に出る。ここからの眺めが素晴らしい。美しい弓なりの砂丘に、ゆるやかに寄せる白波が穏やかな館山湾は、鏡ケ浦の別名をもっている。時おり日差しを反射して波が鏡のようにきらめくからだ。私たちが昼過ぎに着いたこの時間は、まさにキラキラと輝いていた。まるで待っていてくれたかのようだ。そんな海を見つめていると満願の喜びがこみあげてくる。「補陀洛は よそにはあらじ 那古の寺 岸うつ波を 見るにつけても 」そんな心境を歌った那古寺のご詠歌である。 昔の人々はこの海の向こうに極楽浄土、補陀洛山があると信じてお参りしたそうだ。
私も遠い海の向こうに思いをはせ、美しく光り輝く海をいつまでも見ていたいと思った。そしてこの風景を忘れないだろうと。
駅近くで満願のお祝いの懇親会を楽しくすますと、ゆっくりと遠い家路に着いた。
坂東33か所札所巡礼は無事、結願となり本当に有り難うございました。
第33番札所那古寺に巡礼し、無事結願することが出来ました。
木更津駅に10時に集合しました。
前日は気温も低く曇り空だったが、この日は好天に恵まれ、絶好の結願の巡礼日和。
暖かな日差しが白衣を羽織った身体を優しく包み、出発の朝から晴れやか気分である。
坂東三十三か所札所において、結願寺以外唯一まだ巡礼を済ましていない第30番札所高蔵寺に向かった。木更津市の市街地東方約10㌔程を山間に入ると、杉などの巨木にが生い茂る小高い山の上に、高蔵寺「高倉観音」があった。苔むした石段を上り仁王門をくぐると、鐘楼が見え、右手には熊野神社と納経所があり、そして正面には寺院としては珍しい高床式の本堂がある。重層入母屋造りの壮大な堂で、床下を高くとった高床式で、大人が立って歩けるほど高く、戦時中はこの床下が軍馬の厩舎に使われていたと言われている。高蔵寺の寺号もこの特異な構造が理由という。
縁起によれば6世紀後半、用命天皇の時代に徳義上人という僧が、当山に籠って法華経を唱えているとお告げを受け、木の梢に現れた4寸ほどの観音像を村人と共に安置するお堂を建てたのが始まりで、その後、行基が正観音像を刻んで、徳義上人がまつった観音像をその頭部に納めて本尊としたという。その昔このあたりを治めていた猪野長官という人物が、子宝が授かるように願い、生まれた娘が嫁いで生んだ男児が、大化の改新を起こした藤原鎌足で、鎌足はこの寺に堂宇を寄進したと伝わっている。
納経所に御朱印を頂きに行くと、ご住職さんから、もう御開帳は終わっていますが、300円払って本尊の床下を拝観できますよと言われる。本尊の観音像は行基の作と伝わり、クスノキの一本彫で高さは3.9mもあり全国の観音像のなかでも大きな像である。しかし本堂に安置されている厨子を見ても、とても3m以上の仏像が納められる大きさには見えないのだが、床下を拝観してみてその疑問は解ける。床下には「観音浄土巡り」が設けられていて、たくさんの仏像や仏画、民俗信仰等の資料が展示されていた。
その中心に、「ご本尊正観世音菩薩」の表示と御簾がかかった祭壇があり、その祭壇には蓮華座があるが、それは観音菩薩像の足元なのである。つまり3mもある観音様は、本堂の床下から立ち上がっているのである。観音様の下半身は床下にあり、上半身は本堂の床を貫き、高床式本堂の一階に置かれた厨子には、観音様の胸部から頭部にかけてがおさめられていた。近づいて上部を仰ぎ見ると観音様のお姿を間近に見ることができて、大変有難く、堂内の薄暗がりのなかで般若心経、観音経、光明真言を読経すると安らぎに満ちた時が静かに流れていくようでした。熊野神社で般若心経を納経すると、銀杏の落葉が美しい境内を後にした。
そして結願の寺、第33番札所 補陀洛山 那古寺へ。いよいよ結願なのかと身が引き締まる思いで向かう。館山市郊外の小高い丘に那古山があり、その中腹に那古寺は建っていた。参道から登っていく急な石段を上がって境内にでて朱塗りの仁王門をくぐると、左手に鏡楼、右手に阿弥陀堂、多宝塔が並び正面に本堂が見えるが、本堂は南向きに建っていて仁王門からは本堂の側面が見えている。本堂からは眼下に館山湾を一望できる。創建は養老元年。行基が元正天皇の病気平癒を祈願して千手観音を刻んだところ病が癒え、このため、天皇の勅願により堂宇が整えられたという。中世には源頼朝が七堂伽藍を建て、その後も足利尊氏や里見氏の信仰を受け栄えた。本堂はかつて山上にあったが、元禄の地震で倒壊し、現在の寺は享保年間に徳川幕府によって再建された。正面の偏額の「圓通閣」の文字は老中、松平定信の書である。堂内のご本尊の千手観音様は御開帳されており、黒い御身体に千手の手を広げ静かに見守っていらっしゃる。大慈悲の御姿の前で、最後の読経をする。一つ一つのお経の字を読むほどに、ここまで来られ、このようなご縁を結ばせて頂いた事、高原導師さまや先達の方々に導かれたことに感謝の思いがわきあがる。結願寺のゆったりと流れる空間の中で、私は充足感と、心に消えることのない明かりがついた気がして、穏やかな喜びに満たされた。寺を降り駐車場から続く坂道を登って行くと、山上に出る。ここからの眺めが素晴らしい。美しい弓なりの砂丘に、ゆるやかに寄せる白波が穏やかな館山湾は、鏡ケ浦の別名をもっている。時おり日差しを反射して波が鏡のようにきらめくからだ。私たちが昼過ぎに着いたこの時間は、まさにキラキラと輝いていた。まるで待っていてくれたかのようだ。そんな海を見つめていると満願の喜びがこみあげてくる。「補陀洛は よそにはあらじ 那古の寺 岸うつ波を 見るにつけても 」そんな心境を歌った那古寺のご詠歌である。 昔の人々はこの海の向こうに極楽浄土、補陀洛山があると信じてお参りしたそうだ。
私も遠い海の向こうに思いをはせ、美しく光り輝く海をいつまでも見ていたいと思った。そしてこの風景を忘れないだろうと。
駅近くで満願のお祝いの懇親会を楽しくすますと、ゆっくりと遠い家路に着いた。
坂東33か所札所巡礼は無事、結願となり本当に有り難うございました。