福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

東洋文化史における仏教の地位(高楠順次郎)・・その2

2020-09-07 | 法話
然らばほんとうの文明とは何か、それは相互扶助の世界である、力の世界ではなく、愛の世界を築き上げるということが人間の目的であり文明の目的である。ほんとうの文明は相互扶助の方面に起こらなければならぬ、生存競争では本当の文明というものは築き上げることが出来ないものであるというようにインド人は考える。また文明は都会生活から興るというのでありますが、論より証據でインドには都会というものはない、われわれの意味での都会というものはヨーロッパの人が来て作っているといってよいのであります。殆ど村落が少し増したというのがインドの都会である。インドでは村落のみであるとすると、インドには到底文明は出来ないことになる。而してまた村落よりもう一層淋しい山林生活がインドの理想となっているのであります。哲学も山林の中より生まれ、宗教は無論のこと、教育も音楽もすべてのことが、われわれが見て文明の要素と考えられるようなものはことごとく山林生活の中から出て来ている、インドの理想は山の中にあるといってもよいので、仙人生活がインド人の理想である。山林生活からインドの文明は出ているのに、ヨーロッパの文明は都会生活から来ている。インド人の考えで、都会生活とは何だ、罪悪の巣窟ではないか、人間は都会生活の結果としていよいよ悪くなって行くというのでありますから、考えがまるで違っているのであります。
 またヨーロッパの人の考えから申しますると、文明というものは人間が自然を征服することから起こる、人間がだんだんに自然の範囲を征服して行ってその上に文明が起こるのであるが、インド人から考えるとこれは大まちがいで、自然を征服するということは生存競争の範囲を拡げたということだけの話で、地上にあるすべての強き動物をことごとく人間が征服し得ればそれは人間の世界だけは拡がるだろうが、それは決してほんとうの文明ではない、ほんとうの文明は自然を征服するのではなくて自然に同化するということである、そういうのでありますからヨーロッパでもって文明の起原として考えられているものはインド人はことごとく否認する、(確かに、アフリカのサバンナはもとは熱帯雨林だったのをヨーロッパ人が牛や羊を持ち込んで下草を食べさせて壊したとされます。またギリシャ文・ローマ文明やイラン・イラクも都市化や牧畜によりに森を失って滅び、スペインやイギリスも軍艦用に木を切りすぎて海軍力が傾いたとされます。)否認するということは敢て理屈を拵えていうのじゃなくて、自然にそう考えているというより他にないのである、そういう風の調子でまるで考えが違っているのであります。その理想をまずもって了解しなくって、それでインドに臨んでいるというのがヨーロッパのインドに対する態度で、たいていの国ならば国が奪われ財力が奪われ武力もなくなってしまうというようになればもう精神までも失ってしまうのである。経済の力がすっかり奪われてしまったならばたいていの国の民族は亡びたといってよいようになる。
 しかしインドは決してそうではない。どんなに国が奪われても財力が奪われても、われわれのあらゆるものを奪い取ってもわれわれの精神を奪い取ることは出来ないであろう。武力で抵抗することができなければ無抵抗の抵抗で行く、抵抗はしないがわれわれは満足しないということは十分に表現しているというふうに、今ガンジーがやっているようなぐあいのやり方をインド人は正当防禦の方法として考えているのであります。そればかりでなく、終にあらゆるものを奪われてインドは貧乏な乞食の国になってしまったが、自分たちは乞食の生活をしておっても決してわれわれの理想の一部分も失うことはしないと信じている。事実インドの乞食の中には立派な哲学者もいるのであります
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