先日、臓器移植を受けた方から「仏教では臓器移植反対なのか?」という質問を受けました。
結論は、「様々な立場がありますが私は賛成です。日々殺生を重ねて生きてきているわれわれ、しかも当事者でもないものが論評すべきことではないからです。」ということです。
1、 本来仏教では究極の布施行として、「捨身」が説かれてきました。「法華経・薬王菩薩普門品」では喜見菩薩が、仏の供養のために身を焼きます。「金光明経」には薩埵太子が飢えた虎の為に捨身する説話があります。「涅槃経」には雪山童子が「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」の偈を聞くために羅刹に捨身します。「六度集經」では兎が道士を供養するために焚身します。此のウサギが月のウサギとなったというのです。
また臓器移植そのものに近い話としては、「雑宝蔵経」に、鬼が洞窟で隠れていた旅人を見つけて担いできた死体の頭・手足・胴体をすべて旅人のものと取り換えたので旅人は自分は死体なのか自分なのかわからなくなった、という話があります。これなどまさに俺が俺がという自我や自分の体など本来ないのだ、ということを端的に示しています。
結論は、「様々な立場がありますが私は賛成です。日々殺生を重ねて生きてきているわれわれ、しかも当事者でもないものが論評すべきことではないからです。」ということです。
1、 本来仏教では究極の布施行として、「捨身」が説かれてきました。「法華経・薬王菩薩普門品」では喜見菩薩が、仏の供養のために身を焼きます。「金光明経」には薩埵太子が飢えた虎の為に捨身する説話があります。「涅槃経」には雪山童子が「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」の偈を聞くために羅刹に捨身します。「六度集經」では兎が道士を供養するために焚身します。此のウサギが月のウサギとなったというのです。
また臓器移植そのものに近い話としては、「雑宝蔵経」に、鬼が洞窟で隠れていた旅人を見つけて担いできた死体の頭・手足・胴体をすべて旅人のものと取り換えたので旅人は自分は死体なのか自分なのかわからなくなった、という話があります。これなどまさに俺が俺がという自我や自分の体など本来ないのだ、ということを端的に示しています。