福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

天皇陛下ご出家の例

2020-11-12 | 法話

 

 

天皇陛下ご出家の例

 

以下、花山信勝「日本仏教」をもとに調査。

・第四十代天武天皇(日本書紀(天智天皇即位十年671十月)「庚辰(17日)天皇の疾病彌よ留る。勅して東宮(大海人皇子・天武天皇の皇太子時代)を喚び臥內に引入し詔して曰く『朕の疾ひ甚だし、以後の事を汝に屬す云々』。是に於いて再拜し疾と称して固辭し受けずして曰く『請ひ奉る、洪業を大后(倭姫王=天智天皇の妻で舒明天皇の娘)に付屬し、大友王をして諸政を奉宣せしめよ。臣は請願し奉る、天皇の為に出家修道せん』。天皇許焉」)

・第四十三代元明天皇(本朝皇胤紹運録に「養老五年五月落飾、同十二月四日崩」)

・第四十五代聖武天皇(扶桑略記「(天平二十一年一月十四日)平城中島宮に於いて、大僧正行基を請して、其の戒師と為し、太上天皇〈聖武〉菩薩戒を受け、勝満と名く。中宮〈宮子〉受戒し、徳太と名づく。皇后〈光明子〉受戒し、万福と名づく。即日、大僧正を改め、名づけて大菩薩という。」)

・第四十六代孝謙天皇(續日本紀巻二十四に「天平寳字六年762六月庚戌(3日)・・又一には朕菩提心發すべき縁に應るらしとなも念す、是を以って出家し佛弟子と成りぬ」)

・第五十一代平城天皇(薬子の変で大同五年九月十二日平城京に戻り剃髮して御出家。薬子は服毒自害)

・第五十三代淳和天皇(本朝皇胤紹運録に「承和七年崩。五十五。先御出家。遺詔に依り火葬」)

・第五十四代仁明天皇(本朝皇胤紹運録に「嘉祥三年(850)三月十九日、落飾。同二十一日清涼殿に崩ず」)

・第五十六代清和天皇(「天皇御宇十八年、位を皇太子に譲る。元慶三年879五月八日に至り、落飾入道す、法号を素真と称す」(慈覚大師伝))

・第五十七代陽成天皇(本朝皇胤紹運録に「天暦三年(949)九月二十一日出家。同二十九日崩。」)

・第五十九代宇多天皇(「遊義門院(=皇后)隠れまして、御歎きの余りにや、(昌泰二年(899年)十月二十四日)出家せさせ給ふ。前の大僧正禅助を御師として、宇多・円融の例により、東寺にて灌頂せさせ給ふ。(神皇正統記)」。「昌泰三年己末十月十四日、出家せさせたまふ。御名、金剛覚と申しき。承平元年七月十九日、うせさせたまひぬ。(大鏡)。」「「本朝皇胤紹運録」に「昌泰三年十月十四日出家。三十三。法諱空理。御灌頂の時、之を金剛覚と改む。御戒師益信僧都」)」

・第六十代醍醐天皇(延長八年(930)九月「二十九日御出家。座主尊意為御戒師。法諱金剛宝」「九月二十九日太政天皇、尊意を戒師として出家。ついで右近衛府大将曹司において崩御(大日本史)」

・第六十一代朱雀天皇(「本朝皇胤紹運録」に「天暦六年(952)三月十四日出家。法名仏陀寿」)

・第六十二代村上天皇(「本朝皇胤紹運録」に「康保四年五月二十五日清涼殿に於いて崩。四十二.先に御落飾。法名覚貞」)

・第六十四代円融天皇(寛和元 ( 985)年 八月二十九 日、円融法皇は寛朝を戒師として出家。「金剛法」となられる。「日本紀略」)

・第六十五代花山天皇(「寛和二年986丙戌六月二十二日の夜、あさましくさぶらひしことは、人にも知らせさせたまはで、みそかに花山寺におはしまして、御出家入道せさせたまへりしこそ。御年十九。」(大鏡)。「本朝皇胤紹運録」に「寛和二年986丙戌六月二十二日、偸に禁中を出て花山に向ひ、出家。十九.法諱入覚」)

・第六十六代一条天皇(寛弘八年(1011年)六月十九日に御出家。栄花物語に「一条院御髪おろさせ給はんとて宮に聞へさせ給ひける。『露のみの かりのやどりに 君を置きて 家をいでぬることぞかなしき』」「本朝皇胤紹運録」に「寛弘八年(1011年)六月十九日出家。法名精進覚。」)

・第六十七代三条天皇(「本朝皇胤紹運録」に「寛仁元年(1017)四月二十九日出家、法名金剛浄。)

・第六十八代後一条天皇(万寿三年(1026).正.十九日御出家、法名清浄覚)

・第六十九代後朱雀天皇(「本朝皇胤紹運録」に「寛徳二年(1045)正月月十八日出家、法名精進行)

・第七十一代後三条天皇(「本朝皇胤紹運録」に「延久五年1073四月出家、法名金剛行」)

・第七十二代白河天皇(「本朝皇胤紹運録」に「嘉保三年八月十日、御落飾。四十四.(皇女)郁芳門院崩に依る也。法号融覚」)

・第七十四代鳥羽天皇(「本朝皇胤紹運録」に「保延七年三月三日出家。三十九.法名空覚。康治元年五月五日東大寺に於いて受戒」)

・第七十五代崇徳天皇(「本朝皇胤紹運録」に「保元二年1157七月十二日出家、二十三日讃州国に移坐)。

・第七十七代後白河天皇(「本朝皇胤紹運録」に「嘉応元年六月十日出家、四十三.法諱行真。御戒師覚忠大僧正。承安二年一身阿闍梨と為る。文治三年八月二十三日天王寺に於いて灌頂。六十一。大阿闍梨公顕僧正。」)

・第七十八代二条天皇(「本朝皇胤紹運録」に「仁平元年十月四日覚性法新皇の弟子と為る。九(歳)。」とあり幼いころは仁和寺の覚性法親王

の弟子で僧侶の修行中であられた。)

・第八十二代後鳥羽天皇(「本朝皇胤紹運録」に「承久三年1221七月八日天下の事により出家、法名良然。十三日関東の沙汰の為、隠岐國へ移し奉る」。)

・第八十三代土御門天皇(寛喜三年(1231)十月御出家。法名正等観)

・第八十八代後嵯峨天皇(「本朝皇胤紹運録」に「文永五年(1268)十月五日御出家。四十九。法諱素覚」)

・第八十九代後深草天皇(「本朝皇胤紹運録」等に「正応三年(1288)二月十一日御出家。四十八。法名素実」)

・第九十代亀山天皇(「本朝皇胤紹運録」に「正応二年(1289)九月七日御出家。四十一。法名金剛源。御戒師大僧正了遍。」)

・第九十一代後宇多天皇(「本朝皇胤紹運録」に「徳治二年(1307)七月二十六日、(仁和寺の禅助を戒師とし、亀山殿の寿量院で)御出家。四十一。御法名金剛性。十一月二十一日東大寺に於いて受戒。」)

・第九十二代伏見天皇(「本朝皇胤紹運録」に「正和二年(1313)十月十日御出家。四十九。法名素融。御戒師大僧正公什」)

・第九十三代後伏見天皇(「本朝皇胤紹運録」に「元弘三年(1333)六月二十六日、御落飾。法名理覚。御戒師座主慈道法新皇。」)

・第九十五代花園天皇(「本朝皇胤紹運録」に「建武二年(1335)十一月二十二日、御落飾。三十九。法諱遍 行。御戒師慧鎮上人。」)

・北朝初代光厳天皇。(「本朝皇胤紹運録」に「観応三年八月八日河州行宮に於いて御落飾、法諱は勝光智。御戒師西大寺元輝上人。延文元年河州離宮に於いて由良覚明和尚より禅衣を著られ奉る。この時御諱上は勝字を之止めらる。」)

・北朝二代光明天皇。(「本朝皇胤紹運録」に「観応二年十二月二十八日俄かに御落飾。三十一。法諱真常恵。御戒師泉涌寺了寂上人。」)

・第九十八代(北朝三代)崇光天皇(「本朝皇胤紹運録」に「明徳三年十一月晦、御落飾。法諱勝圓心」)

 

・第九十八代南朝・長慶天皇(応永元年(1394)八月一日薨去。その前に御出家,法名金剛理)

・第九十九代後亀山天皇(応永四年(1397)十一月二十七日尊号および兵仗を辞退し、その後御出家、法名金剛心)

・北朝五代・後円融天皇(「本朝皇胤紹運録」に「永徳二年四月二十八日、崩。三十六。御閉の後、御落飾。法諱光浄。御戒師泉涌寺竹岩和尚。」)

・第百代後小松天皇(「本朝皇胤紹運録」に「永享三年(1431)三月二十四日 御出家。法名素行智。御戒師永助法新皇。」)

・第百一代称光天皇(「本朝皇胤紹運録」に「法諱大宝寿」)

・第百二代後花園天皇(「本朝皇胤紹運録」に「応仁元年1467、九月廿日、俄かに手を御本鳥と切られ給ひ御出家。法諱圓満智。御戒師増運僧正。」)

 

・第百四代後土御門天皇(「本朝皇胤紹運録」に「文明十一年七月一日北広路殿焼亡。俄かに聖壽寺に臨幸し白雲と號す。供養儀式なし。乱後也。(法名正等観)」

・第百八代後水尾天皇(「本朝皇胤紹運録」に「慶安四年1651五月六日御落飾。法諱圓浄。御戒師相国寺慈照院中悼和尚。」)

・第百十二代霊元天皇(「本朝皇胤紹運録」に「正徳三年(1713)八月十六日御落飾。六十歳。法諱素浄。御戒師梶井道仁法新皇。」)。

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