福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

修験宗旨書等・・・20

2017-12-20 | 諸経
修験宗旨書等・・・20
臥字二字第二十(「やまぶし」には山伏(入峰の者)・山臥(未修行の者)の二種の字がある)夫れ、當道の名字につき、山伏・山臥の二義あり。初めに山臥とは秘記にいわく、山とは母胎八部の肉団、本有八葉の心蓮なり。臥とは彼の自性本分の心蓮、不苦不楽無相本分の所なり。この位は父母未生以前本覚無作の真理にして生佛の仮名を絶し、迷悟の二法を亡ず、実に是一心不生盡思絶慮の極位なり。然れば則ち性徳心蓮の内証を顕す為に、之を呼んで山臥と名く。名詮自性は唯是その謂なり。既に法爾無作の位なり、故に是を本有の山臥と名く。或は本覚の山臥と号す。古徳の釈にいわく、本覚の如来は八分の肉団に住み、恒沙の諸仏は自性の心蓮に列す。これを思うべし。裏書にいわく、この二字は未修行の山臥これを用ふ、本覚無作の前には権門有相の方便を亡ず。なんぞ有相随化の修行を経るべきやと。
次に山伏とは、秘記にいわく、但しこの二字とは、我等胎内八分の肉団を出て、金胎両部の霊峰に入り、断惑証理の修行を経て始めて内証心蓮の本徳を開く、ゆえにこの位を修生の山伏と名け、或は始覚山伏と謂う。甲蔵上人の伝にいわく、法性真如の山に入り無明煩悩の敵を降伏す、ゆえに山伏と名く、と。裏書にいわく、この二字は始覚修行の位なるゆえに入峰の山伏これを用うと。
右、臥・伏二字の大事、當道深奥の所談也。たとえ深智練磨の行人なりとも入峰の輩に非ずんば敢えてこれを示すべからず。
秘記にいわく、「山」とは三身(法・報・応)即一の義、「伏」とは無明法性不二の義なり。無明は法性より生ず、もし法性有りて無明なければ色法顕るべからず。若し無明有りて法性なければ心法現るべからず。故に無明即法性、法性即無明と説き、三身即一身、一身即三身(仏の体には法・報・応いずれも備わっている)と談ず。是山伏の名義なり。凡そ當道の意は能詮の名言まったく所詮の法体なり(説法の言葉は説法される真理と同じ)。まさに知るべし能所不二の内証、名実即実体の極位なり。宗義は則ち万徳を山伏の二字に接し、勝利は則ち十界行者の一身に帰す。行住坐臥の挙動、無作三身の妙用、粗言軟語(荒い言葉、やさしい言葉)の作業は法爾恒説の法楽也。三業天運に任せ、四儀菩提を護る、然れば則ち成仏を求めずして成仏を顕し、凡身を改めずして覚位を証す。皇(おおいなる)かな、顕密二教の大蔵は修験一道の眼目なり。・・・


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