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8番熊谷寺は7番から4kmくらい歩きます。1回目は9月末とはいえ暑くて喉もからからでした。道端の果物屋に入ったところ女将さんらしき人が「うちはお遍路さんにお接待して納札を集めています」といい、ぶどうを5房もビニール袋に入れてくださいました。壁をみると何百枚もの納札が所狭しと張ってあります。なかには金や赤の納札もあります。(普通の納札は白色ですが、巡拝の回を重ねると色のついた納札を使います。5回目からは緑、8回になると赤、25回から銀、50回から金、そして100回になると錦の納札を用います。)私もこれらのきらきらしい納札の比べて見劣りすると思いながら白の納札をおずおずとだしてお礼を言いました。19年の2回目のときはなぜか閉まっていました。お礼を言えず残念でした。
8番熊谷寺の寺伝によれば、弘法大師がこの地のやや奥に当る閼伽ケ谷という所で修行されているとき、紀州の熊野権現があらわれ、観世音菩薩の尊像を感得され、大師は霊木に等身大の千手観世音を刻まれ、仏舎利百二十粒とともに金像の本尊を胸に納め、堂宇を建立して安置されたとされます。本堂は昭和45年再建だそうです。四国遍路日記には「本尊千手観音、春日明神の御作と伝う、像形四十二臂の上にまた千手あり、普通の像に相違せり、寺繁盛の時は仏前にて法花の千部を読誦してその上に開帳しけるとなり、近年は衰微して毎年開帳する也と住持の僧開帳せらる、之を拝す、内陣に大師の御宸筆の額あり、熊谷寺と在り、誠に裏は朽ちたり、二王門あり、二王はこれも大師の作なり」と在ります。御本尊は拝したことはありませんが特異なお姿のようです。
さきの四国霊験記には8番のご本尊千手観音を信仰していた地元の貧しい男が旅の僧から何連もの高価な天然菩提樹の数珠を入手し資産家になるという話があります。
「是ハ誠に不思議千万女房その御荷物を持ち参れと、夫婦が荷物を改め見んと蓋取りあくればうやうやしく錦の袋に入れたる品物、是ハと袋をひらバ結構なる御数珠也。其の中に書き付けあり。其の文に曰く、この数珠は真の天竺菩提樹なるぞ、是を汝に与えるからこの品持参し早く高野へ登山して奥の院の宝殿にて出家にその数珠を施すべし、その時汝必ず福を得て大こんきりを転変して大富貴と成るべし、と読み終われば不思議なるかな今迄見へしその文字ハ忽消えて大師の御影なり。コハ勿体なや尊とやと互いに顔を見合して惘(あきれ)て詞もなかりける。
親祖女房に打ち向かい我等が貧苦を憐れみ玉ふ大師の御慈悲、霊験頂く時節当来直様明日仕度を致し十九日の午の刻高野山へと出立す。中を飛んで急ぎ行き早高野山奥の院大師の御前に合掌して大師の宝号一心に唱えてうしろの方見れハ数多の御僧おわしまします。一番上座の御前に向かい、恐れながら御上人へ申し上ます。私しともハ阿州板の郡第八番の札所熊谷寺地下の住人薪守正右エ門と申す者で在ますが甚だ以って失敬の義とハ存し候得どもこの数珠を何方様方へ御献上仕り度候間何卒御受納なし玉へバ難有仕合成りと、頭を下げてさしいだせば、一老直ぐに手に取り玉ひ暫く御覧遊ばされ、ハテめずらしや是ハ真の天竺菩提樹、是がどうして御前達の手に入りしと尋に、正右エ門一十始終の不思議を語れバ僧正はじめ数多の院家互いに是ハ奇妙な事と申されけれバ再び上人尋玉ひ、シテその数珠ハ一連成るかと仰せに親祖は錦を取出し、御上人様この如く有りますと錦ひらけバ二拾連皆同じ菩提の数珠。上人御思案なし玉ひ、先其の人を本坊へと御弟子達に申し付け、上人修事を行い玉を、是より直に正右エ門を引き連れて御本坊へと伴いける。
然る所に只今高野一山にハ天竺菩提が無き故に皆こんもうのをりから成れバ上分方の院家方めいめいに籤どり成られ御談合のその上にて数珠分取して値段を極め数珠一連を金廿両と定められ都合四百二拾両。この金を集めて正右エ門に申されけるハ、この金子ハ数珠の代、道中の入用として持参せよ、 かかる所に正右エ門は高野山より熊野へ参り廿日あまりに帰りける。この時内儀ハ高野山より大金の参りし事から書面の義万事残らず演けれバ正右エ門感じ入り、女房喜べ是即大師様の御方便の大神道。大貧家の吾々にこの大金を与え玉をハ真言不思議の御利生也、と二人ハ喜び合掌して大師の宝号唱えける。是より尚々善心強くなり高野下向の悦びとして村中残らず馳走して招き、四国遍路の宿致し、熊谷寺の本堂に於て三日の間大施行。大師堂にて護摩供養。また本堂と大師堂へ金百両ツ々寄附致して残りし金にて田畑求め、是より毎年四国の霊所へ偏礼する事七ヶ年、その春より我田地ハよそとは違ひ大豊年。大金の納まる事奇妙と云うも愚かなり。」とあります。
8番熊谷寺の寺伝によれば、弘法大師がこの地のやや奥に当る閼伽ケ谷という所で修行されているとき、紀州の熊野権現があらわれ、観世音菩薩の尊像を感得され、大師は霊木に等身大の千手観世音を刻まれ、仏舎利百二十粒とともに金像の本尊を胸に納め、堂宇を建立して安置されたとされます。本堂は昭和45年再建だそうです。四国遍路日記には「本尊千手観音、春日明神の御作と伝う、像形四十二臂の上にまた千手あり、普通の像に相違せり、寺繁盛の時は仏前にて法花の千部を読誦してその上に開帳しけるとなり、近年は衰微して毎年開帳する也と住持の僧開帳せらる、之を拝す、内陣に大師の御宸筆の額あり、熊谷寺と在り、誠に裏は朽ちたり、二王門あり、二王はこれも大師の作なり」と在ります。御本尊は拝したことはありませんが特異なお姿のようです。
さきの四国霊験記には8番のご本尊千手観音を信仰していた地元の貧しい男が旅の僧から何連もの高価な天然菩提樹の数珠を入手し資産家になるという話があります。
「是ハ誠に不思議千万女房その御荷物を持ち参れと、夫婦が荷物を改め見んと蓋取りあくればうやうやしく錦の袋に入れたる品物、是ハと袋をひらバ結構なる御数珠也。其の中に書き付けあり。其の文に曰く、この数珠は真の天竺菩提樹なるぞ、是を汝に与えるからこの品持参し早く高野へ登山して奥の院の宝殿にて出家にその数珠を施すべし、その時汝必ず福を得て大こんきりを転変して大富貴と成るべし、と読み終われば不思議なるかな今迄見へしその文字ハ忽消えて大師の御影なり。コハ勿体なや尊とやと互いに顔を見合して惘(あきれ)て詞もなかりける。
親祖女房に打ち向かい我等が貧苦を憐れみ玉ふ大師の御慈悲、霊験頂く時節当来直様明日仕度を致し十九日の午の刻高野山へと出立す。中を飛んで急ぎ行き早高野山奥の院大師の御前に合掌して大師の宝号一心に唱えてうしろの方見れハ数多の御僧おわしまします。一番上座の御前に向かい、恐れながら御上人へ申し上ます。私しともハ阿州板の郡第八番の札所熊谷寺地下の住人薪守正右エ門と申す者で在ますが甚だ以って失敬の義とハ存し候得どもこの数珠を何方様方へ御献上仕り度候間何卒御受納なし玉へバ難有仕合成りと、頭を下げてさしいだせば、一老直ぐに手に取り玉ひ暫く御覧遊ばされ、ハテめずらしや是ハ真の天竺菩提樹、是がどうして御前達の手に入りしと尋に、正右エ門一十始終の不思議を語れバ僧正はじめ数多の院家互いに是ハ奇妙な事と申されけれバ再び上人尋玉ひ、シテその数珠ハ一連成るかと仰せに親祖は錦を取出し、御上人様この如く有りますと錦ひらけバ二拾連皆同じ菩提の数珠。上人御思案なし玉ひ、先其の人を本坊へと御弟子達に申し付け、上人修事を行い玉を、是より直に正右エ門を引き連れて御本坊へと伴いける。
然る所に只今高野一山にハ天竺菩提が無き故に皆こんもうのをりから成れバ上分方の院家方めいめいに籤どり成られ御談合のその上にて数珠分取して値段を極め数珠一連を金廿両と定められ都合四百二拾両。この金を集めて正右エ門に申されけるハ、この金子ハ数珠の代、道中の入用として持参せよ、 かかる所に正右エ門は高野山より熊野へ参り廿日あまりに帰りける。この時内儀ハ高野山より大金の参りし事から書面の義万事残らず演けれバ正右エ門感じ入り、女房喜べ是即大師様の御方便の大神道。大貧家の吾々にこの大金を与え玉をハ真言不思議の御利生也、と二人ハ喜び合掌して大師の宝号唱えける。是より尚々善心強くなり高野下向の悦びとして村中残らず馳走して招き、四国遍路の宿致し、熊谷寺の本堂に於て三日の間大施行。大師堂にて護摩供養。また本堂と大師堂へ金百両ツ々寄附致して残りし金にて田畑求め、是より毎年四国の霊所へ偏礼する事七ヶ年、その春より我田地ハよそとは違ひ大豊年。大金の納まる事奇妙と云うも愚かなり。」とあります。