今朝一週間ぶりくらいに未明に起きて道路掃除に出かけました。
庭に出ると十五夜を少し過ぎた月齢 18日のお月様が煌々と中天に掛かっていました。この間までは東の空を煌々と照らしていた明星はいまの季節は見えません。天頂には秋の四辺形がうっすらとみえます。それでもあかあかとお月様に照らされるだけでなぜか山寺の幼い日々に帰れるような感じがして嬉しくなります。朝起きは三文の得とはよく言ったものです。このお月様を見るだけで朝起きて掃除にいく見返りは十分頂いている感じがします。今朝は木枯らしが吹いていて感じませんでしたが、普段は朝の草木の発する香気が満ちていてこれも大変有難いものです。
いつも私が掃いているバス停付近は大きな桜の木がたくさんあり春は桜花爛漫ですが秋は落ち葉で大変です。歓楽極まりて哀歓多し、とはこのことかもしれません。この場所は大体私が掃いているのでだれも掃いてはくれません。いつの間にか私の責任エリアになっているようで少し掃かないとすぐに落ち葉が堆積してしまいます。竹箒で掃いても厚く積もった落ち葉はなかなか掃けなくなります。
こういう時はいつも周利槃特を思い出します。周利槃特は仏弟子となって四ヶ月を経ても一偈をも記憶できなかったので、お釈迦様は「塵を除かん、垢を除かん」と唱えて掃除せしめたといいます。彼はそれにより、落とすべき汚れとは、貪、瞋、痴であると悟り、阿羅漢果を得たとされます。
「根本説一切有部毘奈耶卷第三十一」に「爾時世尊。便ち愚路を喚びて兩句の法を授く。『我れ塵を拂ひ、我れ垢を除ん』。此れ亦た言に随って記憶すること能ず。世尊見已りて其の障重きを知り教て除滅せしむ。愚路に告げて曰く『汝能く諸苾芻と鞋履を拂拭するや不や』。佛に白して言さく『能くす』と。『汝今宜に去りて諸苾芻の為に鞋履を拂拭すべし』。即ち既に教を奉じて作す。諸苾芻は許さず。佛言く『汝等遮る勿れ。此人をして業障を除去せしめんと欲するなり。其の兩句の法、汝等應に教へよ。』時に諸苾芻は鞋履を拂はしめて兩句法を教ゆ。愚路、精勤して常に此の法を誦す。積功已まず遂に通利を得る。時に愚路苾芻は便ち後夜時に於いて如是の念を作す。世尊は我をして兩句法を誦せしむ。我れ塵を拂ひ、我れ垢を除くとは此之字句、其義云何。塵垢に二あり。一は内、二は外。此之法の言、爲表於内爲表外耶。爲是直詮爲是密説。是の思を作し惟忽然として啓悟す。・・・」
賢愚経には「周利槃特。雖誦一偈。以持戒故。得阿羅漢」とされむしろ持戒堅固の故に阿羅漢を得たとしていますが、どちらにせよ当方には生まれ変わり死に変わりしても程遠い道のりです。