菩薩本生鬘論・投身飼虎縁起卷第一
法隆寺の投身飼虎図は深遠な真理を表していますがその元となるお経が何種類かあります。その一つです。
(あらすじ)お釈迦様が手を以て地を按ると地が震動し、七寶塔が涌現しその中に前世のお釈迦様の舎利がありこれをお釈迦様が「悟りへ導いてくれた」として礼します。お釈迦様は前世で飢えた虎に「我身をして大善業を成じ生死海に於いて大舟航となり、無上究竟涅槃を求め永く憂悲無常の苦惱を離れ、百福莊嚴して一切智を成じて諸衆生に無量法樂を施さん」と願い、投身されるが、投身した王子摩訶薩埵は今の釈迦で、昔の父・國王は今の淨飯父王。昔の母・后妃は摩耶夫人。三兄弟のうち長子は彌勒、次子は文殊。投身した釈迦を食べた虎は今の姨母(摩訶波闍波提・釈迦の叔母であるが摩耶夫人が早く亡くなったので養母として釈迦を育てた。後に釈迦が悟りを得ると、最初の比丘尼となった)七虎子は大目乾連・舍利弗・五比丘である・・・と説きます。
・ 投身飼虎縁起第一「爾時、世尊は諸大衆を将ひて般遮羅大聚落(ばんちゃらだいじゅらく・咀尸羅国の中に有、法顕傳・大唐西域記等に出てくる捨身飼虎の地,注1)の所に詣でて一林中に至る。阿難に謂ふて曰はく、『汝此間において我ために座を敷け。』佛其上に坐して諸比丘に語りたまはく、『汝等、我往昔時に修行苦行の舍利を見んと欲するや不や 』白して言く、『見たてまつらんと願ふ。』于時、世尊手を以て地を按じたまふに六種に震動し、七寶塔其前に涌現するあり。世尊は即ち起って作禮右旋したまふ。『阿難、汝此塔戸を開き、七寶函の珍奇間飾せるを見るべし。阿難、汝復た此函を開き舍利ありて白きこと珂雪のごときを見るべし。汝此の大士の骨を持ち來るべし。』世尊は受け已りて衆をして諦觀せしめ頌を説いて曰く、
『 菩薩の勝(すぐれた)る功徳は 六度行を勤修す。 勇猛に菩提を求め 大捨の心は無倦なり。汝等比丘よ、みな禮敬をのべよ。此の舍利は乃ち是れ無量の戒定慧香之の熏修するところなり』。
時に會は禮を作して歎ずること未曾有なり。時に阿難陀白して言さく。『世尊。如來大師は三界に出過したまひ、何の因縁をもって此身骨を禮し給ふや』。佛言『阿難よ。我れ此によりての故に成佛に至ることをえたり。往恩を報ぜんが為の故に茲に禮を致す。今汝等の為に疑惑を斷除して昔の因縁を説かん。志心に諦聽せよ。阿難よ。乃往、過去無量世の時に、一國王有り、名けて大車という。王に三子あり。摩訶波羅。摩訶提婆。摩訶薩埵なり。是時大王山谷を縱ひままに賞せんとす。三子皆な從ふ。大竹林に至り中において憩息す。次に復た前行するに一虎あるを見る。七子を産生し已りて七日を経たり。第一王子は如是の言を作す。『七子圍繞して尋食に暇なし。飢渇に逼られて必ずその子を噉まん』。第二王子は是を聞き説き已る。『哀哉此虎將に死せんこと久しからず。我何んしてか能く彼の命を濟ふことあらんか』。
第三王子は是の思念を作す。『我今此身は百千生において虚く棄敗壞せしも曾って少益無し。云何が今日、捨つること能はずや。』時
に諸王子是の議を作し已りて、徘徊之を久しくし、倶に捨て去る。薩埵王子は便ち是念を作す。『當に我身をして大善業を成ぜしめ、生死海に於いて大舟航と作さしめん。若し此者を捨てれば則ち無量の癰疽惡疾百千怖畏を捨てるなり。是身は唯だ便利不淨あるのみ。筋骨連持して甚だ厭患すべし。是故に我今應當に棄捨すべし。以って無上究竟涅槃を求め永く憂悲無常の苦惱を離れ、百福莊嚴して、一切智を成じ、諸衆生に無量法樂を施さん』。是時に王子は大勇猛を興し、悲願力を以て其の心を増益し、慮彼の二兄が共に留難をなすを慮り、先に宮に還りたまはんことを請ひ、我れ當に後に至るべしと。爾時に王子摩訶薩埵は竹林に遽入し、其虎の所に至る。衣服を脱して竹枝上に置き、彼の虎の前において身を委ねて臥す。菩薩慈忍なれば虎は能く爲す無し。即ち高山に上り、地に投身す。虎今羸
弱にして我を食ふことあたわず。即ち乾竹をもって頸を刺し出血す。時に大地は六種に震動し風は激水の如く、涌沒して不安なり。日は精明無く羅睺障のごとし。天は衆華及び妙香末を雨らし、繽紛として林中に亂墜遍滿す。虚空諸天は咸く共な稱讃す。是時、餓たる虎は即ち頸血を舐め噉て肉を皆な盡す。唯だ餘骨留るのみ。時に二王子は大愁苦を生ず。共に虎所に至り自持すること能わず。骨上に投身して久しくして穌を得、悲泣懊惱漸捨して去る。時に王夫人、高樓上に寢たまひしが、忽ち夢中に不祥事を見る。兩乳は割かれ牙齒墮落す。三の鴿鶵を得しも一は鷹のために奪ると。夫人遂に覺めて兩乳流出す。時に侍女、外人より聞くありて言く、『王子を求覓するも今猶未得なり』と。即ち宮中に入り夫人に白して知らしむ。聞き已りて憂惱悲涙盈目。即ち王所に至り白して言さく。『大王よ。我最小なる愛するところの子を失へり』。王是を聞きたまひて悲哽して言はく『苦哉。今日我愛子を失ふ。夫人を慰喩して汝憂慼することなかれ。吾今、諸大臣人民を集め即ち共に出城し分散尋覓せん』。未だ久しからざる之頃、一大臣あり、前みて王に白して言さく、『
王子在るを聞く。其最小者は今猶ほ未見なり』。次に第二臣王所に來至す。懊惱啼泣し即ち以って王子捨身の事を具に王に白して知らしむ。王び夫人は悲み自ら勝えず。共に菩薩が捨身之地に至り、其の遺骨が隨處に交横せるを見て、悶絶投地都して知るところなし。水を以て遍く灑ぎて惺悟するを得たり。是時、夫人の頭髮蓬亂して地に宛轉したまふこと魚の陸に処するがごとく、牛の犢を失ふがごとし。及び王の二子も悲哀號哭。共に菩薩遺身舍利を収め、爲に供養をなし、寶塔中に置く。阿難よ當に知るべし。此即ち是は彼の薩埵の舍利なり。我爾時において、煩惱貪瞋癡等を具すると雖も、能く地獄餓鬼傍生惡趣の中において隨縁救濟して出離するを得せしめけり。何況んや今時、煩惱都盡・無復餘習にして天人師と号し一切智を具す。而も一一の衆生を險難の中より代受衆苦することをなし得ざらんや。佛、阿難に告げたまはく、往昔王子摩訶薩埵は豈に異人ならんや、今此會中の我身是也。昔の國王は今の淨飯父王是也。昔后妃者摩耶夫人是也。昔の長子は彌勒是也。昔の次子は文殊是也。昔の彼虎は今の姨母是也。七虎子者大目乾連舍利弗五比丘是也』。爾時世尊是の往昔因縁を説きたまふの時、無量阿僧祇の人天大衆は皆な悉く悲喜し同く阿耨多羅三藐三菩提心を発す。先に涌出する所の七寶妙塔は佛神力を攝めたまひしかば忽然として不現なり。
(注1、法顕傳には「ここ(ガンダーラ国)から東行すること7日、一つの国があり、タキシラ(竺刹尸羅・咀尸羅国・特叉始羅国)国という[註1]。タキシラとは中国語で截頭の意である。仏が菩薩だった時、ここで頭を人に施したので、このように名づけている[註2]。また東行2日、身を投げて餓虎に食わせた所に到る。この2か所にもまた大塔を建て、共にもろもろの宝で飾ってある。諸国の王や臣民は競って供養を盛んにし、散華、燃燈は相継いで絶えない。先の2塔(スハタ国の割肉貿鳩塔、ガンダーラ国の捨眼塔)と合わせて、彼の地の人は名づけて四大塔[註3]という」
[註1]【タキシラ国】竺刹尸羅は咀尸羅国、特叉始羅国とも書き、西パキスタンのラワルピンティの西北約30㎞のタキシラを指す。タキシラ、竺刹尸羅はともにサンスクリットの截頭(せつとう)の訛(なまり)という。古代から西北インドの要衝で、前5世紀~5世紀頃まで栄え、1913年以来22年にわたって行われた発掘により、ギリシャ文化や仏教文化の交流が明らかになった。
[註2]【頭を施し】いわゆる月光王説話。釈尊が前世に月光王であった時、辺境のビーマセーナ王は月光王の噂を聞き、悪バラモンのラウドラークシャ(労度者)を送って王の頭を求めしめた。王は7日の猶予を得て、王妃、諸臣らと決別し、自ら頭をはねたという。
[註3]【四大塔】スハタ国の割肉貿鳩塔、ガンダーラ国の捨眼塔、タキシラ国の截頭施人塔、その東方の投身餧餓虎塔を四大塔という。
・大唐西域記には「咀尸羅国」として「咀尸羅大城の西北七十余里に医羅鉢と羅竜王の池がありその竜池から東南にいくこと三十余里で二つの山の間に入る。卒塔婆がある。、無憂王(アショーカ王)が建てたものである。高さ百余尺。釈迦如来が将来慈氏世尊が世に出でられたときに自然に四大宝塔(スハタ国の割肉貿鳩塔、ガンダーラ国の捨眼塔、タキシラ国の截頭施人塔、その東方の投身餧餓虎塔を四大塔という)が地中より出るであろうと予言されたが、この名所こそその一か所なのである。」とある。)
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