福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

金剛智三藏と將軍米准那・・2

2013-10-30 | 法話

 金剛智三藏は、印度の大陸に生れ、大陸に活動したとは云へ、實際は摩頼耶と云ふ海國に生れ又は活動せられたのであるから、所謂海國男子であつたと思はれます。宗祖大師と同じく、瀕海の國で生れられて、海洋とは如何なるものか、海洋の中に於ける船舶内の生活とは如何なるものかは、蓋し幼時から充分會得實驗せられたことと思はれる。金剛智三藏の生家は、婆羅門族であつたか刹帝利族であつたか疑問としましても、所謂清貴の家であつたことは疑ひない。古代から印度に輩出した立法者、北方ではマヌ(Manu)ヤーヂユナ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)リキヤ(Y※(マクロン付きA小文字)j※(チルド付きN小文字)avalkya)を始め、南方ではアーパスタンバ(※(マクロン付きA)pastamba)アーガステイヤ(※(マクロン付きA)gastya)等の法典には、婆羅門族または刹帝利族に對し、其の清貴の性質を失はざらしめんため、冠婚葬祭の四大禮は申すに及ばず、職業、交遊、服裝、住居、飮食等に至るまで、種々の制限を加へて居ります。殊に海外に出づることは禁じて、一旦海外に出たものは、歸國するも其の清貴の性質を失うてアーリヤ即ち正信の印度人たる權利はないものとせられた。祭政一致、宗教法律の區別なき時代にあつてはさもあるべきことと思ひますが、金剛智三藏時代の南海印度洋の諸國は、印度アーリヤ文化の光被せる地方であつて、古代印度の立法者の立法を解釋せる者の中では、此等の諸國に來往したりとて等しく、アーリヤ正信の人たることを失はないと云ふことで、此等の諸國を神州即ち印度アーリヤ地方の延長であると看做して居つたものです。だから、支那國に法を傳へんため、南印度の國王捺羅僧伽補多跋摩ナラシンハ、ポータ、※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルマン王の舟師に將として支那に向はんとした將軍米准那の舟に乘られて本國を出發せられたのであります。茲に諸君に御賢察を願ひたきことは、金剛智三藏が國王派遣の船舶に乘られたことを以て、恰も今日、歐米から東洋に派遣せらるゝ歐米諸國の宣教師乃至日本諸宗教各派の布教師などが、割引の賃金または無料で、官營また民營の鐵道船舶などの交通機關を利用すると同樣の見解を懷かざらんやう御願ひ申します。もしかゝる見解を抱かるれば、古代に於ける海陸の交通の性質を全然誤解して居るのであります。佛經の經典中、海に入りて寶を求む、即ち航海して異邦人と通商することを叙した經典に於ても見らるゝ如く、清貴の家に生れて操行清白の婆羅門または刹帝利種の人々は、國の瑞祥であり、社會の人々から見て、自分らよりも一層神に近く佛に近いものと信ぜられたから、天災地異の到底人力では如何とも致し難き災難に際しては神佛に近き人々の媒介によりて、災難を免れることが出來ると信じました古代では、航海または征戰の如き危險を冒す旅行には、必ず高行清貴の婆羅門の同伴を求むることになつて居りました。これは印度のみではありません。希臘羅馬は云ふまでもなく、日本支那の古代でも同樣であつたのです。將軍米准那の船に金剛智三藏が乘込まれたことは、米准那か又は國王の懇請に依つたもので、金剛智三藏が頼みこんだものでない事は申すまでもない。これによりて米准那の舟師の人々が、如何に心強く感じたかは蓋し想見に餘りあると想像せられます。要するに、此の遠洋航海に於ける將軍米准那の舟師に對しては、金剛智三藏は希臘羅馬の古代宗教の語を借りて云へば、クリマルク(Klimarque)の位置に居られたものであります。別に古代希臘の宗教の用語から援引しなくても、宗祖大師が大唐より歸朝の途中に於ける波切不動の勸請の話や、慈覺大師が同じく歸朝の途中山東沖で赤山神社の祈誓の話などを讀んだ方々は、當時の航海者は、密教の高僧に如何なる期待を持つて居たか判明する。また壬生狂言で源頼光が大江山の鬼退治に出掛くる一行の科を見た人は、かの狂言製作當時の京都人が、如何に密教の護持者に對し信頼の念が薄かつたかと知るでありませう。これに反して謠曲の船辨慶を御記憶の方は、「辨慶押しへだて、打物業にては叶ふまじと、珠數推もんで、東方降三世南方軍※(「咤-宀」、第3水準1-14-85)利夜叉西方大威徳北方金剛夜叉明王」云々を御想起せらるれば、かの謠曲製作の時代には、如何に日本の航海者は密教の護持者に對し信頼の念が篤かつたかを推察することが出來ませう。
 要するに、陸上の交通にしても、海上の交通にしても、少數のものだけの交通は長途の旅行や久しきに亙る航海など不可能で、大部隊、大商隊、大舟師、大艦隊を編成して交通または通商をせねばなりませぬ。故にこれを統率するものは、商人であると同時に、地理學者でなくてはならず、武人でなくてはならず、立法者でなくてはならず、同時に天文學者でなくてはならず、氣象學者、醫學者である上に、一大信仰を有して居る宗教家でなくてはなりませぬ。陸上では舊約全書にある出埃及記に見ゆるやうな摩西モーゼスの樣な人物でなくてはならず、普通世に流布するモハメツトの傳記に於て見るやうな、モハメツトのやうな人物でなくてはなりません。また佛本生經に見ゆるやうな商主即ち商隊を引率する菩薩のやうな人でなくてはなりませぬ。また史記に見えたるやうな帝舜のやうな人でなくてはなりませぬ。
 海上ではホーメロスの詩に見えて居る希臘軍の將帥のアガメムノーン、近世ではコロムブスの傳記、ラ・ベルイスの傳記、乃至カピテン・クツクの傳記に見えるやうな近代航海探檢者のやうなものでなくてはなりませぬ。まして西暦紀元七世紀の頃の印度洋・南洋の航海には、薩珊サツサン王朝は亡びて亞剌比亞人がバグダツドに奠めた首都の文化武威が、未だ舊波斯民族の信頼と心服とを贏ち得るに[#「贏ち得るに」は底本では「羸ち得るに」]至らず、波斯灣一帶の地方から印度の西海岸乃至亞剌比亞の東海岸に碁布羅列せる波斯民族の植民地は、海賊の占據する所となりしのみならず、印度の東海岸から南洋諸島を經由して支那の廣州に達する船舶の引率者が、天文地理乃至潮流・氣候等の知識も充分でなかつた事は、此の頃續々發見せらるゝ波斯亞剌比亞の航海者の圖に於て見らるゝ如く不完全極まるもので、大部分は冒險者の個人的勇氣と運勢とに任すより外なかつたのであります。されば、金剛智三藏にしても、金剛智三藏の乘られた艦隊の司令官將軍米准那にしても、印度より安全に支那に達するまでの間の冒險は、吾人の今日想像以上のものであつたことは疑ひない。もしこれを疑ふ人があるならば、私は此等の人々に對して、今日一切經の中に保存せられて居る法顯傳や、義淨三藏の南海寄歸内法傳や、大唐求法高僧傳などに見えて居る海洋交通の有樣を精しく今日の地理に照らして讀まんことを御勸め致します。神經の弱き人には、讀むだに身毛は竪立し、手に汗するやうな感が致すことと推察致します。
 將軍米准那の舟師が、印度を出發して支那に向ふ際には國王の使節でもあり、金剛智が乘つて居らるゝことでもあり、定めて盛大なる祈祷祝福の儀式は、印度の古代宗教の規定通り營辨せられたことと思はれます。吉祥成就の祈誓のため、出發の日取時刻などを定むるに喧しきことであつたと想像せられますが、果して、此の艦隊が闍婆島即ち今のスマトラ島に到着したのちは、三藏は、己の後繼者で宗祖大師の師の師であつた不空金剛三藏と云ふ法器を得られ、これと共に西域人の所謂支那即ち廣州に來られ、それから西域人が所謂摩訶支那即ち長安に入られた次第でありますことは諸君も御存知のことでありますが、茲に一つの問題になりますることは、將軍米准那の名の讀方であります。將軍と云ふ二字は義譯で、何か米准那の帶びて居た官職又は業務の飜譯であることは明白でありますが、問題となるのは米准那の三字であります。マイヂユンナと讀んでよいか、ベイヂユンナと讀んでよいか、また久米の仙人など云ふ場合の「米」の字は「メ」と申しますから、メヂユンナと申して宜しきや、一向昔から定まりませぬ。また音譯には相違ありませぬが、如何なる國の語を支那で音譯したものかは、更に判明致しませぬ。私は今より三十餘年前、眞言宗の碩學で學徳共に高き長谷寶秀師の苦心になつた弘法大師全集を讀みまして、金剛智三藏の入唐の御事歴に附帶して、此の米准那の原音を内外學者の著述または論説を見聞致しましたが、不幸にして何等の意見を知ることは出來ませぬ。只一つの例外として茲に掲ぐることの出來るのは、佛蘭西の或る學者で、或る學術雜誌に米准那をアルヂユナ(arjuna)と事もなげに還源して、何等説明なしに日本密教のことを述べて居つたことです。なる程、准那の音は、印度密教の始祖と云はるゝナーガールヂユナ(N※(マクロン付きA小文字)g※(マクロン付きA小文字)rjuna)のヂユナとは聲音相邇く、また金剛智三藏を通して何等かの關係を龍樹菩薩と有して居つたと思はれぬではありませんが、此の場合に准那をヂユンナまたはジユンナとしますると、「米」の字を是非ともアルと讀まねばなりませぬ。また密教を離れて、廣く印度の普通に用ひらるる名の中で此のアルヂユナと云ふ名前程、戲曲または叙事詩に於て評判の善き名前はありませぬから、何氣なく無造作にアルヂユナと還源しましたことと思ひますが、如何にせん、「米」の字には、昔から支那には、アルと云うた例は決してありません。「米」は姓として准那を名にし、准の字の上に曷羅とか、※(「口+羅」、第3水準1-15-31)とか云ふやうな字が脱落したものと見れば、將軍と云ふ言葉に對して、古から勇武を歌はれたアルヂユナの名は如何にもふさはしき感じを生じますが、さりとて、一千一百年來、弘法大師が支那から御將來の經または文書にいづれも米准那とあつて三字以外にありませぬから、種々の點から見て、遺憾ながら此の三字以外に他の字がなかつたものと諦めて、この三字だけで解釋を致さねばなりませぬ。
 凡そ地名にしても、人名にしても、固有名詞だからと云うて打棄てて、其の意義を檢討せずに居ることは、眞個の學者たるものの忍びぬ所で、正しきにせよ、誤れるにせよ、何等かの解釋を加へて世に公にすることは學者の責務であります。私は茲に諸君に對し、一千餘年間等閑に附せられて居た米准那の三字の原音を尋繹致したいと思ひます。

先づ第一に「那」の字音でありますが、これは「ナ」と云う場合は普通であります。同時に「タ」又は「ダ」と云ふ音を表幟する場合にも用ひられます。かゝる場合は娜の字を用ひますが、時ありて、「女」扁をなくして娜那混同して用ひることはあります。一例を擧げますれば、義淨三藏の作だと古代より傳説せられ、新義古義兩方の碩學から校訂出版せられて居りまする梵唐千字文、又の名は梵語千字文の中で、「聲」と云ふ字に對し攝那(セブダ ※(セディラ付きC小文字)abda)の音譯を配し、那の字を「ダ」に響かせてあります。然るに「響」と云ふ字に對し鉢※(「口+羅」、第3水準1-15-31)底攝娜(プラテイセブダ prati※(セディラ付きC小文字)abda)の音譯を附し、同じく攝那の音を寫すに那の字に代はりて娜の字を使用してあります。要するに那娜二字とも「ダ」の音を寫す場合に混同してある事實を認めねばなりませぬ[#「なりませぬ」は底本では「なりせぬ」]。故に私は米准那の那を「ダ」と發音して差支へはないと思ひます。いづれこの音譯は、金剛智三藏が、廣州に到着せられた場合嶺外節度使が中央政府に報告する文書作成の際か、中書令か又は鴻臚卿の方で廣州の觀察使に回答する文書作成の際かに出來たものでありませうから、苟も舟師提督閣下、アドミラル閣下の名稱に對し、たとひ音譯とは云へ、女の「アダツポイ」ことを形容するに用ひる娜の字を使用するやうな失禮なことはなかつたかとも云へます。次は「准」の字であります。元來、此の字は準の字の俗字で、我が國でも、准后とか、批准とか、准許とか、准之とか云ふ場合に於けるごとく、「なぞらへる」「ひとしくする」「ゆるす」など云ふ意味のときは、「ジユン」と發音致します。かゝる場合には、支那では、上聲に發音します。然れど、もし鼻と云ふ意味に用ひますときは、必ず入聲に發音致しまして、「セツ」と發音せねばなりませぬ。例せば隆準龍顏リユウセツリヤウガンなどと云つたり、隆準而リユウセツニシテ有リ二日角ニツカク一など云うて、支那の史官が西漢の高祖皇帝や東漢の光武皇帝の容貌を形容する場合の準は必ず入聲に讀みます。金剛智三藏が支那の洛陽で入寂してから十五年目に、孫孝哲と云ふ安禄山の武將が、長安で唐の宗室の人々を虐殺した有樣を目撃して、杜甫が漢を借りて唐を歌うた哀王孫の詩の中に、高帝子孫盡隆準と云ふ句がありますが、これも準の字を入聲に讀んだ一例です。准那の二字を「ヂユンナ」又は「ジユンナ」と發音しても、何の意義をも發見出來ぬとすれば、發音を變更して「セツダ」又は「ゼツダ」と讀むより外に讀方はありませぬ。然らば斯く讀みて、何等か意味が發見出來るかと申せば、それは出來ます。これは中世波斯語の「ゼーダ」又は「ザーダ」(Z※(マクロン付きA小文字)da)で、生れたるもの、子または孫、と云ふ意味の言葉の音に相當致します。語源から申しますれば、梵語の j※(マクロン付きA小文字)ta と同じき起源を有するものであります。
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