塹壕戦
2020-08-05 | 法話
仏教人生読本・岡本かの子
「塹壕戦
物事を成し遂げるには、塹壕戦の覚悟が必要だと思います。自分の職場を守って、いつまでもいつまでも忍耐し、最後の成功を得るというやり方であります。
かの欧州大戦で、最初は一時も早く敵を倒してしまおうと、急勝せっかちに戦いましたが、そうしますと死傷ばかり多くて、ともすれば戦線に隙が出来、まかり違えば敵に背後を突かれるという危険がありました。そこで戦争の中頃からは一面に塹壕を掘って辛抱くらべを始めました。そしてじりじりと最後の勝利を得ることにしました。この戦法はその際是非とも必要だったのでした。それより他に仕方がなかったのでした。しかも塹壕戦は長く続くので、地中の薄汚ない坑道あなの中で、地層だけを見詰めて歳月を送っては、人間の生活だかもぐらもちの生活だか判らないという惨めさに、もう我慢出来なくなったり、またいつ先方から襲撃されるか、爆弾や、毒瓦斯弾が飛んで来るのか解らないという不安状態、それに加えて、こちらから少しも飛びかかって行けないという焦れったさや口惜しさまでが入り混って、とうとう、小心者は戦争恐怖症という狂人になってしまいました。それで塹壕中でのいろいろの慰安とか、士気を鼓舞する手段が講ぜられました。芝居だとか、活動、ダンス、トランプ……等。そして常に目指す敵の動静ようすを見張りながら、味方のこれに対する構えを変化させて、持久戦をつづけたのでした。
私は、これからの世の中は、何事によらず、ますますこの塹壕戦の仕方と同じ仕方でやって行かなければならないと信じます。何故ならば、・・・その烈しい競争場裡において、ちょっとやそっとの知識や経験手腕では、直ぐと押しのけられたり、蹴落されるのであります。相当に世に認められる仕事をするには、何か自分の得意とするもの、あるいは自分に振り当てられた仕事に就いて、塹壕戦のつもりで、自分の身形みなりや他人からの悪口を気にせず、また躍り上る浮気心や他人のお世辞にのぼせ上らずに、埃だらけ泥まみれになって努力し続けなければ駄目でしょう。そんな埃だらけ、泥まみれになってまで成功しようと思わぬ人は、何も強てそうする必要はありません。ただ成功しなくてはいられない人だけ――それは自分自身の止むに止まれぬ欲望のためばかりでなく、家族のためとか、国家のためとか、人類のために成功したい人々は、否が応でも、この地味でパットしない塹壕戦に入らなければなりません。
以上、いろいろの事業職業の外に、科学的の研究や、仏道の修業、すなわち人格の完成には、現にこの塹壕戦の方法を採っています。研究所や僧院は明らかに忍辱の塹壕です。
常に自分をかえり見て、「今、わたしは塹壕戦の真最中だ、しっかり行こう」と落ち付き払って勉強し続けるのです。すると長年月の後には、「塵積って山となり、点滴石を穿つ」というように、必ず自分の才能特色が何らかの形をとって世に現れずにはいません。禅では「生鉄(しょうてつ)を嚼かむ」と言いまして、長い間、生の鉄を噛んでいると、遂には噛みこなしてしまうというのです。
(注意一)しかし、塹壕戦をやって行くのには、前に述べましたように、それだけではなかなか堪えられないものです。何か絶えず、心を落ち付け慰めるものが必要であります。慰安のため二日も三日も自分の仕事を放棄するようでは、もはや塹壕戦ではありません。日曜も祭日も時には、犠牲にしなければならないでしょう。ですから、慰安なり休養なりは、その塹壕に即した(より添った)ものでなければなりません。出来たら、塹壕戦そのものの中に喜びと興味を持つのが一番確かでありましょう。仏道修業では刻々に自分の心を制禦し得て、刻々に現実の上に理想を見出して行きます。
(注意二)なおまた大切なことは、塹壕戦に向った以上、常に斥候、偵察機(直観)を働かして敵(目的、理想)の様子と味方との関係(自分の進況)を見守っていなければなりません。それをしなくても塹壕戦というものは、時に意外の方向に事業なり修業が展開して、予期した境地とは違ったところに成功することもありますが、まあ出来ることならそんな僥倖を望まず、正当に目指したものを得るのが当然ですから、目的への方向を間違えないよう、直観を働かせなければいけません。しかし直観力の弱い人、または境遇のため思うことが出来ない人は、その人の出来る範囲内で一番よいと思うことを選び出して、それと取っ組んで塹壕戦に入るのです。
以上二つのことをよく注意して塹壕戦を続けたら、何一つとしてその人なりに、達成されないものはないでしょう。
世の中で、成功者と言われるほどの者は、殆んど全部、この塹壕戦をやり通した人達ばかりです。昔の人々は塹壕戦と言わないで他の言葉でいろいろ言い現していますが、中でも有名なのは徳川家康の「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」という格言であります。しかし、私たちは現代人です。感覚も鋭敏になっていますから、この長い文句よりも「塹壕戦!」と言った方が、響きもいいし、単的です。みなさん、あなた方の仕事場の壁に「塹壕戦」とお書きになっては如何ですか。
(「底なし釣瓶で水を汲む・逸外老師随聞記」には臨済宗妙心寺派管長梶浦逸外老師の出家の時、母親が『底なし釣瓶で水を汲む』という気持ちで修業せよと諭したという話があります。「底なし釣瓶で水を汲む」というのは養子希望の男が一晩のうちに底なし釣瓶で四斗樽になみなみと水をくみ上げて億万長者の養子になったという話です。母親はそれくらい努力せよと諭されたのでしょう。逸外老師は生涯その「底なし釣瓶で水を汲む」を座右の銘にして参禅し、ついに大成されました。『雑宝蔵経』にも「オウムの恩返し」という説話があり、『森の動物たちに助けられたオウムがその森の火事に対して一羽だけで羽を水にぬらして火を消そうとしたが、その水は、2~3滴しか落ちない。周りに笑われてもオウムは 『私がお世話になった仲間が火事で大変な目にあっているのを見逃せません、どんなに非力でも水を運びます』といって、せっせと水を運び続けると奇跡が起こり大粒の雨が降ってきて火事が消えた』という話があります。
「虚仮の一念岩をも通す」「雨だれは、石をも穿つ」「念ずれば花開く」などとともいわれます。
塙保己一は北野天満宮に般若心経100巻を千日間あげて祈願して群書類従を完成したと云います。必死の努力をしているところには神仏からお助けがあるのかもしれません。
私も昔、書道を習っているとき、先生に「上達の秘訣はなんですか?」と聞いたところ「継続あるのみです」と謂われました。ほとんどの人が途中でやめる為上達しないというのです。案の定、私はすぐやめてしまい何にもなりませんでした。スポーツに於いても大学時代に先輩で非常に運動神経の悪い人が毎日練習してついに運動神経抜群の人を負かすようになった例を目の前で見ています。塹壕戦の効果は恐るべきものがあることは身を以て知らされています。)
「塹壕戦
物事を成し遂げるには、塹壕戦の覚悟が必要だと思います。自分の職場を守って、いつまでもいつまでも忍耐し、最後の成功を得るというやり方であります。
かの欧州大戦で、最初は一時も早く敵を倒してしまおうと、急勝せっかちに戦いましたが、そうしますと死傷ばかり多くて、ともすれば戦線に隙が出来、まかり違えば敵に背後を突かれるという危険がありました。そこで戦争の中頃からは一面に塹壕を掘って辛抱くらべを始めました。そしてじりじりと最後の勝利を得ることにしました。この戦法はその際是非とも必要だったのでした。それより他に仕方がなかったのでした。しかも塹壕戦は長く続くので、地中の薄汚ない坑道あなの中で、地層だけを見詰めて歳月を送っては、人間の生活だかもぐらもちの生活だか判らないという惨めさに、もう我慢出来なくなったり、またいつ先方から襲撃されるか、爆弾や、毒瓦斯弾が飛んで来るのか解らないという不安状態、それに加えて、こちらから少しも飛びかかって行けないという焦れったさや口惜しさまでが入り混って、とうとう、小心者は戦争恐怖症という狂人になってしまいました。それで塹壕中でのいろいろの慰安とか、士気を鼓舞する手段が講ぜられました。芝居だとか、活動、ダンス、トランプ……等。そして常に目指す敵の動静ようすを見張りながら、味方のこれに対する構えを変化させて、持久戦をつづけたのでした。
私は、これからの世の中は、何事によらず、ますますこの塹壕戦の仕方と同じ仕方でやって行かなければならないと信じます。何故ならば、・・・その烈しい競争場裡において、ちょっとやそっとの知識や経験手腕では、直ぐと押しのけられたり、蹴落されるのであります。相当に世に認められる仕事をするには、何か自分の得意とするもの、あるいは自分に振り当てられた仕事に就いて、塹壕戦のつもりで、自分の身形みなりや他人からの悪口を気にせず、また躍り上る浮気心や他人のお世辞にのぼせ上らずに、埃だらけ泥まみれになって努力し続けなければ駄目でしょう。そんな埃だらけ、泥まみれになってまで成功しようと思わぬ人は、何も強てそうする必要はありません。ただ成功しなくてはいられない人だけ――それは自分自身の止むに止まれぬ欲望のためばかりでなく、家族のためとか、国家のためとか、人類のために成功したい人々は、否が応でも、この地味でパットしない塹壕戦に入らなければなりません。
以上、いろいろの事業職業の外に、科学的の研究や、仏道の修業、すなわち人格の完成には、現にこの塹壕戦の方法を採っています。研究所や僧院は明らかに忍辱の塹壕です。
常に自分をかえり見て、「今、わたしは塹壕戦の真最中だ、しっかり行こう」と落ち付き払って勉強し続けるのです。すると長年月の後には、「塵積って山となり、点滴石を穿つ」というように、必ず自分の才能特色が何らかの形をとって世に現れずにはいません。禅では「生鉄(しょうてつ)を嚼かむ」と言いまして、長い間、生の鉄を噛んでいると、遂には噛みこなしてしまうというのです。
(注意一)しかし、塹壕戦をやって行くのには、前に述べましたように、それだけではなかなか堪えられないものです。何か絶えず、心を落ち付け慰めるものが必要であります。慰安のため二日も三日も自分の仕事を放棄するようでは、もはや塹壕戦ではありません。日曜も祭日も時には、犠牲にしなければならないでしょう。ですから、慰安なり休養なりは、その塹壕に即した(より添った)ものでなければなりません。出来たら、塹壕戦そのものの中に喜びと興味を持つのが一番確かでありましょう。仏道修業では刻々に自分の心を制禦し得て、刻々に現実の上に理想を見出して行きます。
(注意二)なおまた大切なことは、塹壕戦に向った以上、常に斥候、偵察機(直観)を働かして敵(目的、理想)の様子と味方との関係(自分の進況)を見守っていなければなりません。それをしなくても塹壕戦というものは、時に意外の方向に事業なり修業が展開して、予期した境地とは違ったところに成功することもありますが、まあ出来ることならそんな僥倖を望まず、正当に目指したものを得るのが当然ですから、目的への方向を間違えないよう、直観を働かせなければいけません。しかし直観力の弱い人、または境遇のため思うことが出来ない人は、その人の出来る範囲内で一番よいと思うことを選び出して、それと取っ組んで塹壕戦に入るのです。
以上二つのことをよく注意して塹壕戦を続けたら、何一つとしてその人なりに、達成されないものはないでしょう。
世の中で、成功者と言われるほどの者は、殆んど全部、この塹壕戦をやり通した人達ばかりです。昔の人々は塹壕戦と言わないで他の言葉でいろいろ言い現していますが、中でも有名なのは徳川家康の「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」という格言であります。しかし、私たちは現代人です。感覚も鋭敏になっていますから、この長い文句よりも「塹壕戦!」と言った方が、響きもいいし、単的です。みなさん、あなた方の仕事場の壁に「塹壕戦」とお書きになっては如何ですか。
(「底なし釣瓶で水を汲む・逸外老師随聞記」には臨済宗妙心寺派管長梶浦逸外老師の出家の時、母親が『底なし釣瓶で水を汲む』という気持ちで修業せよと諭したという話があります。「底なし釣瓶で水を汲む」というのは養子希望の男が一晩のうちに底なし釣瓶で四斗樽になみなみと水をくみ上げて億万長者の養子になったという話です。母親はそれくらい努力せよと諭されたのでしょう。逸外老師は生涯その「底なし釣瓶で水を汲む」を座右の銘にして参禅し、ついに大成されました。『雑宝蔵経』にも「オウムの恩返し」という説話があり、『森の動物たちに助けられたオウムがその森の火事に対して一羽だけで羽を水にぬらして火を消そうとしたが、その水は、2~3滴しか落ちない。周りに笑われてもオウムは 『私がお世話になった仲間が火事で大変な目にあっているのを見逃せません、どんなに非力でも水を運びます』といって、せっせと水を運び続けると奇跡が起こり大粒の雨が降ってきて火事が消えた』という話があります。
「虚仮の一念岩をも通す」「雨だれは、石をも穿つ」「念ずれば花開く」などとともいわれます。
塙保己一は北野天満宮に般若心経100巻を千日間あげて祈願して群書類従を完成したと云います。必死の努力をしているところには神仏からお助けがあるのかもしれません。
私も昔、書道を習っているとき、先生に「上達の秘訣はなんですか?」と聞いたところ「継続あるのみです」と謂われました。ほとんどの人が途中でやめる為上達しないというのです。案の定、私はすぐやめてしまい何にもなりませんでした。スポーツに於いても大学時代に先輩で非常に運動神経の悪い人が毎日練習してついに運動神経抜群の人を負かすようになった例を目の前で見ています。塹壕戦の効果は恐るべきものがあることは身を以て知らされています。)