福聚講護国寺定例参拝の記録 16-11-21 角田光一郎
都会の喧騒から隔てられた静寂と閑静に包まれた真言宗豊山派大本山の護国寺の境内。山門から、一歩、境内に入ると、そこは、凛とした張り詰めた空気が漂い、山門を潜る前まで、極め付きの煩悩と執着にはち切れそうだった頭の脳味噌が、一瞬、ろ過されて180度反転し、無心、空っぽになり、密厳極楽浄土に、立つような感じにさせられます。
折から、護国寺の境内は、秋一色に彩られ、紅葉、楓、土檀つつじの木々が研を競うかのように、赤・黄・茶など色取り取りに、木々が、秋色に映えていました。しかし、自然というか、宇宙というか不思議なものですね。今季節は、秋たけなわなのですが、その秋の中に、そっと静かに、もう冬の気配が段取りされているのです。昨日まで、降っていた雨上がりの空気が冷たく、冷え冷えと寒い日でした。
歌心があれば、一句が浮かぶのでしょうが、折角、久々の密厳浄土に酔いしれていますので、下手な一句を搾り出すため頭を痛めるのも、はばかれます。高野辰之の名歌・「紅葉」を口ずさみましょう。
「秋の夕日に 照る山紅葉 濃いも薄いも 数ある中に 松を彩る 楓や蔦は 山のふもとの 裾模様 ・・」
いささか長いリードになりましたが、11月19日(土)15時、福聚講(高原耕曻講元)は、東京・文京の護国寺で、定例参拝を行いました。そのときの、護国寺の雰囲気を記してみた次第です。ひさびさに、高原講元様始め、講員の皆さんの元気な風貌に接し、ご一緒に、本堂に入って読経する。端正な背筋を見せて、導師を務める講元様、鐘の音が、胸に染み入ります。みんなで、斉唱する般若心経・観音経は、ただ、一人で読誦するのとは違って、講員の皆さんと唱和すると、胎の底から声を出し、仏さまに、届けとばかり、念仏を唱えるような気持ちで、「経文」を訴えるような気持ちでお唱えすることは、普段とは違った心境に浸されます。有り難いことです。
読経の後の、瞑想のひと時もいいものです。瞑想=精神集中のひと時です。周囲の雑念を遮断して、精神を一心に集中させるのです。それこそ、こころの中に、つもり積もった妄執やしつこい欲望を、徹底的に、雲散霧消させ、清浄のこころの世界を現出させる努力の一念を賭ける真剣勝負です。自分の正しい心の動きが見ることができればいいのですが・・。まだまだ、力が足りません。
高原講元様のご指南で、皆さん、背筋を端正に伸ばし、足を膝の上に乗せて、「座禅」を組む姿は、もう、大悟した仏様のように見えます。恐らく、各人各様に、それなりの悟りを開いておられるのではないかと思います。羨ましいことです。
この日の護国寺は、お茶会などの催しも無く、参拝する人もまばらで、深閑とした佇まいでした。私たちが本堂でお勤めを始める前には、正装した若夫婦が生まれたての赤ちゃんを抱いて僧侶に無事生育祈願をしてもらっていました。
ご夫婦の親御さんや、身内の人たちも周りを取り囲むように集まっていました。この赤ちゃんに、この若夫婦に、そして、ここに参集した人たちに、護国寺のご本尊如意輪観音、お大師様あるいは多くの神仏に良いご縁が出来ますように、祈られずにはいませんでした。
私たちも、高原講元様のご指導を戴いて、ここ護国寺参拝の機縁を戴き、護国寺に通いだし、礼拝する、「ご縁」を頂いて、どの位になるでしょうか。私の場合は、10年を超えるのではないかと思います。(正確な年月は、後刻、調べた上で、ご報告します。)思えば、大きな「ご縁」を頂いていたのです。月、一度の参拝ですが、片道、電車で、一時間五十分かけてのお参りです。いい運動にもなっています。今までは、感じなかったのですが、良く考えてみると、これは、 神仏から頂いた大きな「お蔭」かもしれないと思っっている第です。
護国寺での1時間の参拝のあと、恒例の茶話会です。ここでは、高原講元様の、福聚講のブログのような高等な宗教学や宗教哲学のような難解な内容の話ではなく、打ち解けた、雑談座談のひと時です。この日は、高原講元様から、「大統領選等を見ても最近世界的に人の心が荒れる傾向にあるように見える。お釈迦様はインドの王子様という世俗の大栄華を棄てて出世間の価値を求めて出家された。我々も時々は世俗の金・権力を超えたものに思いを巡らせる時間があってもよいのではないか・・。」「お参りを重ねると、何とも言えない有難さが体から湧き上がってくる。これは言葉で伝えることはできない、まさに各自の体で感じる他ない・・。」等のお話しが多々ありました。
で、私がモットーにしているお釈迦さまの言葉を一つ掲げてみます。
「怒りを捨てよ。慢心を放り出せ。あらゆる束縛を超越せよ。
名称と形態(すべての存在)に、執着せず、無一物でいる者は
苦悩に攻められることがない
ダンマパダ221 心の平安は、物を捨てるときに訪れる。」
都会の喧騒から隔てられた静寂と閑静に包まれた真言宗豊山派大本山の護国寺の境内。山門から、一歩、境内に入ると、そこは、凛とした張り詰めた空気が漂い、山門を潜る前まで、極め付きの煩悩と執着にはち切れそうだった頭の脳味噌が、一瞬、ろ過されて180度反転し、無心、空っぽになり、密厳極楽浄土に、立つような感じにさせられます。
折から、護国寺の境内は、秋一色に彩られ、紅葉、楓、土檀つつじの木々が研を競うかのように、赤・黄・茶など色取り取りに、木々が、秋色に映えていました。しかし、自然というか、宇宙というか不思議なものですね。今季節は、秋たけなわなのですが、その秋の中に、そっと静かに、もう冬の気配が段取りされているのです。昨日まで、降っていた雨上がりの空気が冷たく、冷え冷えと寒い日でした。
歌心があれば、一句が浮かぶのでしょうが、折角、久々の密厳浄土に酔いしれていますので、下手な一句を搾り出すため頭を痛めるのも、はばかれます。高野辰之の名歌・「紅葉」を口ずさみましょう。
「秋の夕日に 照る山紅葉 濃いも薄いも 数ある中に 松を彩る 楓や蔦は 山のふもとの 裾模様 ・・」
いささか長いリードになりましたが、11月19日(土)15時、福聚講(高原耕曻講元)は、東京・文京の護国寺で、定例参拝を行いました。そのときの、護国寺の雰囲気を記してみた次第です。ひさびさに、高原講元様始め、講員の皆さんの元気な風貌に接し、ご一緒に、本堂に入って読経する。端正な背筋を見せて、導師を務める講元様、鐘の音が、胸に染み入ります。みんなで、斉唱する般若心経・観音経は、ただ、一人で読誦するのとは違って、講員の皆さんと唱和すると、胎の底から声を出し、仏さまに、届けとばかり、念仏を唱えるような気持ちで、「経文」を訴えるような気持ちでお唱えすることは、普段とは違った心境に浸されます。有り難いことです。
読経の後の、瞑想のひと時もいいものです。瞑想=精神集中のひと時です。周囲の雑念を遮断して、精神を一心に集中させるのです。それこそ、こころの中に、つもり積もった妄執やしつこい欲望を、徹底的に、雲散霧消させ、清浄のこころの世界を現出させる努力の一念を賭ける真剣勝負です。自分の正しい心の動きが見ることができればいいのですが・・。まだまだ、力が足りません。
高原講元様のご指南で、皆さん、背筋を端正に伸ばし、足を膝の上に乗せて、「座禅」を組む姿は、もう、大悟した仏様のように見えます。恐らく、各人各様に、それなりの悟りを開いておられるのではないかと思います。羨ましいことです。
この日の護国寺は、お茶会などの催しも無く、参拝する人もまばらで、深閑とした佇まいでした。私たちが本堂でお勤めを始める前には、正装した若夫婦が生まれたての赤ちゃんを抱いて僧侶に無事生育祈願をしてもらっていました。
ご夫婦の親御さんや、身内の人たちも周りを取り囲むように集まっていました。この赤ちゃんに、この若夫婦に、そして、ここに参集した人たちに、護国寺のご本尊如意輪観音、お大師様あるいは多くの神仏に良いご縁が出来ますように、祈られずにはいませんでした。
私たちも、高原講元様のご指導を戴いて、ここ護国寺参拝の機縁を戴き、護国寺に通いだし、礼拝する、「ご縁」を頂いて、どの位になるでしょうか。私の場合は、10年を超えるのではないかと思います。(正確な年月は、後刻、調べた上で、ご報告します。)思えば、大きな「ご縁」を頂いていたのです。月、一度の参拝ですが、片道、電車で、一時間五十分かけてのお参りです。いい運動にもなっています。今までは、感じなかったのですが、良く考えてみると、これは、 神仏から頂いた大きな「お蔭」かもしれないと思っっている第です。
護国寺での1時間の参拝のあと、恒例の茶話会です。ここでは、高原講元様の、福聚講のブログのような高等な宗教学や宗教哲学のような難解な内容の話ではなく、打ち解けた、雑談座談のひと時です。この日は、高原講元様から、「大統領選等を見ても最近世界的に人の心が荒れる傾向にあるように見える。お釈迦様はインドの王子様という世俗の大栄華を棄てて出世間の価値を求めて出家された。我々も時々は世俗の金・権力を超えたものに思いを巡らせる時間があってもよいのではないか・・。」「お参りを重ねると、何とも言えない有難さが体から湧き上がってくる。これは言葉で伝えることはできない、まさに各自の体で感じる他ない・・。」等のお話しが多々ありました。
で、私がモットーにしているお釈迦さまの言葉を一つ掲げてみます。
「怒りを捨てよ。慢心を放り出せ。あらゆる束縛を超越せよ。
名称と形態(すべての存在)に、執着せず、無一物でいる者は
苦悩に攻められることがない
ダンマパダ221 心の平安は、物を捨てるときに訪れる。」