福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

弘法大師御訓抄

2010-06-02 | お大師様のお言葉
「それ生は我が願いにあらざあれども、無明の父我を生ず。死は我が欲するにあらざれども因業の鬼、我を殺す。生は昨日の如くなれども霜鬢(そうひん)忽(たちまち)に催(もよお)す。強壮は今朝、病死は明夕なり。徒(いたずら)に秋の葉の風を待つの命を恃んで空しく朝(あした)の露の日を俟つの形を養う。この身の脆きこと泡沫の如く、我が命の仮なること夢幻の如し。無常の風忽に扇げば四大瓦の如く砕け、閻魔の使乍(たちまち)み来(きた)るときは六親誰をか頼まん。(性霊集)

 三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識(さと)らず、生まれ生まれ、生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死んで死の終わりに冥し。我を生する父母も生の由来を知らず。生を受(うく)る吾が身も亦、死の所去(しょこ)を悟らず。過去を顧れば冥冥(みょうみょう)としてその首(はじめ)を見ず。未来に臨めば漠漠(まくまく)としてその尾(おわり)を尋(たずね)ず。日夕に営々として衣食(えし)の獄につながれ、遠近を趁(はし)り逐(お)って名利の坑(あな)に堕つ。凡夫は善悪に盲いて因果あることを信ぜず。但し眼前の利を見る。何ぞ地獄の火を知らん。羞ずることなくして十悪を造り空しく神我ありと論ず。執着して三界を愛す、誰か煩悩の鎖を免れん。(秘蔵宝鑰上)
凡そ身病を治するには必ず三つの法に資(よ)るなり。一つには医人、二つには方経、三つには妙薬なり。如来衆生の心病を治したまふことも亦復かくの如し。佛は医王の如く、教えは方経の如く、理は妙薬の如し。理の如く思惟(しゆい)するは猶し薬を服するが如し。法に依って薬を服すれば罪を滅し果を証す。妙薬は病を悲しんで興り、佛法は障(さらり)を愍(あわれ)んで顕(あらわ)る。この故に聖人(しょうにん)の世に出(いず)ること必ず慈悲によるなり。(秘蔵宝鑰中)善知識善友の力、大導師大慈の功に非(あら)ずよりんば何ぞ能く流転の業輪を破して常住の佛果に登らん。(性霊集)

悟れる者をば大覚(ほとけ)と号(なず)け、迷える者をば衆生と名ずく。衆生凝闇(ちあん)にして自ら覚るに由なし。如来加持して其の帰趣(きしゅ)を示したもう。(聲字實相義)法身の佛は常に光明を放って常に説法したもう。而(しかる)を罪を以ての故に見ず、聞かざることたとえば日出(い)ずれども盲者は見ず、雷てい地を振えども聾者は聞かざるが如し。是(かく)の如く衆生の心清浄なるときは即佛を見、若し心不浄なるときは即ち佛を見ず。(辯顕密二経論下)心暗きときは即ち遇う所悉く禍なり。眼明らかなるときは即ち途(みち)に触れて皆宝なり。(性霊集)衆生は悟らずして長夜に苦を受け、諸仏は能く覚って常恒(じょうごう)に安楽なり。医眼(いげん)の見る所は百毒薬と変じ、佛恵(ぶって)の照らす所は衆生即ち佛なり。(平城天皇潅頂文)

 それこの身は虚空より化生(けしょう)するにも非ず、大地より変幻するにも非ず。必ず四恩の徳に資(よ)りてこの五陰(ごおん)の体を保つ。風(ほのか)に聞く、三世の如来、十方の菩薩、四恩の徳を報じて悉く菩提を証すと。(性霊集)菩薩の用心は皆慈悲を以って本となし、利他を以って先と為す。よくこの心に住し浅執(せんしゅう)を破して深経に入るるは利益(りやく)尤も広し。(秘蔵宝鑰)

夫れ(それ)仏法遥かにあらず。心中にして即ち近し。真如外(ほか)にあらず。身を棄てて何(いずく)んか求めん。迷悟我に在れば発心すれば即ち到る。(般若心経秘鍵)若し人佛慧(ぶって)を求めて菩提心に通達すれば父母所生の身(しん)に速やかに大覚(だいかく)の位を証せん。(即身成仏義)」


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