福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

角田さんから貴重な原稿を頂きました

2014-09-22 | 講員の活動等ご紹介
「高原講元、御提唱の『近所にマイ神仏霊場を作ろう』運動の一環で。

私は、9月12日から15日まで、九州・福岡・佐賀に滞在してきました。
私が、五十年前、新聞記者をしていた時代に、何かと面倒を見てくれた他社の記者A氏の納骨式が14日にあったので、立ち会うために、行ってきたのです。

本題に入る前に、福岡行きの経緯を少しく、お話しして置きましょう。新聞記者のジンクス話として、ブン屋の友情は、自社の人間より、他社の人間と出来やすく、かつ、長く続くものだと。いわれていますが、そのいわれの通り、今日まで続いていました。

A氏とは、五十年前、東京での、警視庁担当の事件記者仲間で、私より6年、年上の先輩でした。取材の仕方、原稿の書き方など、手ほどきを受けました。そのあとA氏は、九州・福岡に転勤して、幹部記者として活躍。昭和44年、私も、ブン屋を廃業して、IT産業の会社に入り、福岡で、再出発しました。A氏とは、福岡で再会し、私の会社の記事を、よく書いてくれたものでした。旧制佐賀高校から、新制佐賀大学の出身で、母校に心酔して、大学に八年(落第ではありません)も留まって、母校の誇りや伝統を先輩や後輩に伝えるなどの熱血好漢ぶりは学生たちに慕われ、尊敬を集めていました。

そのA氏が、10年前、脳出血で倒れ、体の右半身が不随になり、自由が利かず、介護施設で療養に努める身になったのです。苦心して利き腕でない左手で文字を書く訓練に努め、手紙などが書けるようになりました。が、今年5月、肝心の左脳の血管に溢血が起こり、意識が不明の病状になりました。こうして、
私は、5月、お見舞い、7月、危篤の知らせで駆けつけ、一命を取りとめましたが、7月28日、死去、葬式。9月14日、中陰明けの納骨式と、その都度、福岡に行き、立ち会ったのでした。

A氏は、子供はなく弟妹、眷属とも没交渉のようでした。このため、姉さん女房の88歳の奥さんが、たったひとりで、A氏を、10年もの間、介護施設に通い、介護の世話を果たしてきたのと、葬式、納骨も、ただ、ひとりで、行わなければならなかったのです。学校教師の経験を持っている気丈な奥さんですが、腰が曲がり、買い物は、タクシー。すべて、この未亡人(この言葉は死語になったでしょうね)一人で、取り仕切らなければなりません。こうして、私とカミさんは、A氏の未亡人に、微力ながら、付き添い、お手伝いをすることで、少しでも、力ずけ、慰めることが出来ればと、福岡を往来していたわけです。
戦後、高度経済成長を遂げた日本の家庭・家族生活に与えた数々の影響を、目の当たりに見る思いがしました。昔は、一家団欒、爺さん婆さんが居て、孫の子守や躾けに余念がなく、三世代が、狭いながらも楽しい我が家を形作っていました。特に、衣食住に関する子供の「躾け」は、念が入っていたように思います。寝布団の上げ下げ、箸の上げ下ろし、縁側の拭き掃除など、口うるさく言われたものです。勿論、神棚・仏壇には、ことある毎に、手を合わさせられたものでした。しかし、近年になって、個人主義の主張がまかり通り、核家族となり、子供たちは、成人になると、さっさと、居住を引き払い、自分の都合の良い生活ができる所に越してゆきます。当然、「躾け」「作法」を知りません。学校では、「躾け」「作法」は教えられません。それで、いま、本屋さんでは、昔、生活の知恵と言われたものが「躾け」「作法」を教える、ハウツー物の本が、、洪水のように、出版されています。テレビも、同様です。

老年の人も例外ではありません。老年の処世の経験がないため、老年の生き方に関する本が、続々、出版されています。いわく、老後の生きがいとは、老後の資産運用、老後の人間関係、死ぬまでにすること、子供の世話にならないようにするには、等々、きりがありません。ましてや、昔は、隠居さんと呼ばれご近所で親しまれていたものでしたが。

Aさんも例外ではなく、これから、この、残された未亡人の奥さんの、孤独な生活を思うと、蔭ながら、胸が痛む思いがしてなりません。今度は、この奥さんの番が確実に来ます。幸い、気丈で、元気そのものの、勝気な性格の人なので、心強く思っているのですが。

ところで、その未亡人の奥さんが、12日夜、友人が経営する店と言って、我々を招待してくださった。福岡・博多には、ミシュラン三つ星を受けた店が二店あるそうですが、そのうちの一店・料亭でした。ミシュランの店とあり、おもてなしは、上々でした。そのときです、品の良い初老の仲居さんが、「今日から、博多は、放生会が始まり、今頃、参道を歩く人は、自分の足が見えんほど、出てるバッテン。ヨカデスヨ。明日にでも、イッテミンシャイ」と勧められたのです。

という訳で、ながなが、お付き合い戴き、有難うございました。
これから、本題の、高原講元が、提唱しておられる、「近所に神仏の霊場を作ろう」の本題に入ります。

9月13日、福岡・箱崎の「筥崎宮」で催されている「放生会」(ほうじょうえ)に詣でることにしました。自宅近くの神仏社などにお参りを始めましたが、旅先でも欠かさずお参りすることを自分の務めとして果たしてゆくことを誓っているからです。

博多・筥崎宮の「放生会」は、博多三大祭り(春の博多どんたく・夏の博多祇園山笠)として、博多を代表する秋の大祭です。そのいわれは、万物の生命をいつくしみ、殺生を戒める神事です。私たち人間は、他の生命あるものの犠牲の上に成り立っています。物言わぬ動物や植物の生命のお蔭で、私たちは、生きている。生かされているのです。「放生会」は、私たちの犠牲になったあらゆる生き物の「霊」を慰め、感謝の気持ちを捧げる供養祈願のお祭りなのです。

この「放生会」の起源は、延喜19年(919年)から、行われており、江戸時代には、筥崎宮は、福岡藩主・黒田家(黒田如水=官兵衛)の心の拠りどころとなり、盛んになったといいます。黒田官兵衛は、慶長5年(1600年)、筑前黒田藩・初代藩主として、52・3万石領主となり、慶長14年(1609年)筑前一ノ宮としての筥崎宮に、武運長久・和平祈願の願いを持って、本殿前に、一ノ鳥居(国指定重文)を奉納しました。この鳥居は、元寇の役で、元軍14万を壊滅した霊験があり、佐賀伊万里湾の古戦場に産する阿翁石で作られ、見るからに力強い。八幡鳥居の原型になったと言いいます。明治時代の神仏分離令で、放生会は、「仲秋祭」と改名されたが、博多っ子は、以前通り、「ほうじょうや」と呼び続け、戦後、「放生会」と復活したといいます。

筥崎宮は、筥崎八幡宮ともいい、宇佐、石清水両宮とともに、日本三大八幡宮に数えられています。御祭神は、応神天皇・神功皇后・玉依姫命。文永11年(1274年)蒙古襲来により炎上した社殿再興に当たって、亀山上皇が納められた「敵国降伏」の宸筆(親筆)は、楼門高く扁額として掲げられている。文禄年間、筑前領主・小早川隆景が、楼門造営した際、謹写拡大したものだという。
いま、八方攻めに会っている日本政府の外交に、この「敵国降伏」に昔の人の心意気を見習ってもらいたいものだと思いますね。

私は、自分の心の奥深く、他の生き物のいのちを犠牲にしなければ生きることができないと言う生動物界の不条理・自己矛盾について、解のない疑問と、人間の悪業とも言うべき宿命に悩み、悔やみをもっています。神は、どうして、他の生き物の命をとらねば生きられない存在を造りたもうたのか?東京・高尾山の山門脇に、大きな石碑が建てられてあり、「殺生禁断」と揮毫されている。しかし、現実はどうだろう。人間存在は、心身ともに、「殺生奨励」ではないか。弱肉強食の修羅場ではないだろうか。動植物が生きるのは、食物循環の連鎖であるため、小さいものが大きいものに食われるのは、自然の法則である。と言う説明も、こじつけのようで、納得がいかない。

が、「放生会」のように、万物の生命を慈しみ、殺生を戒める、と言う昔の人が悲しく、優しい心根に、深い感謝と慰藉の念を持って居たことと、それが、いまなお続いているということで、よしとするほかないのだろうか。

「放生会」は、18日まで催される。長い参道の両側には、たこ焼き、焼き鳥、金魚すくい、そして、商魂抜け目なく雪の女王とアンのフィギャー売り、など、200~300の様々の物売り屋台が、さながら、小さな町を形作っているかのように立ち並び、その中を、参詣客が、押すな押すなと、ひしめき合っている。ゆっくり、般若心経をお唱えることは、とても出来ないほどでした。
このあと、西鉄バスで、佐賀市内に向かいます。

9月14日、佐賀のホテルで、福岡から、タクシーで飛ばしてきた、A氏の未亡人の奥さんに私たちを拾ってもらい、佐賀・小城にある、A氏の菩提寺である圓明寺(佐賀県小城郡小城町)に、A氏の納骨に行く。見渡す限り緑が眩しく光る稲田と野原が、広がる。小山の高台にある同寺から、四方を見渡すと、360度近く、青空が広がっているように見えた。空と言うか、まさに、「天」と言うにふさわしい。東京の都会では、空は、狭く、小さいように見えるのと対照的です。

圓明寺の由緒・寺歴は、定かでない。天台宗の古刹に伝わる古文書などから、鎌倉末期の元徳年間(1329年~)から存在していたらしい。ご本尊は、地蔵菩薩。佐賀県重要文化財に指定され、秘仏になってる。年一回のご開帳は、8月下旬と言う。昭和57年7月、裏山が、集中豪雨による土砂崩れのために、本堂が倒壊してしまった。不思議なことに、地蔵菩薩像は、瑕ひとつなく、無事だったと言う。檀家・村人が、日ごろ、尊崇していた、地蔵菩薩が無事だったことに勇気付けられ、翌58年、檀家たちが、協力一致して、本堂を再建元通りに復興させたそうです。

田畑に囲まれ、自然とともに生計をともに、慎ましく生きる村人たちの、真摯で、素朴な、心情で、一心に、地蔵菩薩にすがり、救いを乞う信心のあり方は、とかく、観念・理屈で推考する癖のついた私たちの信仰より、身近で、具体的な、仏心を感じる素直さを思わせられた。住職も、60歳代で、真夏日の暑さで、初め、なじみ檀家なので、気さくに、肌着姿で応対。納骨の用意では、白衣衣装、供養法要では、正式の袈裟衣装、墓石に納骨の際には、黒墨染めのロウの衣装と、次々着替えて、変化する。大本山で君臨する法衣袈裟に固めた、近寄りがたいサラリーマン然とした僧侶より、身じかで、親しみやすい気さくなお坊さんである。坊さんと言うより、身近な、お地蔵さんにも見えるのが不思議である。観音が、身を変化させて、私の前に居られるようである。田舎のなまりの話し方もいい。自然、落ち着ける雰囲気。田舎の、そう裕福には見えない山村で、こんな、大きな本堂や、庫裏の建物を維持することは、容易ではないはずだ。自然、尊敬の念が、湧いてくる。

9月14日、午後、佐賀から在来線特急列車で、20分、肥前鹿島駅に着く。もう、16時30分は過ぎている。寺の閉門までに間に合うだろうか。タクシーで飛ばすが。ここは、今回、私が、ぜひ、お参りしたいお寺・新義真言宗・大本山・誕生寺。興教大師覚鑁聖人のご生誕の地の寺。私が、もっとも、尊崇している聖人の寺である。

ああ駄目だ。本堂も、庫裏らしき所も、皆,閉ってしまっている。落胆の溜め息が出る。だが、人影が、ガラスの奥に見える。思い切って、声をかけてみる。気さくそうな、小柄の老僧が、さもない格好で、ああお参り?いいよ、いいよ、と気軽に招いてくれた。その上、本堂の扉を開け放ってくれ、本堂の奥へと迎え入れてくれたのだった。

「さあ、さあ。どうぞ。どうぞ。興教大師さんと、お不動さんの真ん前に行き、間近に、見てくだされ。遠慮なくね」と。「敷いてある赤い毛氈沿いに歩くといいよ」と教示してくれる。気さくな坊さんだ。

すっかり、畏しこまって、改めて、ご挨拶する。老僧師は、ニコニコと話し出した。

① 興教大師像と、錐鑽身代不動明王像は、文科省から国宝の指定を受託するようにこれまで、何回も催促を受けたが、すべて断り、頑として、応じないで来ている。もし、国宝の指定を受けると、厳しい制約や、制限がなされて、これまでのように、像に身近に近寄つて、拝顔できなくなる。また、傍に寄って、拝願も出来ない。何のための像なのかわからなくなる。身近に、礼拝出来るようにしている。だから、今でも、重文指定を断っている。

② 此の誕生院は、興教大師の教え。世の中の人々が、心を許して、救われるようにと願った教えに沿って、みんな、誰でも、此の、寺、本堂などを、自分の家の、別荘と同じような心休まる所にしたい。だから、自分の、別荘に居るつもりで、訪ねてほしい。興教大師は、世の中の人々を救うために、一切の罪を懺悔して、人々に代わって、苦悩を受け、私たちを、救ってくださる。その大師の間近に居て、懺悔し、祈願すること。別荘に居るような気楽な気持ちでね。と

③ 覚鑁が、高野山で、修行していた頃は、弘法大師空海が、亡くなって300
年が過ぎていた。空海が、確立した、教義戒律にも乱れが出てきた。既得権益
 に執着する上位僧、金銭糧食の獲得に憂き身をやつす下位僧らの、高野山
 内部に、腐敗、乱脈ぶりが跋扈した。こうした惨状を、覚鑁は深く、憂慮し
 自ら高野山の建て直しと、空海の教義を回復させようと立ち上がる。覚鑁に
. 帰依していた鳥羽上皇に許しを得て、高野山内に、「大伝法院」と「密厳院」
 の修練の場となる寺院を建立する。天承元年(1131年)座主に就任、同
 時に、高野山・金剛峰寺の座主も兼務する。38歳の頃である。
 この頃の佛教は、貴族の魂の救済に当てられていた。しかし、覚鑁は、下位
 に居る庶民の人たちにも、念仏を唱えられるようにしなければならないと、念
 仏を唱え全国各地で行脚して、庶民に布教活動行う「聖」の活動を重視した。
 この「聖」たちの活動は、空海の教えを広く世に伝えたいと願う覚鑁の修行
 に、大きな支えとなった。

④ 庶民に広く教えを伝えようとする覚鑁の行動に、多くの既得権益を得ていた僧侶たちは、覚鑁に反発,保栄6年(1140年)、高野山の僧兵達が決起、「大伝法院」「密厳院」を急襲して、焼き討ちし多くの僧侶たちが殺害され
ると言う大惨事が発生した。宗教戦争の勃発である。覚鑁にも刺客が送られた。このときの伝説で、覚鑁が、不動明王後ろに、身を隠していた所を刺客が見つけ
切り込んだ。ところが、木像でありながら、覚鑁の身代わりになって、生き 
血を流して、難を救った。これが、錐鑽身代不動明王である。だが、覚鑁
は、一切、武力による対抗を禁じ、1000日に及ぶ無言行を,自からに課し、自ら、身を引いて、高野山を下りた。紀州・根来山(和歌山県)に移り、円明寺や神宮寺を、創建して、独自の教
義を追求した。康治2年(1143年)12月12日、風邪がもとで49
歳の生涯を閉じた。しかし、覚鑁が亡くなる頃でも、高野山の僧兵は、覚鑁を襲い続け、寺々を襲撃し、狼藉を働いていたと言う。。

ここまで、この老僧の話を聞いてきたが、この人は、一体誰だろう?勇を鼓して、恥を厭わず、尋ねて見た。老僧は、ニヤリと一笑、「わしは、この寺の貫主よ、次が執事、女房は、内儀と言う。この寺は、大本山なので、住職っといわず「貫主」と言うのだよ。と、教えてくれた。とたんに、私の全身に、戦慄が走った。

⑤ 覚鑁は、高野山が崩壊の危機に晒された中で、弘法大師の教説と庶民に広く教えを伝播させようと、懸命に、独自の教義を追求した。覚鑁の教えは、新義真言宗として、新しい真言宗派が誕生する。古義真言宗は、本地身説法=最高佛である大日如来が自ら説法すると言う説、にたいし、新義真言宗では、加持身説法=大日如来が説法のため、修行した僧侶の身に同化し教えを説く、という教義上の違いがある。

⑥ さらに、弘法大師は、三密成仏、身・口・意の三業所作の加行を重視するのに対して、興教大師は、一密成仏、身・口・意の三業所作のうち、いずれの所作のひとつの所作のみで祈願すればよいと、提唱された。この思想が、後に、法然上人に受け継がれ、一心に専修念仏、「南無阿弥陀仏」とお唱えするだけで成仏できると言う思想に繋がることになった。だから、川崎大師での御開帳の時に戴く、「赤札」のお守りには、「南無阿弥陀仏」のご朱印があるのです。

⑦ 覚鑁は、三つの大師号がある。自性大師・本覚大師・興教大師。興教大師という称が贈られたのは、実に、覚鑁が亡くなったあと、550年後のことだった。

山口光完貫主が、誕生院に入ったのは、70年前、敗戦後、十数年たった頃であった。本堂は、畳や床板がはがされ荒れ放題になっていた。山口貫主は、襖を張り替えたり、寺の改修作業を行い、誕生寺の再建を図った。境内には、覚鑁上人が、産湯を使ったといわれる井戸がある、貴重な遺産であり、覚鑁上人の信仰を伝えてゆくことが、生誕の地に建つ寺の使命だと思い、今日に至っている。

八十歳を疾うに越してしまったという、山口貫主は、いまは、穏やかな身ごなしをしておられるが、お若い頃は、相当、きかん気の頑固な人だったのではないか。話の中で、この誕生寺を多くの人に知られる様にするには、なんとしても、国鉄の特急列車が、停車する駅にしなければならない。山口貫主は、当時の国鉄に交渉したが、埒が明かなかった。あるとき、国鉄から、一ヶ月間に、20万人乗降客を集めたら、希望をかなえようと言う提案があつた。このため、山口貫主は、日本全国の知り合いの人に頼んで、20万人を集め、特急列車を、「肥前鹿島」に停車するようにした、「秘話」を聞いた。
この自分の希望を実現するまで、不撓不屈の精神がなければ到底出来ないことだと、ただただ、感心する。

いま、誕生院は、5200坪の境内を擁し、その手入れも大変だと言う。波乱の生涯を生き、高野山・弘法大師の教義を守り、再興に全身全霊をかけた覚鑁は、「中興の祖」と称されるようになる。その、覚鑁の高い遺志を語り継ぐためにも、境内の手入れは、手を抜いてはいけないと、自分に言い聞かせ、日課のように、遅遅ではあるが、草木の手入れをしていると言う。

山口貫主の話を聞きだしてから、既に、1時間30分は過ぎていた。次の、祐徳稲荷神社にもお参りしたい。そこで、山口貫主に、自己紹介方々、「福聚講」を説明、何時かご縁があったら、講員ともども、再来して、山口貫主と、座談したい。と言うと、「いいことだ、わしは、話をするのが大好きだ。夜を徹して、話し合おうじゃないか。いいことだ。」と、呵々と笑われた。

まだまだ、書き残す話があったが、残念ながら、メモを取る暇なく、私は、あの親鸞聖人の話し言葉を聞き、「歎異抄」を書いた「唯円」のような、才覚もないので、手際よくまとめられなかったが、また、次回、続きがまとまれば、ご紹介したいと思います。

夜7時近く、祐徳稲荷神社に駆けつける。佐賀地方は、東京より、夜になるのが、1時間ほど遅い。門前に立ち並ぶみやげ物店は、すべて、固くシャッターが閉じられ、人っ子一人として、いなかった。心細い思いがしたが、朱色に彩られた、川にかかる橋の欄干、京都・清水寺を思わせる、井桁の高い支柱の上にそびえる社殿。朱色の乱舞で、目も鮮やかな、雰囲気が、心を酔わすようだった。

神社としては珍しく、総漆朱塗りの山門があり、荘厳な門張が、下げられ、両脇に四天王ならぬ、弓矢をたづさえた「随神」が2体。有田焼の陶器でつくられていた。その裏側には、新聞紙2面大の有田焼の草花を描いた陶板が、献納されており、いかにも陶器の国であること思わせられた。濃い緑の木々に囲まれた神殿の総漆朱色が生えて、神域一体は、極楽・密厳国土にいるようだ。社務所に裸電球の明かりがともっている。早速、御朱印を戴けるか。もう7時は当に過ぎている。呼び鈴の音で出てきた神官。快く、御朱印をいただけるという。有り難い。田舎ののんびりした、のどかさが、何ともいえない癒し心を与えてくれる。

祐徳稲荷神社は、別名、鎮西日光とも言われ、伏見稲荷大社と並び三大稲荷のひとつ。、貞享4年(1687年)、肥前鹿島藩主・鍋島直朝公の夫人・花山院・萬子媛が、朝廷の直願所であった稲荷大神の御分霊を勧請。貞享4年(1689年)石壁山に社殿を建立、萬子媛が、嫁ぐ時、父親の左大臣花山院定好から授かった稲荷大社の神鏡を備え、奉仕した。宝永2年(1705年)山窟で、断食。入定したという。以後、萬子媛の諡名から、祐徳院と呼ばれ、霊験の信仰を集めた。主祭神は、倉稲魂大神(ウカノミタマノオオカミ)・大宮売大神(オオミヤノメノオオカミ)・猿田彦大神(サルタヒコノオオカミ)

社内に、椰の大木があり、この木の葉脈が、縦に入っているため、引っ張っても千切れないことから、縁結びの神葉として、守られている。また、社内にある、神社の鳥居や灯篭には、さすが、有田の陶器の地とあって、全国でも珍しい有田焼の陶器の白磁で作られ、目を楽しまさせてくれる。

明治時代の神仏稀釈によつて、仏式による行事は、なくなったが、さきの、誕生院・山口貫主の話では、その昔、誕生院と祐徳稲荷は、深い関係があり、祐徳稲荷のご神体も、預かっていたことがあったという。

9月14日、さらに足を伸ばし、唐津に行く。佐賀から、単線、JR気動車で、1時間20分。唐津神社に詣でる。唐津神社は、御祭神・住吉三神で、底筒男命(ソコツツノオノミコト)・中筒男神(ウワツツノオノミコト)。
神功皇后が、三韓へ渡海、出発する際、道中安全を住吉三神に祈願。無事帰国した後、御神徳あらたかなることを感じ、松浦の海辺に宝鏡を掲げ、住吉三神の御霊を祀つたことが、この神社の縁起であると言う。

11月2日から、4日にかけて、祝われる唐津神祭(唐津おくんち)は、唐津最大の秋祭り。秋季例大祭である。「くんち」とは、「供日」と書き収穫感謝の意味が込められていると言われる。

唐津市は、佐賀県で、佐賀市に次ぐ、人口20万近くの都会と言われるけれども、JR駅前の、商店街や、長いアーケイド街は、殆どの店が、シャッターを下ろし、「賃貸物件」の張り紙が張られ、暗く、寂しい光景だった。開業している店は、有田陶器の店など、数えるほど。駅前の、立地条件がいいところであるだけに、悲惨だ。地方と都会、特に、東京一極集中の経済格差が問われて久しいが、地方都市の繁華街には、昼夜を問わず、人影が全くなく、商店は、閉店が殆ど。辛うじて、居酒屋が、目に付くだけである。地方都市の疲弊ぶりを、目の当たりにみる。これは、佐賀市でも、同じ、光景がみられた。東京一極集中の弊害は、地方都市を疲弊するだけで、これから、日本はどうなるのだろうと、心配になる。

9月15日、敬老の日である。この日、帰京する前に、佐賀市で一番大きな「佐嘉神社」にお参りする。この神社の祭神は、佐賀藩10代藩主・鍋島直正と11代藩主・鍋島直大を、祭る。直正は、藩政改革を行い、大隈重信や、後藤新平らの人材を育成した。直正は、没後の明治6年(1873年)、威徳を讃えるため鍋島家の先祖を祀る松原神社に南殿を造営、直正を祀った。直大は、戊辰戦争で、官軍として戦い、明治2年、版籍奉還を申し出た。直正は、昭和4年、直正を祀る別格官幣社・佐嘉神社の創建が決定、昭和8年(1933年)、社殿を造営、、昭和23年(1948年)、松原神社に、祀られていた直大の霊を佐嘉神社に合祀した、なお、松原神社は、昭和36年、佐嘉神社と一本化した。

このように、比較的、歴史の新しい神社で、明かな歴史上の人物を弔った神社であるが、昔の人は、人徳篤かった人間を「神」として讃え、崇敬し神社信仰を作ってきた。私の子供の頃は、乃木大将=乃木神社、東郷元帥=東郷神社、広瀬中佐=軍神と、崇めてきたものだった。天皇陛下も、現人神として讃え、毎朝8時には、在満(満州国)国民学校の正門脇に鎮座まします、奉安殿に、整列して、遥拝したものだった。だから、私のDNAには、天皇は、「象徴」であると言われても、「現人神・神様」という、人間存在とは、違った半神半俗の存在であるようになっている。こうした、主張が刷り込まれてしまっている。今となっては、 日本歴史の現代史の中の、最大の汚点だと思う。

が、いずれにせよ、神社は、神の今します所、信仰の対象として、寺院も神社も変わりない。さあ、東京に帰れば、自宅近所にある、寺院、神社を回ろう。今回の九州・福岡行きも、先輩であるA氏の遺霊が私を、招き呼び寄せ、神仏を崇める訓練をするために、発破をかけられたのだと、しみじみ思うのでした。(角田記)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 四国八十八所の霊験その145 | トップ | 四国八十八所の霊験その146 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

講員の活動等ご紹介」カテゴリの最新記事